第6話:湯上がりの女神と、辺境開拓合宿の始まり
ギィィィッ……。
別荘の奥から続く、重厚な木造りの扉がゆっくりと開かれる。
私は、足元まである長いシルクの羽織をギュッと引き寄せながら、ため息交じりに中庭へと姿を現した。
「ルセリア師匠……っ!!」
「お姉様……!!」
玉砂利の上に這いつくばっていた三十名以上の泥だらけの貴族子弟たちが、一斉に顔を上げ、私の姿を食い入るように見つめた。
私の現在の格好は、控えめに言って「公爵令嬢として絶対にあってはならない姿」である。
つい先ほどまで露天風呂で寝落ちしていたため、髪は完全に乾ききっておらず、毛先からポタポタと水滴が落ちている。当然、化粧(といっても10歳なのでほんの薄化粧だが)など一切しておらず、完全なすっぴん。
ドレスでもなく、コルセットもつけていない。湯浴み着の上に、カヤが作った肌触りの良い浴衣とシルクの羽織を重ねただけの、限りなく「寝巻き」に近い状態だった。
(あーあ、せっかくのバカンスなのに。こんなボロボロの集団の相手をしなきゃならないなんて。適当にお風呂に入れて、ご飯食べさせて、明日には馬車を手配して帝都に送り返そう……)
私は、徹夜明け特有の「世界に対する無関心(死んだ魚の目)」をデフォルトで発動させながら、彼らの前に歩み出た。
しかし、私のその「無防備で気だるげな湯上がりの姿」が、死線を越えてきた彼らの目にどのように映ったか。
それは、私の予想を遥かに超える、絶望的な『深読み(バグ)』を引き起こしていた。
(――おおお……!! なんという……なんというお姿だ!!)
第二皇子コンラートは、泥だらけの顔のまま、息を呑んで私を見上げていた。
彼の目に映るルセリアは、帝都の王宮で纏っていたような、何重にもフリルが重なった虚飾のドレスを一切捨て去っていた。
飾り気のない、ありのままの姿。
少し濡れた白銀の髪が夕暮れの光に透け、ほんのりと湯気をまとっている。その肌は、過酷な辺境の地にあっても、信じられないほど透き通るように白く、輝いている。
(これが……これこそが、真の貴族のあり方! 権力を誇示するドレスも、己を大きく見せる化粧も、ルセリア師匠にとってはただの枷に過ぎないのだ! 彼女は、この辺境の大自然と完全に同化し、ありのままの姿で世界と向き合っておられる!)
コンラートの隣で、ヴィクトリアもまた、ガタガタと震えながら感涙にむせんでいた。
(ああ……ルセリアお姉様……! なんて美しく、気高いの……! 私たちを試すための過酷な罠を仕掛けたのも、すべてはこの『真理(ありのままの姿)』に気づかせるためだったのですね!)
ヴィクトリアは、自分が着ているボロボロになった侯爵令嬢のドレスの残骸を恥じた。
帝都では一着数百万もするドレスだったが、今の彼女には、それが「己を縛り付けていた浅ましいプライドの象徴」にしか見えなかったのだ。
「ルセリア師匠……!! コンラート、そしてヴィクトリア以下、三十名! 貴女様が課された過酷な試練を乗り越え、只今到着いたしました!!」
コンラートが、涙声で高らかに宣言する。
「私たちが愚かでした! 帝都の温室で、机上の空論ばかりを並べ立てていた自分が恥ずかしい! この辺境の泥を這い、獣の恐怖を知り、そして今……貴女様の『虚飾を捨てた真のお姿』を拝見し、ようやく目が覚めました!!」
「お姉様! 私たちも、お姉様のようにすべてを捨て去り、この地で一から学び直したいのですわ!!」
「「「どうか、我々を弟子としてこの地にお留めください!!」」」
全員が、再び玉砂利に額をこすりつけ、狂信的な叫び声を上げた。
「…………えぇ?」
私は、完全に置いてけぼりを食らっていた。
(虚飾を捨てた真の姿? いや、ただ風呂上がりで着替えるのが面倒くさかっただけなんだけど。ていうか、弟子入り? この地に留まる? 冗談じゃないわよ!)
