第5話:魔法大国の天才留学生と、究極の「加湿魔法」
王立アカデミーの敷地の最奥。森に囲まれた『星降りの旧魔塔』は、今や完全に私の個人的な要塞(サボり専用スイートルーム)として機能していた。
「お嬢様、本日の学園側のスケジュールはすべて『ルセリア様による深遠なる思索の時間』としてブロック処理を完了しております。ご安心してお昼寝をお楽しみください」
塔の広間で、私の『特別従者』であり、今や生徒会の実権を裏から完全に掌握しているテオが、分厚い決裁書類の束を片手で捌きながら涼しい顔で報告をしてきた。
前回の生徒会長ユリウスの襲来事件以降、テオは生徒会の全権を事実上譲り受け、学園の校則を私に都合の良いように次々と書き換えていたのだ。
「テオ……あなた、本当に有能すぎるわね。まさか『生徒は自身の体調と精神の安定を最優先し、任意の授業を免除できる(ただしルセリア・フォン・ヴァロワに限る)』なんていう特別法案を、学園長にハンコ押させるなんて」
「ふっ。お嬢様の偉大なる功績と、あの石頭の学園長の弱み(学園の経費の私的流用)を少しばかり提示しただけのこと。お嬢様の安眠を守るためならば、学園のシステムなど幾らでも作り変えてみせます」
私は、テオの頼もしすぎる(そしてブラック企業の人事部長並みにえげつない)手腕に心からの賛辞を送りつつ、特注の低反発マットレスの上でゴロンと寝返りを打った。
(はぁ〜……最高。帝都の中枢にいるのに、アグニ地方の別荘と全く同じ堕落した生活が送れるなんて。やっぱり、持つべきものは優秀な部下ね!)
ガラハッド教官の実技免除に加え、生徒会のお墨付きまで得た私の学園ニート生活は、もはや誰にも邪魔されることのない完全な『治外法権』へと到達していた。
しかし。
「帝国のルール」が通用しない相手が、この学園には存在していたのである。
◇◇◇
その日の午後。
私が塔の床暖房(古代の魔法陣)の上で、スヤスヤと心地よい午睡を楽しんでいた時のことだ。
ドゴォォォォォォォンッ!!!
突然、塔の分厚い石の扉が、凄まじい爆発音と共に吹き飛ばされ、粉々になって室内に飛散した。
「きゃぁぁっ!?」
「お嬢様!!」
私が飛び起きると同時に、マイナが素早く私の前に躍り出て、飛んできた瓦礫をメイド服の袖に仕込んだ鋼糸で鮮やかに弾き落とした。
もうもうと立ち込める爆煙の中から、一人の少年の影がゆっくりと姿を現す。
銀糸の刺繍が施された、王立アカデミーの制服とは異なる漆黒のローブ。燃えるような真紅の髪と、自信と傲慢さに満ちた鋭い琥珀色の瞳。
「――ふん。生徒会が厳重に張っていた結界など、この程度のものか。呆れて欠伸が出るな」
少年は、吹き飛ばした扉の残骸を踏みつけながら、尊大な態度で塔の内部へと足を踏み入れた。
テオが即座に懐から短剣を抜き、殺気を放つ。
「何者だ。この場所が、ルセリア様の不可侵の聖域だと知っての狼藉か」
「聖域? 冗談を言うな」
少年は鼻で笑い、私に向かってビシッと杖を突きつけた。
「我が名はレオナルド・フォン・ゼニス! 魔法大国ゼニス王国より、この王立アカデミーへ派遣された特待留学生にして、次期筆頭宮廷魔導士だ!!」
(……留学生? しかも魔法大国の天才エリート?)
