第4話:極楽浄土の崩壊、忍び寄る「信者」の足音
「あぁ……生き返る……。ここが天国か……いや、天国以上の楽園だわ……」
アグニ地方に突如として出現した超高級温泉リゾート――名付けて『ルセリア・温泉・サンクチュアリ(別名:私の最高の寝床)』。
その最上階にある特別室の露天風呂で、私は乳白色の温泉に肩まで浸かり、トロトロにとろけきった表情を浮かべていた。
あれから数日。
私の毎日は、文字通り「人類が夢見た究極の怠惰」の具現化であった。
朝、目が覚めると、マイナが完璧な温度のレモンウォーターを差し出し、そのままふかふかの特製低反発マットレスから一歩も歩くことなく、スライド式の移動台(テオが特製魔法陣で作った手抜き用エスカレーター式リフト)で大浴場(および露天風呂)へと直行する。
お湯に浸かってボーッとしていると、カヤが「お嬢様、湯上がりの糖分補給にどうぞ」と、キンキンに冷えた特製フルーツ牛乳を持ってきてくれる。
お昼には、アグニ地方の過酷な気候を魔法で完全にねじ伏せて栽培された極上の食材を使った、一流シェフ顔負けの美食ランチが提供される。
そして午後は、部屋に戻って読書(という名の昼寝)を堪能し、夜になれば再び温泉に浸かって爆睡する。
(最高……。帝都に戻りたくない。一生、この温泉宿の住人として生きていきたい……)
私の肌は、過酷な辺境の地にあるとは思えないほどモチモチのツルツルになり、精神的ストレスはマイナスを記録していた。
外の世界で何が起きようと、私には関係ない。
テオたちが代官をどう処罰したとか、領民たちが私をどう崇拝しているとか、そんな面倒くさいことはすべて「温泉の向こう側」の出来事として完全に脳内から除外していた。
しかし。
世の中の法則として、「あまりにも完璧すぎる平穏」というのは、往々にして巨大な嵐の前の静けさに過ぎないものである。
「――お嬢様。そろそろ湯上がりのお時間かと存じます。あまり長湯をされますと、お脳の血管が拡張してぼーっとしてしまいますので」
露天風呂の石垣の向こうから、テオの落ち着いた声が聞こえてきた。
私は名残惜しさを覚えつつも、「はーい……」と返事をし、マイナが用意してくれた極上の大判タオルに包まれた。
湯上がり処の広間。
私はフカフカの浴衣(カヤが特注で作らせた、肌触り抜群のオリジナルウェア)に身を包み、用意された冷たいフルーツ牛乳をゴクゴクと喉に流し込んだ。
「ぷはぁっ……! この、風呂上がりに腰に手を当てて飲むフルーツ牛乳の美味さよ……! 前世のサラリーマン時代、銭湯帰りに飲んでいたアレを完全に超えているわ、カヤ!」
「ありがとうございます、お嬢様! 牧場のミルクの選定から、フルーツの配合比率まで、徹底的に研究いたしました!」
カヤが尻尾を振っているかのような満面の笑みで喜ぶ。
私は満足げにうなずき、フカふかのソファに身体を沈めた。
目の前には、テオが手際よく淹れてくれた最高級のハーブティーが置かれている。
(ふふふ、完全に完璧なルーティンだわ。このまま何何十年も、この辺境の地でひっそりと隠居生活を送り続けたい……)
私がそんな夢物語を頭の中で描いていた、その時だった。
「――失礼いたします、ルセリア様」
広間の扉が静かに開くやいなや、裏情報担当のギルが、普段の余裕のある笑みを消し去り、珍しく険しい顔をして足早に入ってきたのだ。
「ギル? そんなに焦った顔をして、どうしたの? まさか、またどこかの悪党が残っていたわけ?」
私がのんびりとハーブティーを啜りながら尋ねると、ギルは苦々しい表情で一枚の羊皮紙をテーブルに叩きつけた。
「悪党じゃありませんよ、お嬢様。……もっと性質の悪い連中です」
「性質の悪い連中? 盗賊の残党?」
「いいえ。『帝都からの訪問者』です」
(……は?)
