第3章:第1話:限界公爵令嬢と、夢の温泉リゾート計画
「……疲れた。もう無理。私のライフ(精神力)はとっくにゼロよ……」
ヴァロワ公爵邸、私専用の広大な私室。
その中央に鎮座する、特注の超高級カウチソファにうつ伏せに倒れ込みながら、私は魂の抜け殻のような声で呻いた。
あの『王宮お茶会事件』から、丸二年の月日が流れていた。
現在、私は10歳。
前世の記憶を持つ私としては、10歳といえば小学校中学年、毎日ランドセルを背負って元気に校庭を走り回っているような年齢である。
しかし、このガルデニア帝国における私の立場は、もはや「一介の公爵令嬢」という枠を完全に逸脱してしまっていた。
「ルセリアお姉様! 本日も素晴らしいご高見、痛み入りますわ! お姉様のその『何もしないという究極の統治(ただ寝ていただけ)』の哲学、私の新たな経済特区構想の基盤とさせていただきます!」
「ルセリア師匠! 貴女のその無言の相槌から、私は『兵站を重視せよ』という深遠なるメッセージを受け取りました! 早速、軍部の再編案を練り直して参ります!」
これが、ここ最近の私の日常風景である。
あのお茶会以降、第二皇子コンラートとクライス侯爵令嬢ヴィクトリアという、帝国の未来を担う二大巨頭は、完全に私の「熱狂的な信者」と化してしまった。
彼らは週に何度もヴァロワ公爵邸を訪れ、自分たちの考えた政治案や経済案を、私という『祭壇』に捧げに来るのだ。
私が徹夜明けの眠気眼で「んー……」「なるほど……」と適当な相槌を打つだけで、彼らは「おお! 今の絶妙な『間』は、この案の欠陥を指摘しているのだな!」と勝手に深読みし、勝手に修正し、勝手に感謝して帰っていく。
さらに悪いことに、彼らが私を「同世代の絶対的オピニオンリーダー」として崇め奉った結果、他の貴族子弟たちまでが私のもとへ巡礼に訪れるようになってしまった。
今や私の周囲には、常に何十人もの「意識高い系の若手エリート(の卵)」たちが群がり、私の発する一挙手一投足から何かを学ぼうと目を光らせているのである。
(前世でいうところの、意識高い系オンラインサロンの教祖様状態じゃないの……! 私はただ、誰にも邪魔されずに寝ていたいだけなのに!!)
毎日毎日、面会(という名の信者の集い)をこなさなければならない私の精神状態は、もはや限界に達していた。
前世のブラック企業で、毎日終わりの見えない進捗会議に参加させられていた時の「あの胃の痛み」が、10歳の幼い身体に容赦なく襲いかかっている。
「ルセリア様、お疲れのようですね。カヤ特製の、疲労回復に効くハーブティーをお持ちいたしました」
ソファに顔を埋める私の耳に、涼やかな声が届いた。
顔を上げると、そこには見習い執事の制服を完璧に着こなすテオ(11歳)と、彼の背後に控える一人の少女の姿があった。
少女の名前は、カヤ(10歳)。
彼女もまた、テオやマイナと同じく、スラムから拾い上げられた孤児の一人だ。
私が「もっと美味しいご飯が食べたい」「前世のスイーツを再現してほしい」という極めて個人的な欲望(サボり環境の充実)のために、味覚と手先の器用さに特化した人材をギル(裏情報担当の少年)に探させ、スカウトしてきた天才料理少女である。
「ありがとう、カヤ。……あぁ、胃に染み渡るわ。美味しい……」
「お嬢様のお口に合って何よりです。お嬢様が少しでもリラックスできるよう、本日はカモミールとミントに、微かな甘みを加えております」
カヤは嬉しそうに微笑み、深く一礼した。
彼女の淹れるお茶と料理だけが、今の私の荒みきった心を癒やす唯一のオアシスだった。
「……テオ。今日の面会予定は、もう終わったわよね?」
「はい。皇子殿下とヴィクトリア様はお帰りになられました。明日は午前中から、帝国歴史学会の若手研究者たちが、お嬢様の『沈黙の哲学』についての解釈を巡って討論会を開きたいと――」