私は、眠い目をこすりながら、前世の記憶と現在の状況を照らし合わせた。
(あー……なるほど。いわゆる『外資系企業から引き抜かれてきた、プライド高めのエリート社員』ってやつね。帝国のローカルルールなんて知るか、俺の実力が一番だ! って息巻いてるタイプだわ)
レオナルドは、私の気だるげな態度を見て、さらに怒りを燃え上がらせた。
「おい、帝国の『聖女』とやら! 私は貴様の噂を聞いて、どれほどの魔導士かと期待してこの学園へやってきたのだ! 古代の魔塔の封印を解き、アグニ地方の不毛の大地を浄化したという大層な噂をな!」
「あ、うん。まぁ、そういうことになってるわね……」
私は適当に相槌を打つ。
「だが、蓋を開けてみればどうだ! 貴様は入学以来、一度も授業に顔を出さず、こんな塔に引きこもっているだけではないか! 皇子や教官たちは貴様を神のように崇めているようだが、魔法大国のエリートである私の目は誤魔化せんぞ!」
レオナルドの杖の先端に、凄まじい熱量を持った紅蓮の炎が圧縮され、球体となって顕現した。
塔の中の空気が一気に乾燥し、肌を焦がすような熱気が押し寄せてくる。
「その実力が本物か、それともただの虚仮威し(こけおどし)の権力者か! この私が直々に試してやる! 帝国の誇る聖女よ、私の最高位攻撃魔法『業火の紅蓮魔弾』を防いでみせろ!!」
(……うわぁ、めんどくさい。本当にめんどくさい)
私は、大きなため息をついた。
テオやマイナが迎撃の体勢に入っていたが、私は彼らを片手で制止した。
ここで彼らに戦わせれば、塔の中が滅茶苦茶になり、私の大切な低反発マットレスが燃えてしまうかもしれない。それだけは絶対に避けなければならない。
それに、私は今、猛烈に不快感を覚えていた。
(お昼寝から起きたばかりで、ただでさえ喉が渇いているのに。あいつが変な炎の魔法を出したせいで、部屋の湿度が急激に下がって、お肌が乾燥しちゃってるじゃない!)
前世のOL時代、冬場のオフィスで暖房がガンガンに効いているせいで、肌がカサカサになり、喉を痛めたあの最悪の環境。
それを私の至高のサボり部屋で再現されるなど、万死に値する行為である。
「……ねぇ、レオナルド君って言ったかしら」
私は、ベッドの上に座ったまま、極めて不機嫌な声で言った。
「火遊びは外でやってくれない? 部屋が乾燥して、お肌に悪いんだけど」
「強がりを!! 恐怖で足がすくんでいるのだろう! 行くぞ!!」
レオナルドが杖を振り下ろす。
その瞬間、彼の杖の先端から、巨大な火竜のような炎の塊が、凄まじい轟音と共に私に向かって放たれた。
それは、大講堂の一つや二つ、一瞬で灰燼に帰すほどの圧倒的な熱量と破壊力を秘めた、文字通りの『必殺魔法』であった。
「死なない程度に手加減はしてやる! 防御魔法を展開しろ、ルセリア!!」
だが、私は防御魔法などという、カロリー(魔力)を消費するような面倒なものを展開する気は毛頭なかった。
私が欲しいのは、ただ一つ。「適切な湿度」である。
私は、前世で愛用していた『超音波式・大容量アロマ加湿器』の構造と、温泉の湯けむりの心地よさを脳内で鮮明にイメージし、指先を小さく弾いた。
「展開。《超微細・空間加湿ミスト(モイスチャー・オアシス)》」
それは、攻撃魔法でも防御魔法でもない。
ただ単に、空気中の水分をかき集め、微細な霧にして部屋中に散布するという、極めて平和的な『生活魔法(加湿)』の極致であった。
しかし、私の底知れぬ魔力(自分では自覚していない)によって放たれたそのミストは、ただの水蒸気ではなかった。
シュウゥゥゥゥゥッ……!!