私の温泉リゾート(引きこもり要塞)に、こんな面倒くさい意識高い系の集団が長期滞在するなど、絶対に許可できない。
「あー……その、皆さんの熱意はよく分かりましたわ」
私は、できるだけ波風を立てないように、かつ冷たく言い放った。
「ですが、見ての通り、ここは私個人の静養のための別荘ですの。皆さんのような大人数を長期間滞在させるような準備はありません。……それに、あなたたち、とてもお疲れのようね。泥だらけですし、酷い匂い(獣の返り血と汗の臭い)がしますわ」
私は鼻をつまむ仕草を隠しもせず、はっきりと拒絶の意を示した。
「まずは、その汚れを落とすのが先決ですわ。テオ、彼らを大浴場へ案内して。カヤ、彼らのために消化に良い食事を用意しなさい。……あなたたちのお話は、明日、綺麗になってから聞きますわ(そしてそのまま帰ってもらうわ)」
私はそれだけ言うと、彼らの返事も待たずにクルリと背を向け、自室へと戻っていった。
(よし。とりあえずこれで、今日のところは解散ね。明日の朝、馬車を数台手配して、彼らを無理やり押し込んで帝都に送り返せば完璧だわ)
私は自分の完璧な「あしらい」に満足しながら、冷たいフルーツ牛乳の二杯目を飲むために足早に立ち去った。
しかし。
残された中庭では、私の背中を見送る信者たちの間で、またしても壮絶な「深読みの嵐」が吹き荒れていたのである。
「……聞いたか、ヴィクトリア」
コンラートが、顔を上げ、震える声で呟いた。
「ええ、殿下。お姉様の御言葉、この胸に深く、深く突き刺さりましたわ……」
ヴィクトリアもまた、熱を帯びた瞳で頷く。
『泥だらけで酷い匂いがする。まずはその汚れを落とすのが先決。話は綺麗になってから聞く』
私が放った、ただの「臭いから風呂に入れ」という苦情。
それが、彼らの脳内では次のように変換されていた。
(――『お前たちはまだ、帝都の権力闘争や驕りという【心の汚れ(泥)】を落としきれていない。獣のように本能のままに突き進むだけでは、真の指導者にはなれない。まずは己の精神を清め、冷静さを取り戻しなさい。教えを乞うのはそれからだ』と……!!)
「おおおっ……! ルセリア師匠は、最後まで我々の本質を見抜いておられる! なんという厳しい、しかし愛に満ちた御言葉か!」
コンラートは天を仰ぎ、両拳を強く握りしめた。
「我々はまだ、師の御前に立つ資格すら得ていなかったのだ! 皆の者、師の教えに従い、まずはこの身と心を清めようではないか!!」
「「「おおおおおっ!!」」」
テオは、その一部始終を傍らで見て、深い、深いため息をついていた。
(……お嬢様。これでは逆効果です。彼らの信仰心に、さらに油を注いでしまいましたよ……)
しかし、有能な執事であるテオは、決して主の決定に口を挟むことはしない。彼は無表情のまま、泥だらけの集団を大浴場へと案内した。
◇◇◇
そして、一時間後。
大浴場から出てきたコンラートとヴィクトリア、そして貴族子弟たちは、完全に腰を抜かしていた。
「な、なんだこの『オンセン』という魔法の湯は……!?」
「信じられん……。三日間不眠不休で歩き続け、傷だらけだったはずの肉体が、お湯に浸かっただけで完全に回復している! それどころか、体内から魔力が湧き上がってくるようだ!」
彼らが入ったのは、カヤが地下深くから掘り当てた正真正銘の天然温泉である。
疲労回復効果はもちろんのこと、魔法世界特有の微量な『魔素』が含まれており、極限状態まで追い詰められていた彼らの肉体を、一瞬にして超回復させたのだ。
さらに、彼らを驚愕させたのは、風呂上がりに提供された『食事』だった。
大広間に通された彼らの前に並べられたのは、カヤが腕を振るった『辺境の食材を使った特製ディナー』。
香ばしく焼き上げられた巨大な魔獣の肉。アグニ地方特有の辛味スパイスを効かせた、疲れた胃腸を刺激するスープ。そして、デザートにはキンキンに冷えたフルーツ牛乳。
「う、美味い……! 美味すぎる!!」
「帝都の王宮で食べるフルコースより、遥かに美味ですわ! こんな素晴らしい食材が、この貧しいはずの辺境の地にあるなんて!」
