第5話:業務マニュアル(SOP)の作成
「……というわけで、これが今日の私の『帝国の歴史』と『基礎算術』の宿題よ。明日までに終わらせておいてちょうだいね」
テオとマイナを屋敷に迎え入れ、彼らの栄養状態と衛生状態が劇的に改善してから数日後のこと。
私はついに、念願のアウトソーシング(業務委託)計画を実行に移した。
時刻は午後八時。メイド長のマーサの目を盗み、私は二人に与えられた真新しい部屋(使用人用の部屋だが、スラムに比べれば超高級ホテルのスイート並みである)へと忍び込んでいた。
私の手には、家庭教師から出された分厚い羊皮紙の束。これを彼らに丸投げし、私は自室のフカフカのベッドで心置きなく眠るのだ。
「さぁ、よろしく頼んだわよ、私の優秀な手足たち」
私はにっこりと微笑み、羊皮紙の束をテオの前に差し出した。
しかし、テオはそれを受け取ろうとせず、なぜか顔面を蒼白にして、ガタガタと震え始めた。隣にいるマイナも、今にも泣き出しそうな顔で私の手元を見つめている。
「……どうしたの? 具合でも悪いの?」
「ル、ルセリア様……も、申し訳ございません……!」
テオは勢いよく床に両膝をつき、絨毯に額をこすりつけた。
「俺たちは……その、文字が、読めないのです……」
「…………あ」
私は間抜けな声を出して、完全に硬直した。
(しまったぁぁぁぁっ!!)
心の中で、前世の営業部長の怒号が響き渡る。
『お前、新人に仕事振る前にスキルシート確認したのか!? 基礎スキルがない奴に実務投げても、ミスが起きて余計に手間がかかるだけだろうが!!』
そうだ。完全に失念していた。
ここは前世の現代日本ではない。義務教育など存在しない、中世ヨーロッパ風のファンタジー世界なのだ。しかも彼らはスラムの最下層で生まれ育った孤児。文字の読み書きや計算など、教わる機会があるはずもなかったのだ。
「文字が読めない……数字も、分からないのね?」
「はい……! ルセリア様のご期待に応えられない、こんな無能なゴミは、今すぐ屋敷を出ていきます……! どうか、妹のマイナだけでも、お傍に置いてやってください!」
テオは血を吐くような声で言い、マイナは「お兄ちゃんがいなくなるなら私も出ていく!」と泣きじゃくり始めた。
「ちょ、ちょっと待ちなさい! 落ち着いて!」
私は慌てて二人を制止した。
ここで彼らに辞められて(退職されて)しまっては、私がスラムまで行って泥をかぶった苦労が水の泡である。私の今後の快適なニート生活は、この二人の労働力にかかっているのだ。
(落ち着け、私。ビジネスの基本、ROI(投資利益率)の計算だ。
今、私が自分で宿題をやれば、今日の睡眠時間は削られる。しかし、それは明日も明後日も、私が成人するまで10年以上続く地獄だ。
逆に、今ここで彼らに『読み書きと計算』を教え込む(初期投資する)時間を割けば、数ヶ月後には完全に業務を自動化(丸投げ)できる。……答えは出ている。ここは未来のための先行投資だ!)
