第4話:絶対の忠誠と、甘すぎる雇用契約
ヴァロワ公爵家の正門をくぐり、広大な庭園を抜けて白亜の豪邸へと至る道のり。
馬車の窓からその圧倒的な景色を見つめていた二人の孤児――七歳の少年と六歳の少女は、まるで死地に赴く罪人のようにガタガタと震え続けていた。
それもそのはずだろう。スラムの泥水の中で生きてきた彼らにとって、王宮と見紛うほどの公爵邸は、あまりにも現実離れしすぎている。
「着いたわね。さぁ、降りましょうか」
私はふかふかの座席から立ち上がり、にっこりと微笑んで二人に手を差し伸べた。
少年はビクッと体を強張らせ、妹分の少女を庇うように抱きしめたまま、恐る恐る馬車を降りた。彼らの足元は泥だらけで、公爵邸の玄関に敷かれた真紅の絨毯を汚してしまうことに酷く怯えているのが分かった。
「お帰りなさいませ、ルセリアお嬢様」
玄関ホールでは、数十人の使用人たちが一糸乱れぬ動きで深く頭を下げて出迎えた。
その先頭に立つメイド長のマーサが、私の後ろで震える二人の孤児を見て、眉間に深いシワを寄せた。
「お嬢様……その汚らわし……いえ、その見すぼらしい平民の子供たちは、一体?」
「今日から私のお友達(という名の専属社畜)になる二人よ。スラムからスカウトしてきたの」
「スラムから……!? な、なんということを! すぐに消毒と隔離を――」
「マーサ」
私はあえて声を一段低くし、前世の営業時代に「クレームをつけてきた厄介な取引先」を黙らせる時に使っていた、静かで冷たい圧力を込めてマーサを見つめた。
「この子たちは、私が自ら選んで、私の権限で連れ帰ってきた大切なお客様よ。……誰に向かって『汚らわしい』と言おうとしたのかしら?」
マーサはハッとして息を呑み、即座に深く頭を下げた。
「も、申し訳ございません! 私としたことが、お嬢様の海より深い慈愛の御心に気付かず、外見だけで判断するとは……! ヴァロワ家のメイド長として、恥じ入るばかりでございます!」
(いや、ただ単に私が手に入れた便利な道具にケチをつけられたくなかっただけなんだけど……まぁ、反省してるならいいか)
「分かればいいのよ。さぁ、マーサ。すぐにこの子たちをお風呂に入れてちょうだい。頭の先から爪の先まで、ピカピカに磨き上げるのよ。それと、一番肌触りの良い服を用意して。食卓には、消化に良くて栄養満点の温かい料理を並べること。……急いでね」
「はっ! かしこまりました! おい、お前たち、すぐにお湯を沸かしなさい! お嬢様の尊き『お友達』を、完璧におもてなしするのです!」
マーサの号令のもと、メイドたちが嵐のような勢いで二人を浴室へと連行していった。
「ひぃっ!」「いやだ、殺さないで……!」と怯える二人の悲鳴が聞こえたが、私は「しっかり垢を落としてこいよ、未来の社畜たち」と心の中でエールを送りながら、自室へと向かった。
◇◇◇
一時間後。
私がダイニングルームの椅子に座って優雅に紅茶を飲んでいると、ピカピカに磨き上げられた二人が連れてこられた。
「……ほう」
私は思わず、感嘆の声を漏らした。
泥とすすにまみれていた時には分からなかったが、汚れを落とし、公爵家の上質な服を着せられた二人は、驚くほどの美男美女……いや、美少年と美少女の原石だったのだ。
少年は、夜空のように深い漆黒の髪と、意思の強さを感じさせる切れ長の鋭い目を持っていた。痩せこけてはいるものの、骨格はしっかりしており、将来は間違いなく優秀な執事(あるいは暗殺者)に育ちそうな冷たい美貌を秘めている。
その後ろに隠れるようにしている少女は、艶やかな栗色の髪と、小動物のように愛らしい大きな丸い瞳を持っていた。怯えた表情が保護欲をそそる、完璧なメイド候補だ。
(素晴らしい。見た目のスペックも申し分ない。これなら私の隣に置いておいても、目の保養になるな)
私は前世の「採用面接」で超優秀な新卒を引き当てた人事部長のような、満足げな笑みを浮かべた。
「さぁ、座って。ご飯にしましょう」
私が促すと、二人は恐る恐るテーブルに着いた。
目の前には、コンソメの香りが食欲をそそる温かいスープ、焼きたての柔らかい白パン、そしてとろけるほどに煮込まれた牛肉のシチューが並べられている。
