第3話:到着、そこはすでに『聖域(リゾート)』だった
ガタゴト、という微かな振動すら、今の私には極上のゆりかごに感じられた。
帝都ガルデニアを出発して、およそ一週間。
私を乗せたヴァロワ公爵家特注の超高級馬車は、帝国北西の果て、忌み嫌われる辺境の地『アグニ地方』へと足を踏み入れようとしていた。
「あぁ……もうすぐね。もうすぐ、私の夢の温泉バカンスが始まるのね……!」
馬車の広々とした座席の上で、私はクッションを抱きしめながら身悶えしていた。
父ラインハルトが私のために用意したこの馬車は、最新の魔法工学を用いたサスペンションと、衝撃吸収用の風魔法陣が組み込まれており、悪路を走っていてもコップの水が一滴もこぼれないという恐ろしい代物である。
さらに、窓ガラスには完全な遮光と防音の魔法がかけられ、車内は適温に保たれている。正直、この馬車の中で一生暮らしてもいいと思えるほどの快適さだった。
(でも、温泉には勝てない。広いお風呂で手足を伸ばして、硫黄の香りに包まれながら湯船で寝落ちする……あれこそが、人間の至高の贅沢よ)
私はよだれを拭い、ワクワクしながら窓の遮光カーテンを少しだけ開けた。
ギルからの事前報告によれば、アグニ地方は「土地は痩せ細り、領民は極貧にあえぎ、治安は最悪の地獄のような場所」であるはずだった。
当然、馬車の窓から見える景色も、荒れ果てた荒野や、ボロボロのあばら屋、そして飢えた平民たちがうろつくスラムのような光景だと覚悟していたのだ。
だが。
私の目に飛び込んできた景色は、事前の情報とは180度、いや、次元が違うレベルで異なっていた。
「……えっ? なにこれ」
私は思わず、窓ガラスに額を押し付けて外を凝視した。
馬車が走っている街道は、どう見ても「昨日今日作られたばかり」のような、真新しい石畳で綺麗に舗装されていた。道幅は広く、馬車がすれ違うのにも全く苦労しない。
街道の両脇には、等間隔で美しい街灯(魔法石のランプ)が設置され、その足元には、この土地には自生していないはずの色鮮やかな花々が植えられたプランターがずらりと並んでいる。
さらに驚くべきは、街道を行き交う人々の姿だ。
痩せこけてボロ布を纏っているはずの平民たちが、なぜか皆、真新しくて清潔な麻の服を着ており、顔には血色が戻り、満面の笑みで農作業や土木工事に精を出しているではないか。
(えっ!? なんで!? アグニ地方って貧困と搾取のどん底じゃなかったの!?)
そして、私の乗る『ヴァロワ公爵家の紋章がデカデカと描かれた馬車』が彼らの視界に入った瞬間。
さらに信じられない光景が繰り広げられた。
「お、おおおっ! あれを見ろ! ヴァロワ家の馬車だ!」
「ルセリア聖女様が、ついにこの地へお越しになられたのだ!!」
街道にいた人々が、農具を放り出し、作業の手を止め、我先にと馬車の通り道へと集まってきた。
だが、彼らは決して馬車の進路を塞ぐことはしない。
街道の両脇に一糸乱れぬ動きで整列すると、まるで神の降臨を目の当たりにした狂信者のように、一斉にその場に土下座(平伏)したのである。
「ルセリア様、万歳!! 我らが救世主様に、永遠の栄光を!!」
「我々を地獄からお救いいただき、ありがとうございます!! この命、ルセリア様に捧げます!!」
「聖女様ぁぁぁっ! どうか、どうか我々に慈悲の光を……っ!」
老若男女問わず、何百人という領民たちが、額を石畳にこすりつけながら、大声で泣き叫び、私に向かって祈りを捧げている。
「…………えぇ?」
私は、窓からその光景を見て、完全に思考がフリーズしてしまった。
(なにこれ。新興宗教? 私、いつから教祖になったの?)
私はただ、温泉に入ってダラダラしたいから、部下たちに「私が行くまでに掃除(部屋の準備)をしておいてね」と頼んだだけである。
それがなぜ、村人総出での「救世主に対する狂気の土下座パレード」に変わっているのか。
「お嬢様、もうすぐ『別荘』に到着いたします」
同行していた数少ない護衛の騎士が、馬車の外から誇らしげに声をかけてきた。
「見事なものです。お嬢様の『事前のお手配』により、この地はすでに完全な平定と浄化がなされております。領民たちのこの感謝の姿……お嬢様の慈愛は、すでにこの地の隅々にまで行き渡っておりますぞ!」
(事前のお手配? 浄化? え、テオたち、一週間で一体何をやらかしたの!?)
