第8話:突然の視察(トラブル発生)
「……ふわぁぁ……っ」
王立アカデミーの重鎮である老学者が「視察」に訪れるという、私のこれまでの引きこもりニート生活における最大の危機。
その運命の朝を迎え、私は最高級のシルクのシーツに包まりながら、前世の残業明けのような盛大なあくびをかましていた。
「ル、ルセリア様! お目が、お目がウサギさんのように真っ赤でございます! すぐに冷たいタオルと、むくみを取るためのマッサージを!」
「お嬢様、まさか……あのような低俗な娯楽小説を、本当に朝までお読みになられていたのですか……!?」
ベッドの脇で、マイナが半泣きになりながら氷水で絞ったタオルを私のまぶたに当て、テオが絶望したような声を出した。
事の起こりは、昨夜のことである。
「明日、アカデミーの偉い人が来る」と聞かされた私は、最初はパニックになったものの、テオの「俺たちが完璧な防波堤になります」という頼もしい言葉を聞いて、あっさりと安心しきってしまった。
(なんだ、どうせ明日もテオが適当に誤魔化してくれるんでしょ。なら、私が悩む必要なんてないわよね)
そう、前世の社畜時代、「明日は絶対に失敗できない重要なプレゼンだ」と分かっている夜に限って、なぜか深夜アニメを一気見したり、どうでもいいネットサーフィンに没頭してしまったりする、あの現実逃避の悪癖。
それが、6歳の絶世の美少女に転生した今でも、私の魂の奥底にしっかりと刻み込まれていたのだ。
私は、マイナがこっそり街の市場で買ってきた『仮面の騎士と秘密の恋』という、この異世界の平民たちの間で流行っている大衆娯楽小説(前世でいうところの深夜のドロドロ恋愛ドラマのような内容)に手を出してしまった。
「ちょっとだけ……ほんの数ページだけ読んで、すぐに寝るから」
そう自分に言い訳をして読み始めたが最後。その小説のあまりにもツッコミどころが多すぎる強引な展開と、ヒロインの謎の行動原理に前世のツッコミ魂が刺激され、気づけば窓の外からチュンチュンと小鳥のさえずりが聞こえてくる時間になっていたのである。
「あー……うん。面白かったわよ、仮面の騎士。途中で主人公の騎士が突然『俺の右腕には魔竜が封印されている』とか言い出した時は、別のジャンルに変わったのかと思って笑っちゃったけど」
「お嬢様……! 今はそのような考察をしている場合ではございません! もう一時間後には、アルベルト殿がこの屋敷に到着してしまいます!」
普段は冷静沈着なテオが、珍しく焦りの色を浮かべている。
それもそのはずだ。今日やってくるアルベルトという老学者は、王立アカデミーの教授陣の中でもトップクラスの権威であり、かつては現皇帝の相談役まで務めたことのある「知の巨人」なのだ。
「大丈夫よぉ……テオが全部答えてくれるんでしょ? 私は座って、ニコニコしてるだけでいいって……ふわぁ」
「そ、それはそうですが……お嬢様がそのようなお疲れの(眠そうな)状態でアルベルト殿の前に出られれば、彼岸に旅立たれようとしているのではないかと誤解されかねません!」
マイナの必死のメイクアップと冷水マッサージによって、なんとか私の目の充血とクマは目立たなくなった。
マイナが気合を入れて選んだのは、派手すぎず、しかし公爵令嬢としての圧倒的な品格を示す、純白のレースを何層にも重ねた最高級のドレスだった。
しかし、外見をどれだけ磨き上げても、私の脳みそは完全に「徹夜明けのポンコツ状態」である。足元はフワフワと浮いているようで、思考は霞がかかったように重い。
(あー……前世の、徹夜で資料作ったあとの朝イチの会議を思い出す……。胃が痛いし、頭は回らないし、ひたすらベッドに帰りたい……)
◇◇◇
同じ頃、ヴァロワ公爵邸の広大な前庭に、王立アカデミーの紋章を掲げた馬車が到着していた。
馬車から降り立ったのは、神経質そうに眉間に深いシワを刻んだ、白髪の痩せた老人――アルベルト教授であった。
彼は杖をつきながら、出迎えるヴァロワ家の使用人たちを鋭い鷹のような目で見回した。
「ふん。相変わらず、無駄に金のかかった悪趣味な屋敷だ」
アルベルトは、貴族という存在を根底から嫌悪していた。
学問とは、真理を追求するための神聖な行為である。しかし、多くの貴族たちは己の子供の「箔付け」のために、家庭教師に賄賂を握らせ、子供が書いたことにした他人の論文をアカデミーに提出し、無理やり「神童」の称号を買い取ろうとする。