「いや、食材だけではない! この料理には、食べる者の命を燃え上がらせるような『力』が込められている!」
狂信者たちは、涙を流しながら料理を胃に詰め込んでいった。
彼らは知らない。この食材が、テオとマイナが代官や盗賊団を「物理的にお掃除」したことで確保された流通ルートの賜物であり、カヤの異常な料理スキルの結晶であることを。
「……分かったか、皆の者」
食事を終え、フルーツ牛乳を飲み干したコンラートが、厳粛な面持ちで口を開いた。
「この地は、決して不毛な左遷先などではない。ルセリア師匠は、この地の持つ『真のポテンシャル(温泉と未知の食材)』を、帝都にいる誰よりも早く見抜いておられたのだ」
「ええ……。そして、私利私欲にまみれた代官を排し、たった一週間でこの楽園を創り上げられた。……これこそが、真の『領地開拓』ですわ!」
ヴィクトリアが、目を輝かせてコンラートに同意する。
「ルセリアお姉様は、我々に背中で教えてくださっているのです。権力にすがりつくのではなく、自らの手で価値を創り出すことの尊さを。……殿下、私たちは明日、お姉様に申し出なければなりませんわ」
「ああ。我々も、お客様としてこの場に留まるわけにはいかない。師の偉大な『辺境開拓プロジェクト』の末席に、労働力として加わらせていただくのだ!」
彼らの瞳には、もはや「帝都の貴族」としてのプライドは欠片も残っていなかった。
ただ、神の創り出した奇跡の村で、泥にまみれて働きたいという、恐るべき意識高い系の労働意欲だけが燃え盛っていたのである。
◇◇◇
翌朝。
私は、昨夜の内にたっぷりと睡眠を取り、肌ツヤも完璧な状態で広間へと向かった。
(よし。今日は朝一番で、彼らを馬車に詰め込んで追い返すわ。ギルに手配させた馬車が、もう門の前に着いているはずよ)
私が広間の扉を開けると、そこには、カヤが用意してくれた清潔な服(村人風の簡素な麻の服)に着替えた三十名の貴族子弟たちが、ビシッと整列して待ち構えていた。
彼らの顔は、昨日の泥だらけの悲壮感とは打って変わり、温泉と美食によってツヤツヤに輝き、異常なほどの活気に満ち溢れている。
「おはようございます、ルセリア師匠!!」
コンラートが、元気よく一礼した。
「……おはよう。ずいぶんと顔色が良くなったわね。昨夜はよく眠れたかしら?」
「はい! 師匠のお導き(温泉とカヤの料理)により、我々の肉体と精神は完全に生まれ変わりました!」
「それは良かったわ。……さて、それじゃあ、約束通りお話を聞くけれど」
私は、窓の外に待機させている馬車をチラリと見て、話を切り出した。
「あなたたちは、この辺境の地に何をしに来たの? 私はここで静養しているの。あなたたちの相手をしている暇はないわ」
私が冷たく突き放すと、コンラートとヴィクトリアは顔を見合わせ、深く頷いた。
そして、彼らは予想の斜め上をいく、とんでもない提案(爆弾)を投下してきたのである。
「ルセリア師匠! 我々は、師匠の邪魔をするつもりは毛頭ありません! ただ、師匠がこの不毛の地で進めておられる『辺境開拓事業』に、我々も一介の労働力として参加させていただきたいのです!」
「……は?」
私は素っ頓狂な声を出した。
「労働力……? 何を言っているの?」
「遠慮は無用ですわ、お姉様!」
ヴィクトリアが身を乗り出してくる。
「お姉様が、この土地の可能性(温泉や食材)を見出し、たった一週間でこれほどの拠点を築き上げられた手腕、感服いたしました! ですが、ここからさらに街を拡大し、インフラを整備するには、圧倒的に『人手』と『指揮官』が足りないはずです!」
ヴィクトリアは、背後に並ぶ貴族子弟たちを指差した。
「ここにいる三十名は、帝国の法、経済、建築、魔法土木を学んだエリートの卵たちです! どうか、我々を『開拓の現場監督』として酷使してくださいませ! お姉様はただ、この別荘でゆっくりと静養(指揮)をしてくだされば良いのです!」
「「「どうか、我々に労働をお与えください!!」」」
三十人のエリートたちが、一斉に頭を下げた。
(……え? 労働? 現場監督? 私の代わりに働くって言ってるの?)