私の背筋に、嫌な汗がツーッと流れ落ちる。
前世のビジネスにおいて、「有能すぎる部下に指示を丸投げした結果、予算と権限をフルに使って、想定の百倍の規模でプロジェクトを完遂(暴走)されてしまい、後戻りできなくなる」という恐怖のパターンが存在する。
今の状況は、まさにそれの『異世界・国家レベル版』であった。
やがて馬車は、アグニ地方の中心部に位置する、小高い丘の上へと差し掛かった。
そこにはかつて、悪徳代官バッカスの屋敷があったと聞いている。
しかし、丘の上にそびえ立っていたのは、私の想像を絶する超巨大な建造物だった。
「……うそ、でしょ」
私は口をあんぐりと開けた。
そこにあったのは、もはや『別荘』などという可愛いレベルの代物ではない。
高い石の城壁に囲まれ、敷地の中心には、前世で私が写真でしか見たことがないような『超高級温泉旅館(和風建築の巨大版)』を彷彿とさせる、豪奢で巨大な木造建築が堂々と建っていたのである。
屋根の瓦は太陽の光を浴びて美しく輝き、庭園には優雅な松の木(のような植物)が配置され、さらに奥からは、モクモクと白い湯けむりが立ち上っている。
(温泉宿だ……! しかも、一泊何十万もする超VIP向けのやつだ!! これ、本当にたった一週間で建てたの!?)
馬車がその『超高級温泉リゾート(ルセリア専用別荘)』の巨大な門をくぐると、玄関先には、私の到着を待ちわびていた四人の人物が、完璧な姿勢で直立不動のまま並んでいた。
見習い執事のテオ。
専属メイドのマイナ。
裏情報担当のギル。
専属料理人のカヤ。
私の最強の(そして最も厄介な)手足たちである。
馬車が停まり、護衛の騎士が扉を開ける。
私が重いドレスの裾を持ち上げ、恐る恐る馬車から降り立つと、四人は一斉に、地面に膝をついて深々と頭を下げた。
「お帰りなさいませ、ルセリア様」
テオが、いつもの冷徹な顔に、達成感と狂信的な忠誠心を入り交じらせた笑みを浮かべて口を開いた。
「お嬢様がご到着される前に、すべての『お掃除』を完了いたしました。このアグニ地方は今、お嬢様のための絶対不可侵の『聖域』でございます」
「……テオ。あのね、道中の村人たちが、なんかものすごい勢いで土下座してたんだけど……。それに、この建物、何? 一週間でどうやってこんなものを……」
私が引きつった笑顔で尋ねると、テオは恭しく胸に手を当てて報告を始めた。
「すべては、お嬢様から賜った『莫大な予算』と、『徹底的にお掃除せよ』という御命のおかげです」
テオの報告によれば、この一週間の間に、アグニ地方では次のような『お掃除(物理)』が実行されたらしい。
一、現地に到着したテオとギルは、即座に悪徳代官バッカスの横領の証拠と、盗賊団との密約を確保。その日の夜に代官邸を武力制圧し、代官を『社会的に抹殺(全財産没収の上、帝都の地下牢へ強制送還)』した。
二、マイナが単騎で、アグニ地方を根城にしていた凶悪な盗賊団『赤目の狼』のアジトへ潜入。わずか三時間で百人規模の盗賊団を物理的に『お掃除(壊滅)』し、治安を完全に回復させた。
三、代官から没収した不正な財産と、私が渡した莫大な別荘開発予算(お小遣い)を全額投入し、近隣の領地から大工や土木作業員を金に糸目をつけずに数千人規模でかき集め、三交代制の24時間突貫工事でこの『超高級温泉リゾート』を建設した。
四、カヤが地元の食材ルートを開拓し、同時に地質調査(魔法による強制発掘)を行って、見事に地下数百メートルから極上の温泉脈を掘り当てた。
「というわけで、現在のアグニ地方には、お嬢様の安眠を妨げるような悪党は一匹たりとも存在しません。領民たちは、長年の搾取と恐怖から解放してくださったお嬢様を、本物の女神として崇拝しております」
テオは、まるで「今日の夕食はカレーです」とでも言うような、極めて事務的かつ爽やかな声で、その血生臭い報告を締めくくった。
「…………」
私は、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
(ええぇ……。私、ただ『部屋の掃除しといてね』って言っただけなのに。なんで盗賊団が壊滅して、代官が失脚して、私が国を救ったジャンヌ・ダルクみたいになってるのよ……!)