「キャンセルして!! 絶対にキャンセルして!!」
私はソファから勢いよく身を乗り出し、頭を抱えて絶叫した。
「もう無理! 限界! なんで10歳の子供が、毎日毎日、会社の重役会議みたいなものに出席しなきゃいけないのよ! 私はニートになりたかったの! 親の金で、一生ダラダラする約束(自分の中での)だったの!!」
「る、ルセリア様……?」
「有給よ! 私は有給休暇を取るわ! それも、絶対に誰も私を見つけられない、面会謝絶の辺境の地でね!!」
私のただならぬ気迫(社畜の悲鳴)に、テオは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにいつもの冷徹で有能な『影の宰相』の顔に戻った。
「……なるほど。お嬢様の御心、理解いたしました。確かに、近頃の有象無象の騒がしさは、お嬢様の高尚な思索を妨げる『ノイズ』となっておりましたからね」
(違う、単にうるさいから逃げたいだけだ)
「して、ルセリア様。静養の地として、どちらをご希望で?」
テオの問いに、私は前世の記憶の奥底から、最も強烈に渇望している一つの情景を呼び起こした。
サラリーマンの心のオアシス。
日々の激務で擦り切れた魂を癒やす、魔法の空間。
それは、硫黄の香りが漂う湯けむりの中で、ただ何も考えずに首までお湯に浸かり、湯上がりには冷たいフルーツ牛乳を腰に手を当てて飲み干すという、究極の贅沢。
「……温泉よ」
「オンセン……? それは、地熱によって湧き出る温かい水のことでしょうか」
「そう。大地の恵み、至高のリラクゼーション。私は、そこに行って泥のように眠りたいの。美味しいものを食べて、お湯に浸かって、誰とも会わない。それ以外は何もしない」
私の熱のこもったプレゼンに、テオはアゴに手を当てて思考を巡らせた。
「しかしお嬢様、帝都近郊の保養地(別荘地)は、すでに他の貴族たちの縄張りとなっております。お嬢様が向かえば、すぐに嗅ぎつけた連中が挨拶という名目で押し寄せてくるでしょう」
「だから! 誰も来ないような、辺鄙な場所がいいの! 貴族が絶対に寄り付かないような、田舎の何もない土地! でも火山活動があって、お湯が出る可能性がある場所!」
「……それでしたら、一つだけ心当たりがございます」
そう言って部屋の奥の影からヌッと姿を現したのは、情報収集と裏仕事を束ねる側近の少年、ギル(12歳)だった。
彼はスラムの孤児たちを組織化し、今や帝都中のあらゆる情報を網羅する『ヴァロワの耳』として暗躍している。
「お嬢様のご希望に沿う土地。帝国北西の果てに位置する、『アグニ地方』が最適かと存じます」
「アグニ地方?」
「はい。火山帯に位置する不毛の地です。土地は痩せ細り、農作物は育たず、領民は極貧にあえいでいます。さらに最悪なことに、現在の代官は賄賂と横領にまみれた悪党で、裏では凶悪な盗賊団と結託して領民を搾取しているという噂です」
ギルは、淡々とその土地の「絶望的な状況」を並べ立てた。
「治安は最悪、インフラは皆無、食事はゴミ同然。帝国の貴族たちからは『呪われた左遷先』として忌み嫌われており、あんな土地に好き好んで近づく貴族など、この世に一人もおりません」
普通であれば、そんな地獄のような場所に10歳の令嬢が行くなど、絶対にあり得ない選択肢である。
しかし、今の私の頭の中には、ギルの報告のうち、自分に都合の良いキーワードしか引っかかっていなかった。
(火山帯……つまり、温泉が出る確率がめちゃくちゃ高い! しかも、貴族が一人も寄り付かない! つまり、コンラートもヴィクトリアも、意識高い系の信者たちも、絶対に私を追ってこない完全な隔離施設!!)
治安が悪い? インフラがない? 食事がまずい?