私の手から、ティーカップが滑り落ちそうになった。
「と、訪問者……? 誰が? ここはアグニ地方よ? 貴族が誰も来ない、不毛の左遷先じゃなかったっけ!?」
「ええ、本来なら誰も来ないはずでした。ですが……情報網からの急報によれば、皇都を出発した『巨大な一団』が、すでにアグニ地方の国境を越え、ものすごい勢いでこの別荘に向かって移動してきているそうです」
ギルの言葉に、テオとマイナ、そしてカヤの顔色が変わった。
特にテオの漆黒の瞳に、鋭い殺気が宿る。
「帝都からの巨大な一団……? まさか、お上の追手か、あるいは我が家の政治的敵対勢力か……!」
「違う! 敵とかそういうのじゃないのよ、もっと最悪なの!」
ギルは頭を抱えるようにして言った。
「その一団の先頭に立っているのは……第二皇子コンラート殿下と、クライス侯爵令嬢ヴィクトリア様です。さらに、その後ろには、おのおの私兵や取り巻きを従えた『ルセリア様を信仰する貴族子弟たちの連合軍』が、総勢百名規模で押し寄せてきているんです……!!」
「………………………………はぁっ!?」
私は、今日一番どころか、人生で一番大きな奇声を上げてソファから跳ね起きた。
「こ、コンラートに……ヴィクトリア……!? しかも、百名規模の貴族の連合軍だって……!? なんで!? なんであいつらが、こんな何もない辺境の地にやってくるのよ!!」
私の頭の中で、せっかく築き上げた「完璧な温泉リゾート(引きこもり要塞)」の崩壊音がゴゴゴゴと響き渡った。
前のお茶会の事件以来、彼らが私を「神聖なオピニオンリーダー」として崇拝しているのは知っていた。
しかし、まさか私が「静養(逃避)」のために帝都を離れた途端、彼らがその行方を嗅ぎつけ、わざわざこんな不毛の辺境の地まで追っかけてくるとは、夢にも思わなかったのだ。
「お嬢様、落ち着いてください」
テオが冷徹な声で私を制し、頭の中で瞬時に状況を整理し始めた。
「彼らは、お嬢様が帝都の喧騒を離れ、あえて過酷な辺境の地で『真の静養と自己修養』に励んでおられるという噂を聞きつけたのでしょう。……おそらく、『我々もルセリア師匠の御許で、辺境の泥にまみれながら共に修業するのだ!』という、身勝手で迷惑極まりない熱情に突き動かされてここまで来たに違いありません」
(そうよ! 絶対にそれよ! あの意識高い系のめんどくさい熱血どもが、「私たちも辺境開拓を手伝います!」とか言ってここに居座ったら、私の温泉ライフが完全に終わるじゃない!!)
私の脳裏に、毎日朝から晩までコンラートに政治経済の議論をふっかけられ、ヴィクトリアに難しい税収計算の質問をされ、さらに他の信者たちから「聖女様、私に御言葉を!」と囲まれる地獄の光景が鮮明に蘇ってきた。
せっかく見つけた極楽浄土が、一瞬にして「地獄のセミナー合宿所」に書き換わってしまう。
そんなの、絶対に、絶対にイヤだ!!