私は前世の社畜魂を奮い立たせ、大きく深呼吸をした。
「テオ、マイナ。顔を上げなさい。出ていく必要なんてどこにもないわ」
「る、ルセリア様……?」
「文字が読めないなら、覚えればいいだけのことよ。計算ができないなら、私が教えてあげる」
私は羊皮紙の束をテーブルに置き、胸を張って宣言した。
「あなたたちには、今から私が直々に、この世界の知識を叩き込んであげるわ。だから、泣いている暇があったら、一刻も早く賢くなりなさい」
その言葉を聞いた瞬間、テオとマイナの顔に、信じられないものを見るような驚愕が走った。
「ル、ルセリア様が……俺たちに、字を……?」
テオの震える声。
無理もない。この世界において、知識とはすなわち権力であり、特権階級の占有物である。平民、それもスラムの孤児に、公爵令嬢が自ら学問を教えるなど、前代未聞どころか狂気の沙汰に近いのだ。
しかし、私の頭の中にあるのは「いかに効率よく彼らを即戦力に育て上げるか」という、ブラック企業の人事担当者のような冷徹な計算だけだった。
「そうよ。ただし、普通の家庭教師がやるような、回りくどくて退屈な教え方はしないわ。私が求めるのは『圧倒的なスピードと効率』よ」
◇◇◇
その日の深夜。
私は自室の机にかじりつき、前世の記憶をフル回転させながら、猛烈な勢いでペンを走らせていた。
「くそっ、なんで私がこんなに働かなきゃならないのよ……! これはサボるための初期投資、サボるための初期投資……!」
念仏のように唱えながら私が作成していたのは、テオとマイナに知識を詰め込むための『業務マニュアル(SOP:Standard Operating Procedure)』であった。
この世界の教育は、無駄が多い。分厚い歴史書を丸暗記させたり、難解な哲学を交えたりと、とにかく「教養としての箔」をつけることに重きを置いている。
だが、私がテオたちに求めているのは教養ではない。「私の宿題を代行できるだけの実務能力」だ。
(前世の新人研修マニュアルをベースにするわ。フォニックス(発音規則)を用いた独自の文字学習シート、九九の表を応用した計算マトリクス、そして図解を多用したロジカルシンキングの基礎……よし、いける!)
私は徹夜で、現代日本の効率的な学習メソッドと、ビジネスにおける業務フロー図の概念を組み合わせた、独自の「ヴァロワ式・超速学習ドリル」を書き上げた。
朝陽が差し込む頃には、私の目の下にうっすらとクマができていたが、完成した手作りのマニュアルの束を見て、確かな達成感を感じていた。
「ふふふ……できたわ。これで彼らを、完璧な社畜エリートに洗脳……いや、教育してやる!」
◇◇◇
翌日の夕方。
休憩時間を利用して、私は再びテオとマイナの部屋を訪れた。
「テオ、マイナ。今日からあなたたちの研修(OJT)を開始するわよ」
私がドサリと分厚いマニュアルの束をテーブルに置くと、二人は背筋をピンと伸ばし、まるで神の啓示を受けるかのような緊張した面持ちでそれを見つめた。
「これが、私があなたたちのために徹夜で作った『ヴァロワ式・基礎業務手引書』よ」
「て、徹夜で……!?」
テオが息を呑んだ。
「お嬢様……俺たちのようなゴミのために、貴女様の尊いお時間を、そして御身を削ってまで、これを……!」
「ええ、そうよ(私が将来サボるためにね)。このマニュアルには、文字の読み方から計算の法則まで、すべてが一番分かりやすい方法で書いてあるわ」
私は自作の『あいうえお表』のような基礎文字マトリクスを開いた。
「いい? 学習の基本は『反復』と『体系化』よ。一つ一つの文字を闇雲に覚えるんじゃなくて、法則性を理解しなさい。分からないことがあったら、勝手に悩まずにすぐに私に聞きなさい。前世……じゃなくて、ビジネスにおいて『報・連・相(報告・連絡・相談)』の欠如は致命的なロスを生むわ」
「ホウ・レン・ソウ……!」
テオは、私が適当に放った前世のビジネス用語を、まるで聖なる呪文のように復唱した。
「マイナは、この文字シートの書き取りを一日百回。テオはそれに加えて、この計算マトリクス(九九の表)を暗唱できるようになりなさい。目標は、一ヶ月で私の持っている歴史の教科書を音読できるようになること。……できるわね?」