そんなものは、ヴァロワ公爵家の圧倒的な資金力(親の金)と、目の前にいる超優秀な側近たちに丸投げすれば、一瞬で解決する問題だ。
「……完璧ね。そこに決めたわ」
私が即答すると、テオ、ギル、カヤの三人は、息を呑んで顔を見合わせた。
「お嬢様……本気でございますか? あの土地は、文字通りの地獄です。お嬢様のような美しく清らかなお方が、わざわざ足を運ばれるような場所では……」
「だからこそ行くのよ。私には、その地獄が必要なの(隔離されたいから)」
私は、ソファーから立ち上がり、決意に満ちた瞳で三人の部下たちを見つめた。
私の脳内は、すでに湯けむりの中で「あぁ〜極楽極楽……」と呟く自分の姿で満たされていた。
◇◇◇
その日の夜。
豪華なシャンデリアが輝くダイニングルーム。
私は、夕食の席で、帝国最高の権力者であり、最強の親バカである両親――父ラインハルトと母エレオノーラに向かって、渾身の演技を打つことにした。
「……お父様、お母様。私、お願いがございますの」
私は、食事用のナイフとフォークを静かに置き、伏し目がちに、どこか憂いを帯びた表情(という設定)を作った。
「ルーセ? どうしたんだい? まさか、また料理人の味が落ちたか!? 今すぐ解雇して――」
「違いますの、お父様」
父の早とちりを制し、私は胸の前で両手を組み、前世の営業時代に得意先に「無理な納期延長」を頼み込む時の、あの悲壮感漂うウルウルとした瞳を向けた。
「私、少しの間……帝都の喧騒から離れて、静養のお時間をいただきたいのです」
「静養!? まさか、どこかお加減が悪いのか!?」
母エレオノーラが、悲鳴のような声を上げて席を立ちかけた。
「身体は元気ですわ。ただ……心が、少し疲れてしまったのです」
私は、わざとらしく小さくため息をついた。
「連日、王宮や我が家で、帝国の未来を語り合う同世代の方々とお会いしています。彼らの情熱は素晴らしい。けれど……この華やかで豊かな帝都にいると、私は自分が『真の世界の姿』を見失ってしまうのではないかと、恐ろしくなるのです」
両親は、瞬きもせずに私の言葉に聞き入っている。
(よし、掴みは完璧。ここから一気にクロージングに持っていくわよ)
「温かいベッド、美味しいお食事、着飾った人々。それは確かに幸せなことです。でも、この帝国の端には、今日食べるパンすらなく、凍えながら眠る民がいると本で読みました。私は、その現実を知らないまま、安全な場所で『理想』だけを語るような、空っぽの大人になりたくないのです」
私は顔を上げ、決然とした声で言い放った。
「だからお父様、お母様。私を、帝国で最も貧しく、最も過酷な辺境の地……『アグニ地方』へと行かせてください! 私はそこで、己の身を律し、何もない環境の中で自分を見つめ直したいのです!」
(本音:温泉に入って、誰とも会わずに毎日15時間寝たい)
ダイニングルームが、水を打ったように静まり返った。
父も、母も、壁際に控えているメイド長のマーサでさえも、信じられないものを見るような目で私を見つめている。
アグニ地方といえば、貴族社会では「左遷の代名詞」であり、忌み嫌われる不毛の地だ。
10歳の公爵令嬢が、己の意志でそんな場所に行きたいなどと言うのは、前世で言えば「社長令嬢が、自ら志願してシベリアの強制労働施設に行きたいと言い出す」ような狂気の沙汰である。
ガタンッ!!
父ラインハルトが、座っていた椅子を蹴り倒すほどの勢いで立ち上がった。
その手には、震えのあまりヒビが入ったワイングラスが握られている。
「る……ルーセ……!! お前という子は……!!」
「お父様……ごめんなさい、私、わがままを――」
「わがままなものかぁぁぁぁっ!!」
父の目から、滝のような涙が噴き出した。
「聞いたか、エレオノーラ!! 10歳! まだたった10歳の少女が! 己の恵まれた環境に甘んじることなく、わざわざ最も過酷な地で苦行(静養)を行い、民の苦しみを知ろうというのだ!!」
「ええ、あなた……! 信じられませんわ! ルーセ、あなたは……あなたは本当に、神がこの帝国に遣わした本物の聖女様ですわ!!」
母エレオノーラもまた、顔を覆って大号泣を始めた。
「普通ならば、皇族や上位貴族に囲まれ、チヤホヤされれば傲慢になるもの! だが我が娘は、その虚飾の権力を自ら捨てて、不毛の辺境で己の魂を磨こうというのか! あぁ、なんという気高さ! なんという崇高な精神!」
(よしっ!! プレゼン大成功!! 完全に勘違いしてくれた!!)