そして今回、彼が目をつけたのが、帝国最大の権力を誇るヴァロワ公爵家の長女、ルセリアであった。
(わずか6歳の小娘が、アカデミーの大学生すら舌を巻くような『領地経済の流通理論』や『魔法史の多角的考察』を提出しただと? 莫迦莫迦しいにも程がある。どうせ、ラインハルト公爵が莫大な金を積んでゴーストライターに書かせたに決まっている)
アルベルトは、自分の残りの学究人生を賭けてでも、このヴァロワ家の「偽りの神童」のメッキを剥がし、帝国の教育界にはびこる腐敗を糾弾するつもりであった。
だからこそ、公爵夫婦の同席を固辞し、「ルセリア令嬢と、彼女の世話をする使用人だけの空間で、純粋な口頭試問を行いたい」と要求したのである。親がいれば、必ず横槍を入れて誤魔化そうとするからだ。
「さぁ、案内したまえ。その『世紀の天才』とやらのお手並みを、たっぷりと拝見させてもらおう」
案内されたのは、公爵邸の中でも最も格式の高い、重厚なマホガニーと金箔で装飾された特別応接室だった。
部屋の隅にはメイド長のマーサが静かに控え、部屋の中央、アンティークの巨大なソファには、一人の幼い少女が座っていた。
アルベルトは、部屋に入った瞬間、思わず息を呑んだ。
そこにいたのは、彼が想像していたような「親の権力を笠に着た、驕り高ぶった生意気なガキ」ではなかった。
純白の髪、透き通るような白い肌。そして、まるで深海のように暗く、静かで、一切の感情を排したような青い瞳。
少女は、入室してきたアルベルトに対して愛想笑い一つ浮かべず、ただ、虚空の彼方(あるいは真理の深淵)を見つめるように、ぼーっと座っていたのである。
(な、なんだこの少女は……? 6歳の子供が放つ空気ではない。この底知れぬ静謐さ、まるで世界中の書物を読み尽くし、すべてに絶望した賢者のような……)
アルベルトの額に、一筋の冷や汗が流れた。
しかし、彼はすぐに首を振って己の直感を打ち消した。
(いかんいかん、外見の神秘性に騙されるな。私が暴くべきは、彼女の頭の中身だ)
「……初めまして、ルセリア・フォン・ヴァロワ令嬢。王立アカデミーのアルベルトと申します」
アルベルトが厳しい声で挨拶をすると、少女はゆっくりと、本当にゆっくりと首を動かし、彼の方を見た。
「……はじめまして、アルベルト様。お越しいただき、光栄です……」
(……声がかすれているな。よほど緊張しているのか、それとも私の威圧感に気圧されているのか)
しかし、実際のルセリアの内心は全く違っていた。
(あー……眠い。このおじいちゃん、話が長そうなタイプだなぁ。前世の監査役のジジイにそっくりだ。挨拶なんてどうでもいいから、早く終わらせて帰ってくれないかなぁ。あー、ベッドが恋しい……)
彼女の目は、徹夜明けの猛烈な眠気によって焦点が定まっておらず、動きがスローモーションになっているだけだったのだ。
「ご挨拶は結構です。私は、貴女の真の実力を測るためだけに参りました。さっそくですが、口頭試問を始めさせていただきたい」
アルベルトは一切の容赦をせず、懐から分厚い書類――かつてテオが完璧な筆跡で代行して提出した、ルセリアの課題の束を取り出した。
「先日貴女が提出された『領地税収と流通の相関関係』のレポートについてです。第三項の前提条件において、貴女は『天候不順による減収』をあえて切り捨て、当時の代官の意図的な流通操作があったと断定していますね」
アルベルトは、鋭い鷹のような目でルセリアを射抜いた。
「しかし、その論拠となる資料は、アカデミーの禁書庫にしかないはずです。6歳の貴女が、なぜその『隠された事実』に辿り着き、あのような高度な数式を用いて証明できたのか。……誰か、優秀な『代筆者』の存在があったと考えるのが自然だと思うのですが、どう釈明されますか?」
応接室の空気が、ピリッと凍りついた。
部屋の隅にいるマーサが、アルベルトの無礼な物言いに怒りで肩を震わせている。しかし、ここで口を挟めば「やはり令嬢本人は答えられないのか」とアルベルトの思う壺だ。
アルベルトは勝利を確信していた。
この難解な問いに、6歳の子供が即座に論理的な反論などできるはずがない。これで彼女は泣き出すか、言葉に詰まり、ヴァロワ家の偽装は暴かれるのだ、と。
しかし。
当のルセリアは、パニックになるどころか、瞬き一つせずにアルベルトを見つめ返していた。
(えっ……なにそれ。前提条件? 流通操作? 代筆者?)