二人の目は、料理に釘付けになっていた。喉がゴクリと鳴る音が、こちらにまで聞こえてくる。
しかし、彼らは決して手を出そうとしなかった。少年の目は、飢えと戦いながらも、「これは罠だ」「こんな美味いものをスラムのゴミが食べられるはずがない。食べたら殺される」という強烈な疑心暗鬼に囚われていた。
(警戒心が強いのは良いことだ。情報の裏を読む力がある証拠。だが、今はまず『恩』を売りつけなければならない)
「食べなさい。毒なんて入っていないわ。……ああ、それとも、私が先に毒見をしてあげた方が安心かしら?」
私が自分のスプーンでシチューを一口食べ、にっこりと微笑むと、少年の瞳が大きく揺れた。
「あ……」
彼は震える手でスプーンを握り、スープを一口だけ口に運んだ。
その瞬間、彼の目からポロポロと大粒の涙が溢れ出した。温かく、栄養に満ちた、本物の食べ物。それが胃の腑に落ちていく感覚に、彼の強靭な警戒心が決壊したのだ。
「食え! マイナ、食うんだ……! 本物の、飯だ……!」
少年が隣の少女に促すと、少女もまたパンにかじりつき、ボロボロと泣きながら夢中で食べ始めた。
二人は、まるですぐに皿が奪われてしまうとでも思っているかのように、手や顔を汚すのも構わず、獣のように料理を胃に詰め込んでいく。
「ゆっくりでいいわよ。おかわりはいくらでもあるから」
私は紅茶を啜りながら、その光景を冷徹なビジネスライクな目で見つめていた。
(よしよし、いっぱい食べろ。栄養をつけて、体力をつけろ。それが全部、明日からの私への『労働力』になるんだからな。これは投資だ。先行投資を惜しむ企業に未来はない)
やがて、二人の小さな胃袋が限界を迎え、お腹をさすりながら満足げな、それでいて「これからどうなるのか」という不安げな表情で私を見つめ返してきた。
「お腹いっぱいになったかしら?」
「……はい。あ、あの……」
少年が、初めて私に向かって声を発した。長年喉を酷使してきたのか、少し掠れた、しかし芯のある声だった。
「どうして、俺たちを……? 俺たちはスラムのゴミです。貴族様に、こんな美味い飯を食わせてもらえるような価値なんて、どこにもない……」
警戒と、混乱と、僅かな期待。
その問いに対し、私は前世で培った「新入社員へのオンボーディング(企業理念の刷り込み)」をいよいよ実行に移すことにした。
メイドたちを部屋から下がらせ、広いダイニングルームには私と二人の孤児だけが残された。
「価値ならあるわ。私が、あなたたちに価値を見出したのよ」
私は紅茶のカップを置き、彼らの目を真っ直ぐに見据えた。
「よく聞きなさい。今日、この瞬間から、あなたたちの衣食住はすべて私が保証する。もう冷たい路地裏で凍える必要も、残飯を漁って飢えを凌ぐ必要もない。悪い大人から暴力を振るわれることも、私が絶対に許さない」
それは、前世で言うところの「雇用条件(基本給と福利厚生の提示)」である。ブラック企業にいた私からすれば、最低限の生活を保証するなんて当たり前のことだ。
だが、スラムで地獄を見てきた彼らにとって、その言葉はどう響いただろうか。
少年の息が止まり、少女は信じられないものを見るように目を丸くした。
「……その代わり、あなたたちには『契約』を守ってもらうわ」
私はわざと冷酷な響きを持たせて、言葉を紡いだ。
「今日から、あなたたちの命は私のものよ。あなたたちは私の『手足』になりなさい。そして、私が嫌がるすべての面倒事を、私の代わりに引き受けなさい。あなたがたの脳みそは、明日から『いかにして、この私を楽に、怠惰に、快適に過ごさせるか』だけを考えて働きなさい」
これが私の本音だった。
要するに、「お前らの生活の面倒は見てやるから、お前らの全存在を懸けて私の代わりに働け。私がサボるために死ぬ気で尽くせ」という、とんでもなく自己中心的なブラック雇用契約の提示である。
私は「ふふん、これでこの子たちは私の都合のいい道具だ」と内心でほくそ笑んだ。
しかし。
私のその言葉を聞いた瞬間、少年――テオの脳内では、まったく次元の違う、壮絶な「勘違い(パラダイムシフト)」が引き起こされていたのである。
(――な、なんというお方だ……!)