私は心の中で、前世の上司の顔を思い浮かべながら、高らかにガッツポーズを決めた。
これで堂々と、親の金で長期の温泉バカンスに行くことができる。
「お父様……では、許可してくださるのですか?」
「もちろんだとも!! お前のその素晴らしい志を、誰が止めるものか! すぐにアグニ地方への移動の手配を整えよう! 馬車も、護衛も、すべて最高のものを用意する!」
父は涙を拭いながら、力強く頷いた。
「そして、辺境の地で苦行を積むとはいえ、最低限の生活資金は必要だろう。ルーセよ、お前が現地で『慈善事業(自分を見つめ直す活動)』を行うための資金として、領地開発予算の特別枠を丸ごとお前の名義で用意しておく! 好きに使うがいい!」
(やったぁぁぁぁっ!! 莫大な別荘開発予算(お小遣い)までゲットしたわ!!)
「ありがとうございます、お父様、お母様! 私、アグニ地方でしっかりと自分を見つめ直して(温泉を満喫して)きますわ!」
私は満面の笑みで両親に抱きついた。
その背後で、控えていたテオたち側近が、私のこの「見事な交渉術」と「偽りのない(?)大義名分」に、またしても深い感動の眼差しを向けていることには、私は全く気づいていなかった。
◇◇◇
その夜。
自室に戻った私は、すぐさまテオ、マイナ、ギル、カヤの四人を召集した。
「さぁ、許可と予算は下りたわ! これからが本番よ!」
私はベッドの上に胡座をかき(令嬢らしからぬ姿勢だが、彼らの前ではすでに隠していない)、四人の優秀な手足たちに指示を出した。
「私が出発するのは一週間後。でも、私が着いた時に現地がボロボロで、休む場所もないんじゃ話にならないわ」
「左様でございますね。お嬢様の『静養』を妨げるような環境は、我々が絶対に許しません」
テオが深く頷く。
「だから、あなたたち四人には、私より先に『先行部隊』としてアグニ地方に入ってもらいたいの。そして、私が快適な別荘ライフを送れるように、現地を徹底的に『お掃除』して、環境を整えておいてちょうだい」
私が求めているのは、文字通りの『お掃除(建物の清掃)』と『環境整備(温泉を掘るためのボーリング調査や、美味しい食材の確保)』である。
しかし。
スラムで生き抜き、裏社会の闇を知り尽くし、私への狂信的な忠誠心を持つ彼らの脳内辞書において。
悪徳代官と凶悪な盗賊団が牛耳る治安最悪の土地での『お掃除』という言葉が、どのような意味に変換されるか。
前世の平和ボケしたサラリーマンである私には、想像もつかないことだった。
「……承知いたしました」
テオの瞳の奥で、冷酷な刃のような光が閃いた。
「お嬢様の安らかなる静養(睡眠)を妨げる『害虫ども』は、我々が到着するまでに、文字通り跡形もなく『お掃除(物理的・社会的な完全排除)』しておきましょう」
「私、お嬢様のベッドに少しの埃も残さないよう、徹底的にモップ(武器)で拭き上げます!」
マイナもまた、無邪気な笑顔の裏に恐るべき殺意を隠して頷いた。
「任せたわよ。あなたたちだけが頼りなんだから」
「はっ! この命に代えましても、お嬢様の楽園を構築いたします!」
こうして。
私の「温泉に入ってダラダラしたい」という極めて怠惰な有給休暇の計画は、四人の過激すぎる側近たちによる「辺境完全制圧および悪徳代官の粛清作戦」へとすり替わり。
私がアグニ地方に到着する頃には、国を揺るがす『辺境開拓の聖女伝説』へと発展していくことになるのだった。




