第6話:部下たちの異常な成長スピード
あれから、三ヶ月の月日が流れた。
季節は穏やかな春から、少し汗ばむ初夏へと移り変わろうとしている。
ヴァロワ公爵邸の庭園では色とりどりの薔薇が咲き誇り、その香りが開け放たれた窓から私の自室へと心地よく流れ込んできていた。
「ルセリア様、本日の『帝国地理』および『領地税収に関する基礎算術』の課題、完璧に処理いたしました。ご確認をお願いいたします」
「お嬢様、頭を使うと甘いものが欲しくなりますよね。料理長に作らせた冷たいフルーツタルトと、絶妙な温度のダージリンティーをご用意いたしました」
私の目の前には、見違えるように身綺麗になった二人の子供が立っていた。
一人は、ヴァロワ家の見習い執事用の仕立ての良い制服を隙なく着こなす、漆黒の髪の少年テオ。
もう一人は、真っ白なエプロンドレスに身を包み、愛らしい笑顔を浮かべる栗色の髪の少女マイナ。
スラムの路地裏で泥と生ゴミにまみれ、死にかけていた二人の姿は、もはやどこにもない。
適正な栄養と睡眠、そして何より私が作成した『ヴァロワ式・超速学習ドリル(という名の社畜洗脳マニュアル)』によって、彼らは驚異的な進化を遂げていた。
「……ふふっ、ありがとう。二人とも、本当に見事な仕事ぶりね」
私は優雅に紅茶のカップを受け取りながら、内心では前世のベンチャー企業の社長のように高笑いしていた。
(す、すげぇ……! こいつら、マジで化け物クラスの逸材だぞ……!)
私が予想していた学習期間は、最低でも半年から一年だった。
前世の現代日本でさえ、読み書きと基礎的な計算をマスターするにはそれなりの時間がかかる。ましてや彼らは、三ヶ月前まで文字の概念すら知らなかった孤児なのだ。
しかし、テオとマイナの脳は、まるで乾ききったスポンジが水を吸い上げるかのように、私の与えた知識を貪欲に吸収していった。
スラムで培った「生き残るための異常な観察眼と集中力」が、学問という安全な領域に全振りされた結果である。
テオに至っては、すでに貴族の一般教養レベルを完全にマスターし、私が家庭教師から出される難解な政治や経済の課題すらも、持ち前のロジカルシンキング(私が教えたフレームワーク)を用いてスラスラと解き明かしてしまう。
マイナもまた、文字と計算をマスターした上で、私の「一挙手一投足」を観察し、私が「あ、喉渇いたな」と思う0.5秒前には紅茶を差し出すという、超能力じみたメイドスキルを開花させていた。
「お嬢様、こちらの第六問ですが、家庭教師の出題意図にはやや偏りが見られます。東部領地の税収減を『天候不順』のみに帰結させていますが、前後の歴史書を紐解くと、当時の代官による意図的な流通操作があった可能性が高い。よって、別紙にてその考察もまとめておきました」
「え、ええ。よく気付いたわねテオ。その視点、とても素晴らしいわ(マジかよこいつ、家庭教師の模範解答すら超えてきやがった……!)」
私は引きつりそうになる頬を必死に抑え、優雅な公爵令嬢の笑みをキープした。
完璧だ。私の投資(OJT)は、わずか三ヶ月で莫大な利益を生み出した。
これでついに、あの忌まわしい分刻みのスケジュールから「宿題・課題」という最も重いタスクを外部委託する準備が整ったのだ。
「テオ、マイナ。よく聞きなさい」
私はティーカップをコトリとソーサーに置き、姿勢を正した。
「あなたたちのこれまでの努力、私は高く評価しているわ。基礎研修(OJT)は、これで終了よ」
「「……っ!!」」
その言葉に、二人の肩がビクッと跳ねた。
特にテオの目には、感極まったような熱い涙がじんわりと浮かんでいる。スラムの孤児から、ついに私の正式な「手足」として認められたという圧倒的な達成感なのだろう。
「今日から、あなたたちには『実務』を任せるわ」
「実務、でございますね! ルセリア様のためならば、火の中水の中、たとえ魔獣の巣窟であろうと――」
「いや、そんな物騒なところには行かなくていいわ。あなたたちに任せるのは、これよ」
私はドンッ、と机の上に分厚い羊皮紙の束と、インク瓶、そして上質な羽ペンを置いた。
「復習と、あなたたちの実力テストを兼ねて……『私の今日の課題』を、あなたたちがすべて解いてみなさい」
そう、これこそが私のマスタープラン。
『家庭教師からの宿題を、優秀な部下にすべて丸投げして、自分はベッドで爆睡する』という、怠惰の極みである。
「私、今日は少しお疲れモードなの。だから、この机と課題はあなたたちに貸してあげる。私がベッドで休んでいる間に、この山積みの課題を完璧に終わらせておいてちょうだい。……できるわね?」