私の脳内で、彼らの言葉が急速に変換されていく。
(つまり……彼らは、私に『構ってくれ』と言っているわけじゃない。勝手に外で働いて、勝手にこの土地を開拓してくれるってこと……? 私は、この別荘から一歩も出ずに、彼らに丸投げしておけばいいってこと!?)
それは、前世の社畜時代に夢見た「超優秀な部下たちが、自分の代わりにすべての業務を回してくれる究極の不労所得システム」そのものであった。
彼らが勝手にこの土地を豊かにしてくれれば、私の温泉リゾートの食事のクオリティはさらに上がり、治安も良くなる。しかも、私は一切働かなくていい。
「……あなたたち、本気で言っているの? ここは辺境よ。泥にまみれて、血の滲むような思いをすることになるわよ?」
私が念を押すように尋ねると、コンラートは太陽のような眩しい笑顔で力強く頷いた。
「望むところです! 師匠の背中を追うためなら、どんな労苦も喜んで受け入れます!」
(……よし! 採用!! 即採用!!)
私は心の中でガッツポーズを決め、表面上はどこまでも厳かな、聖女のような微笑みを浮かべた。
「……分かりましたわ。そこまで言うのなら、あなたたちの意志を尊重しましょう」
私がそう言った瞬間、三十名の子供たちの顔が、パァッと輝いた。
「ただし」
私は、彼らに一つだけ、絶対に守らせなければならない『条件』を突きつけた。
「私は現在、深い思索の最中です。あなたたちの開拓事業について、私から細かく指示を出すことは一切ありません。あなたたち自身で考え、勝手に動き、勝手に結果を出しなさい」
それは、前世の無能な上司がよく使う「全部お前らで考えてやれ(丸投げ)」という最低の責任放棄である。
「そして、最も重要なことですが……私がこの別荘で休んでいる時、決して私を煩わせないこと。面会は最小限に。私の静寂(お昼寝)を妨げた者は、その時点で即刻、帝都へ追放します。……約束できるわね?」
「おおおっ……!!」
コンラートとヴィクトリアが、感極まったように震え上がった。
(なんという……なんという深遠なる御言葉! 『細かく指示を出さない』というのは、我々の自主性と能力を完全に信頼してくださっている証! そして『静寂を妨げるな』というのは、自立できない甘ったれは不要だという、厳しい自律の教え!!)
「承知いたしました、ルセリア師匠!! 我々だけで、必ずやこのアグニ地方を、師匠の御心にふさわしい『帝国一の豊穣の地』へと変えてご覧に入れます!!」
「お姉様の安眠は、私たちが全身全霊で守り抜きますわ!!」
狂信者たちのモチベーションは、私の「完全放置(丸投げ)宣言」によって、ついに限界を突破した。
「よーし! 皆の者、作業開始だ! まずはヴィクトリアの指揮で区画整理を行い、私が近隣の領民たちを束ねて土木作業に入る! ルセリア師匠の邪魔にならぬよう、全速力で動け!!」
「「「おおおおおっ!!」」」
彼らは、私が手配していた「帰りの馬車」に見向きもせず、歓声を上げながら別荘の外(開拓現場)へと飛び出していった。
残されたのは、私と、その様子を呆然と見守っていた側近たちだけだ。
「……テオ。なんか、すごいことになっちゃったけど、とりあえず私の温泉ライフは守られたわよね?」
「……はい、お嬢様。結果的に、お嬢様は何もしないまま、帝国最高峰の頭脳と労働力を『無給』で手に入れたことになります。……お嬢様の悪魔的な人心掌握術には、俺も背筋が凍る思いです」
テオが、冷や汗を流しながら深く一礼した。
こうして。
私の「ただ温泉に入ってダラダラしたい」という怠惰な欲望は、三十名のエリート貴族たちによる『アグニ地方・超絶開拓プロジェクト』という狂気の労働フェスへと変貌を遂げた。
私が別荘でフルーツ牛乳を飲んで寝転がっている間に、この不毛の地が、帝国の歴史を塗り替えるほどの「奇跡の巨大都市」へと爆速で進化していくことなど。
この時の私は、まだ完全に他人事としてしか考えていなかったのである。




