第7話:快適な引きこもりライフの完成
人間という生き物は、環境さえ整えばどこまでも堕落できる生き物らしい。
前世、ブラック企業で毎日十五時間以上働き、過労死という形で人生の幕を下ろした私が、今世で辿り着いた一つの真理である。
「んぅ……」
私が微かに寝返りを打つと、極上の羽毛布団が私の動きに合わせて優しく形を変える。
それと全く同じタイミングで、私の寝室の遮光カーテンが、計算し尽くされたかのような絶妙な速度で、音もなく開かれた。
「おはようございます、ルセリア様。本日の帝都は雲一つない快晴でございます。室温、湿度ともに、ルセリア様が最もリラックスできる数値に調整済みです」
「……おはよ、マイナ」
心地よい朝の光と共に、専属メイドとなったマイナが、完璧な温度に温められたおしぼりと、目覚めの一杯であるレモンウォーターを差し出してきた。
私がベッドから半身を起こしただけで、彼女は背中にフカフカのクッションを三つ、私の脊椎が最も負担を感じない角度で配置する。
「お目覚めの具合はいかがでしょうか? 昨夜は『古代魔法史』の課題による思考で、お脳がお疲れかと存じます。本日の朝食は、消化吸収が良く、脳の疲労回復に効果的なベリー類のスープと、白身魚のソテーをご用意いたしました」
「完璧ね。マイナの淹れるお水は、今日も最高に美味しいわ」
「っ……! もったいないお言葉です、お嬢様!」
私がストローでレモンウォーターを少し啜って微笑むと、マイナはパッと顔を輝かせ、嬉しそうに頬を染めた。
スラムから拾ってきて数ヶ月。
マイナのメイドとしての進化は、もはや「有能」という言葉では片付けられない領域に達していた。
彼女は私の「あ」とか「う」という微かな声、いや、呼吸の乱れや視線の動きだけで、私が何を欲しているかを100パーセントの精度で先読みするのだ。
喉が渇いたと思えば紅茶が出てくる。足が冷えたと思えばブランケットがかかる。少し肩が凝ったと思えば、絶妙な力加減の指圧マッサージが始まる。
前世の最新型AIスピーカーなど足元にも及ばない。完全自律型、かつ私への狂信的な忠誠心を内包した究極のパーソナル・アシスタントである。
「さて、今日のスケジュールはどうなっているのかしら?」
私がベッドの上で朝食を優雅にいただきながら問うと、部屋の扉がノックされ、見習い執事の制服を隙なく着こなしたテオが一礼して入ってきた。
「おはようございます、ルセリア様。本日のスケジュールですが……『すべて白紙』でございます」
「……最高」
私は心の中で、力強くガッツポーズをした。
テオは、私が教え込んだ『ヴァロワ式・超速学習ドリル』と『業務マニュアル(SOP)』を完全にマスターしただけでなく、その論理的思考力を応用して、私の『スケジュール管理と防波堤』という極めて重要な役職を担うようになっていた。
公爵令嬢である私には、本来ならば分刻みの厳しい教育スケジュールが組まれている。
しかし、テオはそれを巧みな交渉術と理論武装によって、ことごとく弾き返しているのだ。
「先ほど、歴史の家庭教師であるトマス氏がいらっしゃいました。本日は『帝国建国史における宗教の役割』についての講義を予定しておりましたが、私が事前にお嬢様の『独自の考察レポート』を提出したところ、彼はお嬢様の深遠な思想に打ちのめされ、『私ごときが教えることはもはや何もない』と泣きながら帰られました」
「……えっと、それ、昨日テオが適当に書いてくれたやつよね?」
「とんでもございません。俺はお嬢様から賜った教えを、ただ紙に書き写しただけに過ぎません。すべてはお嬢様の叡智の賜物です」
テオは胸に手を当てて、うやうやしく頭を下げた。
さらにテオの報告は続く。
「また、メイド長のマーサ殿から『社交ダンスとマナーの訓練』の打診がございましたが、これについては『お嬢様は現在、新たな領地経営の概念を脳内で構築中であり、俗世の動き(ダンス)でその崇高な集中を乱すことは、ヴァロワ家にとって莫大な損失となる』と説明いたしました」