テオは、目の前に座る純白の少女を見つめ、雷に打たれたような衝撃を受けていた。
『今日から、あなたたちの命は私のものよ』
テオの脳内翻訳:(あなたたちの命は、私が全責任を持って守り抜きます。もう決して死なせはしない)
『あなたたちは私の手足になりなさい。私が嫌がる面倒事を引き受けなさい』
テオの脳内翻訳:(あなたたちを、私の一部として頼りにしています。私一人では抱えきれないものを、どうか一緒に背負ってくれませんか)
『いかにして私を快適に過ごさせるかだけを考えて働きなさい』
テオの脳内翻訳:(もう何も心配しなくていい。自分の命の危険に怯える必要はない。ただ私のそばにいて、私の幸せだけを願って、穏やかに生きてほしい)
スラムという弱肉強食の世界で、常に他人の悪意と裏切りに晒されてきたテオ。
そんな彼にとって、見ず知らずの孤児に「無条件で衣食住を与え、命を保護する」などという狂気じみた善意は、到底信じられるものではなかった。
裏がある。絶対に何か裏がある。そう思っていた。
だが、ルセリアは言った。「私の代わりに働け。私を楽にさせろ」と。
テオはその言葉に、彼女の『不器用すぎる優しさ』を見たのだ。
(ああ……この方は、わざと悪ぶっているんだ。俺たちのようなゴミに無償の愛を与えれば、俺たちが負い目を感じてしまう。だから、『私が楽をするための道具になれ』という『建前』を用意してくださったのだ。俺たちが、この屋敷に胸を張って居続けられる『理由(仕事)』を与えるために……!)
なんという深く、海のような慈愛。
なんという気高く、美しい魂。
テオの全身の震えは、恐怖から、圧倒的な感動と、狂信的な忠誠心へと変わっていた。
「……お名前を、教えていただけますか」
テオが、ポロポロと涙を流しながら、しかし確かな熱を帯びた声で尋ねた。
「私の名前? 私はルセリア。ルセリア・フォン・ヴァロワよ」
「ルセリア様……。俺は、テオと申します。そしてこの妹分は、マイナです」
テオは椅子から滑り降りると、迷うことなく冷たい大理石の床に両膝をついた。そして、前世の武士が主君に忠誠を誓うように、深く、深く頭をすりつけた。
マイナもまた、テオの横で小さな体を丸めて平伏した。
「テオ? どうしたの、急に」
「ルセリア様。この命、いえ、この魂すらも……今日からすべて、貴女様のものにございます」
床に額をこすりつけたまま、テオが搾り出すように言った。
「貴女様が『休みたい』と願うなら、俺は貴女の影となり、あらゆる障害を排除しましょう。貴女様が『快適でありたい』と願うなら、俺は世界のすべてを奪ってでも、貴女の足元に平穏を築き上げます」
(……ん? なんか思ってたより重いな? 私はただ「宿題やっといてね」「ふかふかのベッドメイクしてね」って言いたかっただけなんだけど)
私の困惑をよそに、テオの狂信的な誓いは止まらなかった。
「俺は、俺たちは……貴女様が望む限り、決して貴女の睡眠を妨げさせず、決して貴女に指一本触れさせず、決して貴女を悲しませない、完璧な『手足』となることを、ここに誓約いたします……!!」
顔を上げたテオの目は、もはや怯えた野良犬のそれではなかった。
己の命を捧げるべき唯一絶対の「神(主君)」を見つけ、その信仰のために世界を焼き尽くすことも辞さない、狂信者の目そのものであった。
「あ、うん。……よろしくね、二人とも」
私は少しだけ引きつった笑顔で頷いた。
前世のブラック企業の雇用契約よりも、さらにヤバい「魂の契約」を結んでしまったような気がしないでもないが……まぁ、私のために死ぬ気で働いてくれるなら、結果オーライである。
こうして私は、自分の宿題とマナー教育を丸投げするためだけに、後の帝国史にその名を轟かせる「影の宰相」と「最強の暗殺メイド(マイナ)」という、とんでもない化け物二人を拾い上げてしまった。
彼らが私の「サボりたい」という怠惰な願いを、いかに恐ろしいほどの有能さと規模で実現していくか。
そして私が、彼らのせいでいかにして「慈愛の聖女」として世界に祭り上げられていくか。
私の思い描いた『平和なスローライフ』が音を立てて崩れ去るプロローグは、この甘すぎる雇用契約によって完全に幕を開けたのであった。