私が上目遣いで小首を傾げると、テオとマイナは顔を見合わせ、そして息を呑んだ。
彼らの目には、私がただ「サボりたいだけ」の怠け者ではなく、何か途方もなく崇高な使命を託す女神のように映っていたらしい。
「ル、ルセリア様……! 貴女様のご自身の成績に関わる、かくも重要な課題を、俺たちのようなスラム上がりの孤児に全権委任してくださると……!?」
「お嬢様……私たちを、そこまで信頼してくださるのですね……!」
「え? あ、うん。まぁ、信頼してるわよ(君たちの処理能力なら間違いないし)」
テオはブルブルと震えながら羽ペンを握りしめ、深く、深く一礼した。
「承知いたしました……! このテオ、ルセリア様の御心に応えるため、一文字のミスも、一瞬の遅滞もなく、完璧にこの『実務』を遂行してご覧に入れます! マイナ、お嬢様が安らかに眠れるよう、ベッドの環境を整えるんだ!」
「はい、お兄ちゃん! お嬢様、どうぞこちらのフカフカのベッドへ!」
マイナが素早い動きでベッドのシーツを整え、遮光カーテンを引き、心地よいアロマの香りを焚き始める。
私は「ふふん、チョロいものね」と内心でほくそ笑みながら、自室の最高級羽毛ベッドへとダイブした。
「あぁ〜……最高。これよ、これ。私が求めていたのはこの時間なのよ……」
心地よいマットレスの沈み込み。羽毛布団の柔らかな感触。
机の方からは、テオが猛烈な勢いで羊皮紙にペンを走らせる「カリカリカリ」という心地よい音がASMRのように響いてくる。
部下が汗水垂らして働いている横で、自分は冷暖房完備の部屋で昼寝をする。これ以上の贅沢、これ以上の優越感がこの世にあるだろうか。
「じゃあ、あとはよろしくね。おやすみ……」
「はい。ルセリア様、どうか良い夢を」
マイナの優しい声に包まれながら、私は泥のような、いや、極上の眠りへと落ちていった。
◇◇◇
その頃。
ルセリアの自室の重厚な扉の向こう側で、ヴァロワ公爵家のメイド長であるマーサは、厳しい表情で廊下を歩いていた。
(さて、ルセリアお嬢様は本日の課題にしっかり取り組んでおられるだろうか)
マーサの心境は、この三ヶ月で複雑なものになっていた。
スラムから拾ってきた二人の孤児。最初は「あんな汚らしいネズミたちを屋敷に入れるなど」と大反対していたマーサだったが、二人の働きぶりを見て、その評価は完全に覆っていた。
礼儀作法は完璧、掃除も洗濯も一級品。何より、ルセリアへの忠誠心が常軌を逸しており、古参の使用人たちすら舌を巻くほどの働きを見せているのだ。
そして、その二人を拾い上げ、独自の不可解な紙の束を使って、たった三ヶ月でそこまでの人材に育て上げたのは、他ならぬ6歳のルセリアである。
(お嬢様は、私の想像を遥かに超える『器』を持っておられるのかもしれない。……だが、次期当主としての勉学を疎かにすることは許されません。少し様子を見ましょう)
マーサは足音を殺し、ルセリアの自室の扉にそっと近づいた。
そして、鍵穴の隙間から、ほんの僅かだけ扉を開けて部屋の中を覗き込んだ。
「……っ!!」
マーサは、思わずメガネの奥の目をカッと見開いた。
部屋の中の光景は、彼女の予想を完全に裏切るものだったからだ。
ルセリアお嬢様が、勉強机に向かっていない。
あろうことか、白昼堂々、ベッドに横たわり、スヤスヤと無防備な寝息を立てているではないか。
(な、なんということ! 課題を放り出して昼寝など、ヴァロワの令嬢としてあるまじき行為! すぐに叩き起こして説教を――)
マーサが厳しい小言を放つために扉を開け放とうとした、その瞬間だった。
『マイナ。ここの計算式だが、お嬢様が以前教えてくださった「法則(関数)」を使えば、もっと早く解けるはずだ。お嬢様なら、このような単純作業に5分以上はかけない』
『うん! 私、次のページの文献を用意しておくね。お兄ちゃん、ペン先のインクが減ってるよ。替えのペンを置くね』
机に向かっていたのは、あのスラムの孤児、テオとマイナだった。
彼らはルセリアの山積みの課題を前に、まるで歴戦の文官のような恐るべき集中力と連携で、次々と難解な問題を解き進めていたのだ。
その解答用紙に書かれている文字は、ルセリアの筆跡を完璧に模倣した、流麗で美しい貴族の文字であった。内容も、パッと見ただけでマーサが理解できないほど高度な政治経済の考察が書き込まれている。
(あれは……お嬢様の今日の課題! なぜ、あの子供たちが……!?)