「マーサはどう言ってた?」
「『なんと……! あの幼い御身で、そこまでの責任を……!』と感涙し、『決して誰にもお嬢様の邪魔をさせるな』と、廊下の両端に近衛騎士を配置してくださいました。これで、お嬢様の安眠を脅かす物理的なノイズは完全に排除されました」
「……テオ。あなた、本当に前世……じゃなくて、ちょっと前までスラムにいたのよね? 前世の有能な敏腕秘書が転生してきたんじゃないわよね?」
「前世? 秘書? 申し訳ありません、俺の不勉強でその言葉の意味が分かりませんが……俺はただ、お嬢様が『快適に過ごせるように』という至上命題を遂行しているだけでございます」
テオは涼しい顔でそう言ったが、その実務処理能力は異常の一言に尽きた。
彼のおかげで、私はもう何週間も、この部屋から一歩も出ていない。
食事はマイナが運び、風呂はマイナが洗い、課題はテオが完璧な筆跡で処理し、親や教師からの面会要求はテオが適当かつ壮大な理由をつけてシャットアウトしてくれる。
「はぁ〜……天国だわ。これが私の求めていた究極のスローライフよ……」
朝食を終えた私は、再びベッドに倒れ込み、最高の柔らかさを誇るクッションを抱きしめた。
前世の私よ、見ているか。
満員電車に揺られ、クレーマーに頭を下げ、上司に怒鳴られ、胃薬を水なしで飲み込みながら深夜までエクセルと睨み合っていた、哀れな社畜の私よ。
今の私は、指一本動かさず、ただ息をしているだけで世界が回っているぞ。
「お嬢様、窓辺のソファに場所をお移しになりますか? 今の時間帯は、そちらの方が日差しが柔らかく、お昼寝に最適かと」
「そうね、お願い。ちょっと歩くのも面倒なんだけど」
「かしこまりました。失礼いたします」
私が冗談半分で言った言葉に対し、テオは当然のように私の体をヒョイと持ち上げた。
同年代の六歳の子供の力とは思えない、スラムで鍛えられた(そして我が家の栄養満点の食事でさらに強化された)体幹と腕力で、私を一切の揺れもなく窓辺の特注ソファへと運ぶ。
マイナはすでにソファに最適な起毛のブランケットを敷き詰め、私が最もリラックスできる空間を構築して待っていた。
「至れり尽くせりね。ありがとう、二人とも」
「「もったいないお言葉です!」」
私がソファに身を沈め、春の暖かな日差しを浴びながらうとうとしていると、ふと疑問が頭をよぎった。
「そういえば、お父様とお母様はどうしてるの? 最近顔を見てない気がするんだけど、私が部屋から出ないことで怒ってないかしら?」
いくら親バカとはいえ、娘が何週間も部屋に引きこもっていれば、さすがに心配して乗り込んでくるのが普通だろう。
しかし、テオは自信に満ちた笑みを浮かべた。
「ご心配には及びません。旦那様と奥様には、俺からしっかりと『ご報告』を差し上げております」
「報告って……なんて言ったの?」
「『ルセリアお嬢様は現在、スラムの孤児である我々に教育を施した結果、人間の無限の可能性と、貴族社会のあり方について深い瞑想の境地に入られました。今のお嬢様は、蛹が蝶になるための神聖な沈黙の期間。ここで声をかければ、その羽化を妨げることになります』と」
「……えぇ」
私は思わず、半開きの口から間抜けな声を漏らした。
「そしたら、あの親バカ両親はどうなったの?」
「旦那様は『おおお! 我が娘はやはり、神に選ばれし聖女! 俗世の垢に塗れた我々が、その神聖な領域を冒してはならない!』と号泣し、奥様も『ルーセの瞑想がより深まるように』と、最高級の香木と、莫大な追加の予算(お小遣い)をポンと渡してくださいました。現在、お嬢様の個人資産は、中堅貴族の年収を優に超えております」
「……」
私は額に手を当てて、天を仰いだ。
(ちょろい。うちの両親、マジでちょろすぎる。そしてテオのプレゼン能力が詐欺師レベルに達している。私が教えたロジカルシンキング、完全に悪用されてるじゃないの!)