ルセリアの脳内は、完全にショートしていた。
昨日読んだ『仮面の騎士』の記憶が頭を占領しており、アルベルトの言っている難しい言葉が、文字通り「右の耳から左の耳へ」と素通りしていく。
前世のポンコツサラリーマン時代、会議で突然社長から専門的な質問を振られ、頭が真っ白になった時のあの絶望感と全く同じだ。
(やばい、何一つ分かんない。というか、テオが勝手に書いたレポートなんだから、私に聞かれても困るんだけど! そもそも眠すぎて、おじいちゃんの顔が二重に見えてきた……!)
ルセリアの思考は完全に停止した。
これ以上、自分の頭で考えるのは無理だ。前世の社畜魂が「限界だ、丸投げしろ!」と強烈なサインを出している。
ルセリアは、こっそりとあくびを噛み殺し、小さく息を吐いた。
そして、自分の背後――ソファの後ろに彫像のように控えているテオに向かって、チラリと視線を送った。
(テオ……。もう無理、めんどくさい。眠い。あなたが書いたんでしょ? あなたが適当に答えて……)
それは、徹夜明けの上司が、有能な部下に「あとの説明は任せた」とすべてをブン投げる、究極のキラーパス(丸投げ)であった。
しかし、その視線を受け取ったテオの脳内では、またしても壮絶な「勘違い」のパラダイムシフトが引き起こされていた。
(――おおおっ!!)
テオは、主からの視線を受け、背筋に電流が走るのを感じた。
あの物憂げで、すべてを見透かしたようなルセリアの瞳。そして、小さくついたため息。
その意味するものは、一つしかない。
『テオ。この程度の浅薄な質問、私が自ら口を開いて答える価値すらないわ。……私の代わりに、この哀れな老人を論破して差し上げなさい』
(なんという……なんという王者の風格! 相手がアカデミーの重鎮であろうと、決して己のペースを崩さず、格下相手に自ら手を下すことはしない! これぞ、真の支配者の姿!)
テオの全身に、狂信的なまでの忠誠心と、主への絶対的な信頼が燃え上がった。
ルセリアが眠気をこらえて目を半開きにしている顔が、テオには「静かな怒りと威厳に満ちた女神の顔」にしか見えていない。
「……ふむ。やはり答えられませんか。残念ですが、これが現実という――」
「恐れながら、アルベルト様」
勝ち誇ったように結論を急ごうとしたアルベルトの言葉を、凛とした少年の声が遮った。
アルベルトが驚いて視線を向けると、ルセリアの背後に控えていた、見習い執事の制服を着た漆黒の髪の少年――テオが、音もなく一歩前へと進み出ていた。
「な、なんだ君は。私はルセリア令嬢に質問しているのだ。使用人が口を挟むことなど――」
「我が主は、貴方様のそのような『浅薄な問い』に、自らの尊き口を開くのも煩わしいと仰せです」
テオの声は、氷のように冷たく、しかし圧倒的な知性と自信に満ちていた。
「不肖このテオが、我が主の『代弁』を務めさせていただきます。……先ほどの第三項の前提条件ですが、貴方様は根本的な『視点』が欠落しておられる」
「な、なに……!? 孤児の小間使いごときが、この私に向かって学問を語るというのか!?」
アルベルトは顔を真っ赤にして激昂した。
しかし、テオは全く動じることなく、ルセリアから教え込まれた『前世の論理的思考』という、この世界には存在しない圧倒的なビジネス・フレームワークを武器に、反撃の口火を切ったのである。
ソファの上で「あー、テオがなんか喋り始めた。よしよし、これで私は寝られる……」と限界を迎えて目を閉じるルセリア。
そして、その「微動だにしない絶対的な沈黙」を背に受け、王立アカデミーの知の巨人を物理的に(論理的に)ボコボコにし始める最強の孤児。
ヴァロワ公爵邸の特別応接室で、帝国の教育界の常識が根底から覆る「伝説の口頭試問」が、今まさに幕を開けようとしていた。