マーサの頭の中で、様々な思考が駆け巡った。
「お嬢様は自分が怠けるために、子供たちに宿題をやらせているのか?」
普通なら、そう考えるだろう。しかし、マーサはこれまでのルセリアの不可解かつ「神がかった」行動の数々を思い返した。
スラムでの泥まみれの抱擁。
寝る間も惜しんで作っていた、謎の教育マニュアル。
そして、たった三ヶ月で孤児をエリートに変貌させた圧倒的な指導力。
点と点が、マーサの脳内で勝手に繋がり、強烈なスパークを起こした。
(――まさか……! そういうことか!!)
マーサはブルブルと震える手で口元を覆い、危うく漏れそうになった感嘆の声を必死に押し殺した。
(お嬢様にとって、あのような初歩的な課題など、とうの昔に終わっているのだ。あの方はすでに、我々の遥か先を行く叡智を持っておられる。
だが、お嬢様はあえて『自分の課題』という、屋敷の中で最も責任の重い仕事を、あの孤児たちに任せた。……なぜか?
それは、あの子たちに『成功体験』と『圧倒的な自信』を植え付けるためだ!!)
マーサの目から、ボロボロと熱い涙がこぼれ落ちた。
(平民、それも孤児という出自は、あの子たちの心に深い劣等感を刻み込んでいる。どれだけ知識を与えても、実践する場がなければただの机上の空論。
だからお嬢様は、ご自身の成績というリスクを負ってまで、あの子たちに『実務』を任せたのだ。
そして、自分が起きていて背後から監視していれば、あの子たちは緊張して本来の実力を出せない。だから……だからお嬢様は、わざと無防備に眠る姿を見せることで、『私はあなたたちを完全に信頼しているわ』という絶対的な安心感を与えておられるのだ!!)
なんという、なんという恐るべき6歳児。
なんという、底知れぬ慈愛と、完璧に計算し尽くされた教育方針!!
(ルセリア様……貴女様は、やはりヴァロワの歴史上、いえ、帝国の歴史上最高の天才にして、聖女であられる……!!)
マーサは扉の隙間から、ベッドでよだれを垂らしながら幸せそうに眠るルセリアに向かって、深く、深く、最敬礼のお辞儀をした。
その姿はもはや「怠惰な令嬢」ではなく、彼女の目には「後進の育成のために自らを犠牲にする、崇高な教育者の寝顔」にしか見えていなかった。
マーサは音を立てずに扉を閉め、誰にもこの「神聖な教育の儀式」を邪魔させまいと、廊下の見張りに立つことを決意した。
◇◇◇
「むにゃ……あぁ、よく寝た……」
それから二時間後。
私が気持ちよく伸びをしながら目を覚ますと、すでに窓の外は夕暮れのオレンジ色に染まっていた。
「おはようございます、ルセリア様」
「お嬢様、お目覚めのお水です」
ベッドの脇には、完璧なタイミングで冷たい水を用意して待機しているテオとマイナの姿があった。
そして、部屋の中央の机には。
「ルセリア様。本日の課題、すべて完了いたしました。お嬢様が作ってくださったマニュアルのおかげで、何の滞りもなく処理することができました」
テオが誇らしげに、しかしひたすらに謙虚な態度で、分厚い解答用紙の束を差し出してきた。
私はそれを受け取り、パラパラと中身を確認した。
(す、すげぇ……。字も私の筆跡にそっくりだし、内容も完璧。っていうか、私が自分でやるより絶対点数高いわこれ)
前世で、超優秀な部下に仕事を丸投げして、期日前に完璧な資料を上げてもらった時の、あの感動。
私は思わず、満面の笑みを浮かべてテオとマイナの頭を撫でた。
「素晴らしいわ、二人とも! あなたたちは最高の部下よ! これからも、この調子で私を助けて(私の宿題を全部やって)ちょうだいね!」
「っ……!! は、はいっ!! この命に代えましても!!」
「お嬢様のお役に立てるなら、マイナ、もっともっと頑張ります!!」
私が適当に放った賞賛の言葉に、二人は顔を真っ赤にして感涙し、再び私への絶対の忠誠を誓うのだった。
(よし! これで私の「宿題・お勉強」という最大のストレス要因は完全に排除された! あとは毎日、このフカフカのベッドでゴロゴロして、親の金で美味しいものを食べるだけの究極のニート生活が待っているわ!)
私は心の中で勝利のファンファーレを鳴り響かせた。
自分の怠惰な計画が完璧に成功したと、疑いもしなかった。
しかし、その夜のディナータイム。
いつもは小言の多いメイド長のマーサが、なぜか私の顔を見るなり感極まったように涙ぐみ、私の両親に向かって「ルセリアお嬢様は、まさにヴァロワの至宝。あのような慈愛に満ちた教育指導、私マーサ、感服いたしました」と熱弁を振るい始めたのだ。
両親は「おお! やはりルーセは天才か!」と大号泣し、私のお小遣いを倍額にすると言い出した。
(……え? なにこれ。私、昼寝してただけなんだけど)
困惑する私をよそに、周囲の私に対する「神童」「聖女」という強烈な勘違いは、もはや雪だるま式に膨れ上がり、誰にも止められない領域へと突入していくのであった。