レオナルドの放った、すべてを焼き尽くすはずの『業火の紅蓮魔弾』が。
私が展開した、微かな薔薇の香りを帯びた『加湿ミスト』の壁に触れた瞬間。
まるで、熱したフライパンに水を一滴落とした時のように、一瞬で「ジュッ」という音を立てて消滅してしまったのである。
「…………は?」
レオナルドの顔から、すべての表情が抜け落ちた。
炎の塊は、爆発を起こすことも、熱風を撒き散らすこともなく、ただの温かい水蒸気へと変換され、塔の部屋全体をポカポカとした心地よい湿度で満たしていった。
「ふぅ……。あぁ、潤うわ。やっぱり湿度は60%くらいが一番快適よね」
私は、自分の肌を撫でながら、満足げに深呼吸をした。
「ば……馬鹿な……」
レオナルドが、震える手で杖を取り落とした。
カランッ、と乾いた音が、静まり返った塔の中に響く。
「私の……ゼニス王国の天才と謳われた私の、全魔力を込めたインフェルノ・バーストが……。防御魔法の障壁すら張らずに、ただの『水気』で……相殺された、だと……!?」
レオナルドは、自分の信じていた魔法の法則が、根底から破壊されるのを感じていた。
高位の攻撃魔法を相殺するには、同等かそれ以上の魔力を用いた防御魔法か、相反する属性の高位魔法をぶつけるしかない。それが常識だ。
しかし、目の前の少女は、彼の魔法に対して「迎撃」すらしていない。
ただ、「部屋が乾燥しているから加湿した」だけなのだ。
その結果として、彼の必殺魔法が、加湿のための『ただの熱源』として利用され、完全に無力化されてしまったのである。
「しかも、なんだ……このミストは……!」
レオナルドは、周囲に漂う薔薇の香りの水蒸気を吸い込み、さらに驚愕に目を見開いた。
「私の炎を中和しただけではない……! 吸い込むだけで、先ほどまで酷使していた私の魔力回路が、嘘のように癒やされていく……! この空間全体が、究極の治癒結界になっているというのか!?」
(違う。カヤが作ってくれた高級アロマオイルをミストに混ぜただけだ。癒やされるのは当然だ)
レオナルドの天才的な頭脳は、ガラハッド教官や生徒会長の時と全く同じように、私の「怠惰な行動」を「神の如き魔法の神髄」へと勝手に変換し、暴走を始めていた。
「……私の、完全な敗北だ」
レオナルドは、両膝を床につき、ガックリと項垂れた。
「帝国の聖女よ……いや、ルセリア様。私は、己の魔法の才能に溺れ、井の中の蛙であった。貴女は、私の攻撃魔法など、取るに足らない『日常の些事(乾燥)』の解決手段としてしか見ていなかったのですね……」
レオナルドの琥珀色の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「真の魔法とは、相手を破壊し、傷つけるためのものではない。……他者の攻撃すらも包み込み、癒やし、日常を豊かにするためのもの。貴女のその『加湿魔法』に込められた深遠なる教え、私の魂に深く刻み込まれました!!」
(えっ。いや、ただお肌が乾燥するのが嫌だっただけなんだけど……)
私が内心でツッコミを入れる間もなく、レオナルドは這うようにして私のベッドの足元まで進み出て、床に額をこすりつけた。
「ルセリア様!! どうか、この無知で傲慢だった私を、貴女の『弟子』としてお加えください! 私は魔法大国ゼニスの次期筆頭魔導士の座など捨てて、貴女の元で、真の魔法(人を癒やす力)をゼロから学び直したいのです!!」
「……はぁっ!?」
私は、思わず素っ頓狂な声を上げた。
「いやいやいや! 留学生なんでしょ!? 国に帰りなさいよ! 弟子とかいらないから!!」
「いいえ! お許しが出るまで、私はこの塔の前から一歩も動きません!! 貴女のその究極の『生活魔法』の足元にも及ばない自分が、国に帰ることなど恥辱の極みです!!」
レオナルドは、完全に『狂信者』の目になっていた。
アグニ地方で泥にまみれていたコンラート皇子たちと、全く同じタイプの、最高に面倒くさい熱量を持った瞳である。
「お嬢様」
私の隣で、テオがまたしても悪魔的な笑みを浮かべて囁いた。
「素晴らしい成果です。魔法大国の特待留学生すらも、たった一撃(加湿)で心酔させてしまうとは。……これで、彼の持つゼニス王国の最新魔導技術やコネクションも、すべてお嬢様の『別荘開発(サボり環境の向上)』に利用できますね」
「いらない!! 私はこれ以上、周りに意識高い系の信者を増やしたくないのよぉぉぉっ!!」
私の悲痛な叫びは、またしても「弟子入りを拒むことで、さらに高いハードルを提示している」と曲解され。
結果として、魔法大国の天才魔導士レオナルドは、「ルセリア親衛隊(狂信者連合)」の強力な新メンバーとして、私の学園生活にさらなるカオスをもたらすことになるのだった。
「お姉様! レオナルド殿が弟子入りしたと聞きましたわ! 後輩の教育は、私にお任せを!」
「師匠! 俺も負けてはおられません! 明日からは塔の周囲の警備を二倍に増やし、師匠の安眠を死守いたしますぞ!」
塔の外に駆けつけてきたコンラートとヴィクトリアの声を聞きながら。
私は、完全に諦めの境地(死んだ魚の目)で、フカフカのクッションに顔を埋めた。
「もう……好きにして……。私は寝るから……」
私の「引きこもってサボる」という目的は完遂されているはずなのに、なぜか周囲の規模だけが国家間レベルへと拡大し続ける。
怠惰な美少女令嬢の、終わらない勘違い伝説は、いよいよ帝国の国境すらも越えていくのであった。