私が少しだけ圧をかけて問うと、テオとマイナはボロボロと涙を流しながら、しかし炎のように熱い瞳で私を見つめ返した。
「ルセリア様……! 必ずや、必ずや貴女様のご期待に応えてみせます! この命が擦り切れるまで、学び、己のすべてを貴女様に捧げます!!」
「私も! お嬢様のために、いっぱいお勉強します!」
(よしよし、いい返事だ。そのハングリー精神、前世のベンチャー企業の新入社員みたいで最高に好感が持てるわ)
私は心の中でガッツポーズをした。
こうして、私の「宿題丸投げ計画」のための、狂気のスパルタ教育が幕を開けたのである。
◇◇◇
それからの彼らの成長スピードは、私の予想を――いや、前世の常識すらも遥かに超える、まさに「異常」と呼べるものだった。
「ルセリア様、昨日ご指示いただいた『第一章』の文字群、すべて暗記いたしました。本日は、この応用である文法規則についてご質問が……」
「えっ!? もう覚えたの!? ちょっと早くない!?」
研修を開始してわずか三日後。
テオは、私が渡した基礎文字マトリクスを完全に脳内にインプットしてしまったのだ。
スラムで培った「生き残るための執念」と、私という「絶対的な主君」への狂信的なまでの恩義。この二つが、彼らの脳のポテンシャルを限界まで引き出していた。
夜中、私がふと目を覚ましてトイレに向かう途中、彼らの部屋のドアの隙間から、ロウソクの火が漏れているのを見たことがある。
こっそり覗き込むと、テオとマイナは目を血走らせながら、私が作ったマニュアルを一字一句噛み締めるように読み、互いに問題を出し合っていた。
『マイナ、ここの法則が違う。お嬢様は、この記号はこう配置すると効率的だとお書きになっている。お嬢様の叡智を、一ミリでも逃してはならない……!』
『うん、お兄ちゃん! 私、絶対にお嬢様のお役に立つんだから!』
(うわぁ……完全にブラック企業に洗脳された社畜の顔だわ。ちょっと引くレベルで真面目……)
私は呆れ半分、恐怖半分でその光景を眺めていた。
だが、同時に「これで私の睡眠時間が確保される」という甘い期待に胸を躍らせたのも事実だ。
二人の常軌を逸した努力と、私の作った現代日本の効率的学習メソッド(SOP)の相乗効果は凄まじかった。
わずか二週間で、テオは日常会話レベルの読み書きと、公爵家の帳簿の計算すらできるレベルに到達した。マイナもまた、文字の読み書きだけでなく、マニュアルに書かれていた「タスクの優先順位付け(重要度と緊急度のマトリクス)」という概念を理解し、私の身の回りの世話を、マーサですら驚くほどの効率でこなすようになっていた。
ある日の午後。
メイド長のマーサが、私の部屋のドアの隙間から、信じられないものを見るような目で中を覗き込んでいた。
部屋の中では、私が窓辺の最高級ソファーでクッションを抱いてよだれを垂らしながら爆睡しており、その傍らのデスクでは、テオとマイナが猛烈な勢いで私の「歴史の課題」と「算術の宿題」を完璧に解き進めていたのだ。
「あ、あのスラムの子供たちが……わずか数週間で、貴族の基礎教養を身につけている……?」
マーサはメガネの奥の目を大きく見開いた。
「ルセリアお嬢様は、ご自分が楽しようとして宿題を任せているように見せかけて……実は、あの子たちに『責任ある仕事』を与えることで、猛烈なスピードで才能を開花させておられるのか……! なんという、なんという恐ろしいまでの教育の才能!」
マーサは勝手に震え上がり、静かに祈るように両手を組んだ。
「ただの哀れな孤児を、公爵家の文官をも凌ぐ神童へと育て上げる慈愛と叡智。ルセリア様はやはり、神に選ばれしお方……!」
(むにゃむにゃ……あぁ、今日のベッドもフカフカだぁ……テオ、あとの歴史の年号、適当に書いといてね……)
私は、夢の中で自分の完璧なスローライフ・システムが稼働し始めたことを祝いながら、幸せな寝息を立てていた。
私がただ「自分がサボりたい」という一心で作った業務マニュアルが、彼らを「帝国史上最強の側近」へと変貌させる起動キー(トリガー)となったこと。
そして、その光景を目撃した大人たちによって、私の「天才教育者にして聖女」という誤解が、もはや後戻りできないレベルで固まり始めたことなど、爆睡している私が知る由もなかったのである。