これでは、静かなお忍びのバカンスどころではない。
私がこの地にいる限り、毎日毎日、領民たちが「聖女様!」と拝みに来るに決まっている。
私の「誰にも知られずに引きこもる」というささやかな夢は、部下たちの有能すぎる大暴走によって、またしても壮大に打ち砕かれてしまったのだ。
「ルセリア様、いかがなさいましたか? お顔の色が優れませんが……まさか、我々のお掃除(対応)に、何か不手際が……?」
テオが、スッと目を細め、冷たい汗を流しながら片膝をついた。
「もしや、代官を殺さず(地下牢送り)、生かしておいたのがお気に召しませんでしたか!? 申し訳ございません、お嬢様のお手を煩わせぬよう、直ちに暗殺部隊を帝都に――」
「違う!! 違います!! 殺さないで! 誰も殺さないで!!」
私は慌ててテオの恐ろしい発想を全力で否定した。
これ以上、彼らに「私が不満に思っている」と悟られたら、次はどんな国を揺るがす暴挙に出るか分かったものではない。
「完璧よ、テオ……。あなたたちの働きは、本当に……予想の斜め上を、光の速さで通り越して完璧だわ……」
私は、虚ろな目で親指を立てた(サムズアップ)。
「ありがたき幸せ!!」
四人が一斉に顔を輝かせ、私の足元にひれ伏した。
「さぁ、お嬢様! 難しいお話はここまでにして、早く中へお入りください!」
カヤが立ち上がり、嬉しそうに私の手を取った。
「お嬢様が仰っていた『オンセン』……地熱で温められた極上の湯を、大浴場と、お嬢様のお部屋専用の露天風呂の両方に引いております! そして、湯上がりには、私が開発した『冷たいフルーツ牛乳(特製)』をご用意しておりますわ!」
「!!」
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で渦巻いていた「救世主に祭り上げられた絶望」や「事態の収拾への不安」が、一瞬にして綺麗さっぱり吹き飛んだ。
(お、温泉……! しかも部屋付き露天風呂! 湯上がりのフルーツ牛乳!!)
前世から夢にまで見た、究極の温泉バカンスのフルセットである。
治安が回復し、インフラが整備され、美味しいご飯があり、極上のお湯がある。
よく考えれば、領民が私を聖女だと崇めていようが、テオたちが勝手に代官を粛清していようが、私がこの豪華な別荘の中でダラダラする分には、何の問題もないではないか。
(そうだわ! 外で何が起きていようと、私はこの別荘から一歩も出ないんだから関係ない! 私は今日から、この温泉宿で一生自堕落に生きてやるんだから!)
私の現金な脳細胞は、数秒で現実逃避を完了した。
「カヤ……あなたって子は、本当に天才ね。案内して、今すぐ! 私はドレスを脱ぎ捨てて、お湯にダイブしたいの!」
「はいっ! こちらへどうぞ、お嬢様!」
私は重いドレスの裾を引きずりながら、カヤに連れられて豪華絢爛な別荘の中へと駆け込んでいった。
玄関を抜けると、そこは完全に私が前世で憧れていた高級旅館そのものだった。
磨き上げられた木の廊下。ほのかに漂う、い草(に似た魔法植物)の香り。
そして、私の専用に用意されたという最上階の特別室の奥には。
「……あぁぁっ……!」
私は、部屋付きの露天風呂の前に立ち、感涙にむせんだ。
美しい岩で組まれた湯船には、乳白色の温泉が滔々と注ぎ込んでいる。
目の前には、アグニ地方の大自然(火山帯の荒々しい山々)が一望できる絶景が広がっている。
「完璧だわ……。これが、私の求めていた桃源郷よ……」
私はマイナの手によってマッハの速さでドレスを脱がされ、湯浴み着を巻くと、迷うことなくその極上の湯船へと足を踏み入れた。
「んんっ……あぁ〜……」
ちょうど良い熱さのお湯が、冷えて固まっていた私の身体をじんわりと包み込む。
硫黄の香りが鼻をくすぐり、こわばっていた筋肉がスゥッと解れていくのを感じた。
「極楽……。ここは極楽よ……。私、もう一生ここから出ない。帝都になんて絶対帰らない……」
私は湯船の縁に頭を乗せ、半目を開けたまま、完全に魂を温泉に溶かしていた。
(テオたちが勝手に暴走したせいで、外では『聖女伝説』だかなんだかが始まってるみたいだけど……まぁ、私がこのお湯から出なければ、誰にもバレないし、面倒なことには巻き込まれないわよね)
私は、己の怠惰な欲望が満たされたことに100パーセント満足し、温泉の温かさに身を委ねて深い眠りへと落ちていった。
しかし。
私がこの温泉別荘を「誰にも邪魔されない絶対の聖域」だと信じていたのは、ほんの数日間のことだった。
「辺境の地で苦行を積むルセリア様を追って、我々もアグニ地方へ向かうぞ!」
「聖女様のご尊顔を、一目でも拝ませていただきたい!」
私が帝都から姿を消したという噂を聞きつけた、コンラート皇子やヴィクトリアを筆頭とする「意識高い系の熱狂的信者たち」が、私を追ってこの辺境の地へと大挙して押し寄せてくること。
そして、彼らがこの「超高級温泉リゾート」を目撃し、私のことを「不毛の地を一瞬で楽園に変えた、本物の神の使い」だとさらに激しい勘違いをしてしまうことなど。
温泉でポカポカになっている私には、知る由もなかったのである。
私の「静かな別荘生活(有給休暇)」は、帝国の歴史上最も騒がしい『辺境聖地巡礼の始まり』として、さらなる地獄の扉を開け放つことになるのだった。