「いやよ……! 私は絶対にあの面倒くさい連中に会いたくない! 返り討ちにしてやりたいくらいよ! ねぇテオ、どうにかして追い返して! 『ルセリアは病気で寝込んでいます。面会一切謝絶です』って看板出しといて!」
私が子供のようにパニックを起こしてジタバタすると、テオは少しだけ眉をひそめ、しかしすぐに頼もしい笑みを浮かべた。
「ご安心ください、お嬢様。お言葉ですが、あのような不届き者どもを、この『ルセリア・サンクチュアリ』の敷居の一歩すら跨らせるわけにはまいりません」
テオの目が、冷酷な光を放つ。
「お嬢様がせっかく手に入れられた至高の安眠と温泉の時間を、あんな俗物どものおしゃべりで汚すなど、我が人生最大の汚点となります。……あの連中がこの地に足を踏み入れる前に、俺がすべての『防衛網』を構築いたしましょう」
「防衛網……? テオ、まさかまた物騒なことを……」
「ふっ、ご心配なく。今回は暴力ではなく、もっと確実で、もっと絶望的な『物理的・社会的防衛壁』を用意します」
テオは不敵に笑い、ギルとマイナに向かって素早く指示を飛ばした。
「ギル、アグニ地方に通じるすべての街道と山道に、我が情報網の総力を挙げて『偽りの誘導サイン』を設置しろ。連中をこの温泉リゾートとは全く逆方向の、何もないマグマ溜まりの荒野へと迷い込ませるんだ」
「了解した、テオ。あいつらを数日間は迷子にしてやるよ」
ギルがニヤリと笑って部屋を飛び出していく。
「マイナ。お前は国境の関所周辺に潜伏し、もし奴らが強行突破しようとしたら、夜の間に彼らの馬車の車輪をすべてバラバラに解体してきなさい。命までは取りませんが、移動手段を失えば進軍は止まります」
「分かったわ、お兄ちゃん。極静かに、かつ完璧に『足』を奪ってきます」
マイナもまた、楽しげに闇の中へと消えていった。
「おいおい、そこまでやる……?」
私は冷や汗を流しながらテオを見たが、テオの熱意はもはや誰にも止められない領域に達していた。
「当然でございます、お嬢様。お嬢様の平和を守るためなら、皇子殿下の一人や二人、数日間荒野で遭難させようとも、このテオ、微塵も惜しくはありません」
(いや、皇子を遭難させるのは普通に大問題だからね!? 国から大罪人として指名手配されちゃうからね!?)
しかし、テオを止める余裕は私にはなかった。
それほどまでに、あの「意識高い系の追っかけ集団」の接近は、私の怠惰なスローライフにとって最大にして最強の脅威だったのだ。
「……はぁ。とにかく、あの連中を近づけないでよね。私は、この温泉とフルーツ牛乳を死守したいの……!」
「お任せください、ルセリア様。このテオがいる限り、誰も、一匹の虫たりともお嬢様の楽園には近づけません」
テオが胸を張って敬礼した、その時だった。
ドオオオオオオオンッ……!!
遠くの空で、まるで雷鳴のような轟音が地響きと共に鳴り響いた。
このアグニ地方の火山活動にしては、あまりにも不自然で、あまりにも人工的な爆発音である。
「な、なんだ今の音……!?」
私が飛び上がると、テオは窓の外を見渡し、冷や汗を一つ流した。
「……どうやら、ギルたちが仕掛けた最初の『足止めトラップ』に、皇子の一団が盛大に引っかかったようですね。……ふっ、流石は我が同志たち、仕事が早い」
「早いどころの騒ぎじゃないわよ! あれ絶対、誰か死にかけてるでしょ!」
私の心臓はバクバクと嫌な音を立てていた。
私の平穏な温泉ライフを守るため、側近たちが勝手に国家機密レベルの防衛戦争(テロ行為)をアグニ地方の国境付近で繰り広げ始めている。
(私はただ、ダラダラしたかっただけなのに……! なんで私の周りでは、いつもこんなに大事件が起きちゃうわけ!?)
頭を抱える私をよそに、テオは「さぁ、お嬢様、防衛戦の幕が上がりました。どうぞご安心の上、次の温泉をお楽しみください」と、どこまでも涼しい顔でお茶を淹れ直すのだった。
帝国の次代を背負うエリートたち(追っかけ)と、主の安眠を守るために暴走する最強の側近たち。
そして、その中心でひたすらに現実逃避を決め込む、怠惰な美少女公爵令嬢。
アグニ地方の温泉リゾートを舞台にした、史上最もシュールで壮大な「防衛戦争(お昼寝死守戦)」の火蓋が、今、切って落とされたのである。