だが、結果として私の引きこもり生活は、完全に肯定され、保護され、あろうことか「神聖な儀式」として神格化されてしまったのだ。
「ルセリア様。何かご不安なことでもございましたか?」
テオが心配そうに覗き込んでくる。
「……ううん、なんでもないわ。テオ、あなたは本当に優秀な部下よ。これからも、この鉄壁の防衛線(ひきこもり環境)を維持してちょうだいね」
「はっ! この命に代えましても、お嬢様の安らかな時間をお守りいたします!」
私は満足げに頷き、マイナが淹れてくれた二杯目の紅茶(今度はリラックス効果の高いカモミールブレンドだった)をゆっくりと味わった。
これだ。これぞ、私が思い描いた究極のニート生活。
親の金で生かされ、優秀な部下にすべてを丸投げし、自分はただ温かい日差しの中で微睡むだけ。
スラムでこいつらを拾ってきた私の判断は、一二〇パーセント正しかった。
この幸せな引きこもりライフが、明日も明後日も、十年後も続けばいい。私は心からそう願った。
しかし、前世のビジネスにおいてもそうだが、「完璧なシステム」というのは、往々にして外部からのイレギュラーによって破綻するものである。
夕方になり、私がベッドで三度目の昼寝から目覚めた時のことだ。
部屋の外でマーサと何かを話していたテオが、いつになく険しい表情で部屋に戻ってきた。
「ルセリア様、お休みのところ誠に申し訳ございません。緊急のご報告がございます」
「んー……どうしたのテオ。そんな怖い顔して」
私は目をこすりながら、マイナが差し出した温かいタオルで顔を拭いた。
「先ほど、王宮より急馬が参りました。……お嬢様の『神童』としての噂、つまり俺たちが代行して提出していた高度な課題の数々が、あろうことか『王立アカデミー』の教授陣の目に留まってしまったようです」
「……え?」
私の思考が、ピタリと停止した。
王立アカデミーといえば、この帝国における最高学府。天才やエリート中のエリートだけが集まる、私のような怠け者にとっては最も縁遠いはずの場所である。
「お嬢様の底知れぬ叡智に感銘を受けた王立アカデミーの重鎮、老学者のアルベルト殿が、ぜひルセリア様と直接言葉を交わしたいと……明日の朝、このヴァロワ公爵邸へ『視察(口頭試問)』に訪れるとのことです」
「……はあああああああっ!?」
私は思わず、公爵令嬢らしからぬ大声を上げてベッドから跳ね起きた。
冗談じゃない。私が提出していた課題は、すべてテオとマイナが私のマニュアルを元に(しかも彼らの異常な応用力で)解き進めたものだ。
私自身は、ここ数ヶ月、字すらまともに書いていないし、本も読んでいない。頭の中は「いかに快適に寝るか」のデータしかないのだ。
「ちょ、ちょっと待って! 視察って、私が直接質問に答えるってこと!? 無理よ、絶対に無理! 政治とか経済とか、私なんにも分かんないもん!」
前世の記憶(一般常識)はあるが、この異世界の複雑な歴史や魔法理論など、真面目に勉強していない私が答えられるはずがない。
「ご安心ください、ルセリア様」
パニックに陥る私に対し、テオは冷たく、しかし絶対的な自信に満ちた笑みを浮かべた。
「俺たちがおります。お嬢様はこれまで通り、ただそこにお座りになって、悠然と微笑んでおられれば良いのです」
「テオ……?」
「王立アカデミーの老学者ごとき、お嬢様のお手を煩わせるまでもありません。不肖このテオが、お嬢様の『口』となり、完璧な防波堤となってご覧に入れましょう」
テオの頼もしすぎる言葉に、私はすがりつくように頷いた。
(そうだ、私にはこの最強の社畜(手足)がいる! 明日の視察も、こいつらに丸投げすればなんとかなるはずだ!)
こうして、私の引きこもりスローライフは、思いがけない「外部監査」の襲来によって一時的な危機を迎えることになった。
しかし、この時の私はまだ知らなかった。
明日の視察でテオが放つ「前世の論理的思考」の数々が、私の評価を「神童」から「生きる伝説」へと、取り返しのつかないレベルで押し上げてしまうということを。
「……まぁ、今日はもう遅いし、とりあえず寝よ。マイナ、明日はちょっと気合入れたドレス用意しといてね」
「はい、お嬢様! 完璧な布陣でお迎えいたします!」
私は迫り来る危機の気配を無理やり思考から追い出し、再び最高の羽毛布団の海へとダイブしたのだった。




