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第6話:発動、哀しき社畜スキル「目を開けたまま寝る」

前世のブラック企業時代。

私が所属していた営業部では、毎週月曜日の朝に「地獄」と称される定例の役員会議が存在していた。


社長の独りよがりな自慢話から始まり、終わりの見えない精神論の押し付け、そして各部署への無意味なダメ出し。それが休憩なしで実に四時間以上も続くのだ。

もしその最中に欠伸あくびでもしようものなら「やる気がないなら帰れ!」と激詰めされ、かといって下を向いていれば「俺の話を聞いているのか!」と怒鳴り散らされる。


連日のサービス残業で睡眠時間が二時間を切っていた当時の私は、その地獄の会議室で生き残るため、人間の限界を超えた『ある究極のサバイバル・スキル』を身につけるに至った。


膝の関節を軽くロックし、体重を両足に均等に分散させる。

視線の焦点は、喋っている相手の「ネクタイの結び目」あたりに固定。

そして、意識(魂)だけを肉体から切り離し、深い眠りの世界へとダイブする。相手の声のトーンが上がり、息継ぎの『ブレス』が発生した瞬間にのみ、脊髄反射で「なるほど」「おっしゃる通りです」「ええ、確かに」という相槌のアルゴリズムを自動再生するのだ。


名付けて、哀しき社畜の最終奥義『立ったまま、目を開けて寝る(完全自動応答モード)』である。


そして今。

過労死を経て異世界に転生し、帝国最高の権力を誇るヴァロワ公爵家の長女・ルセリア(8歳)となった私の肉体で、その悲しき奥義が数年ぶりに完全起動していた。


「――だから言っているだろう! 我が帝国の北の国境は、常に野蛮な魔獣や他国の脅威に晒されているのだ! 私は第一近衛騎士団をさらに拡大し、積極的な防衛線……いや、前線基地の押し上げを図るべきだと主張している!」


王宮の大温室。

ポカポカとした熱帯のような気温と、高い湿度が充満する密室空間の中で、第二皇子コンラートが熱弁を振るっている。


「……なるほど。一理ありますね……」


私は、彼の胸元のタイピンのあたりを虚ろな目(目は完全に開いているが、映像としては何も認識していない状態)で見つめたまま、ゆっくりと、重々しく首を縦に振った。


私の意識は、すでに深いマシュマロの海(夢の世界)を漂っている。

しかし、自動応答モードの肉体は、相手が「強く同意を求めてきたタイミング」を寸分違わず感知し、完璧な間合いで相槌を打つのだ。


「おお……! ヴァロワの令嬢、貴女には私のこの国防構想ビジョンの正しさが理解できるか!」

コンラート皇子の顔が、パッと明るく輝いた。


しかし、その喜びに冷や水を浴びせるように、クライス侯爵令嬢ヴィクトリアが鋭い声で割って入る。


「お待ちください、殿下! ルセリア様は『一理ある』と仰っただけです。手放しで賛同されたわけではありませんわ!」


ヴィクトリアは、真っ赤な扇子をピシャリと閉じて、私の方へと身を乗り出してきた。


「ルセリア様、殿下の仰る『騎士団の拡大と前線の押し上げ』には、莫大な軍事予算と兵站サプライチェーンの維持費がかかります。それを平民への増税で賄えば、国内の経済基盤は疲弊し、結果として国力は低下する。……武力による威圧ではなく、近隣諸国との経済連携と、魔獣素材の流通網を独占する『経済特区』の設立こそが、真の国防に繋がる。そうは思いませんか?」


「……ふむ……確かに、それも……」


私は、彼女の声のトーンが疑問形に下がったのを脊髄でキャッチし、再び深く、ゆっくりと頷いた。


「!! ほら、ご覧なさい殿下! ルセリア様は、私の経済理論の正当性も完全に見抜いておられますわ!」

ヴィクトリアが、勝ち誇ったようにコンラートを睨みつける。


「なっ……! 軍事力がなければ、経済など一瞬で蹂躙されるわ! いくら金や法があっても、剣の前には無力だという歴史の教訓を忘れたか!」

「その剣を振るう兵士たちの胃袋を満たし、武器の鉄を調達するのは誰の金だと思っているのですか! 貴方のやり方は、ただの脳筋ですわ!」


「なんだと! 貴様、皇族に向かって脳筋とは!」

「事実を申し上げたまでですわ!」


激しくヒートアップしていく、8歳の子供たちによる帝国の方針を巡るマウント合戦。

彼らは何か意見をぶつけ合うたびに、「なぁ、そうだろうルセリア!」「貴女もそう思いますわよね、ルセリア様!」と、必ず私の方を振り返り、同意を求めてくる。


その度に、私の肉体は。

「……ええ……」

「……おっしゃる通りで……」

「……なるほど……」

と、無機質で、冷徹で、一切の感情のブレがない完璧な相槌を返し続けていた。


だが、この「完全に意識を失っているがゆえの機械的な反応」が、コンラートとヴィクトリアという、自意識が高く、プライドが高く、そして頭の回転が異常に早い二人のエリートの心に、とんでもない『深読み(バグ)』を引き起こし始めていたのである。


(な、なんだ……? この得体の知れないプレッシャーは……!?)


コンラート皇子は、言葉を重ねれば重ねるほど、自分の首が真綿で締め付けられていくような息苦しさを感じていた。


彼の目の前に立つ、純白のドレスを着たルセリア。

彼女は、コンラートがどんなに熱く、誇り高く国防の重要性を語っても、一切表情を変えない。ただ「一理ある」と頷くだけだ。


(『一理ある』……つまり、私の意見は『一部分しか正解していない』という意味か!? 私が兵站の維持費や、その後の外交的孤立というリスクを見落としていることを、彼女は一瞬で看破しているというのか……!)


コンラートの額から、タラリと冷たい汗が流れ落ちた。

温室の中は蒸し暑いはずなのに、ルセリアの放つ空気だけが、まるで氷点下の極寒であるかのように冷たく感じられる。


(あの透き通るような青い瞳。私の浅はかな言葉のすべてを、魂の奥底まで見透かしているような……。いや、それだけではない!)


コンラートは、背筋にゾクリと悪寒が走るのを感じた。


(彼女は……先ほどから、一度も『瞬き』をしていない……!?)


そう。ルセリアは、数分前から一度もまぶたを閉じていなかったのだ。

通常、人間は無意識のうちに瞬きをする。しかし、ルセリアの目は、ガラス玉のように見開かれたまま、一切の動きを見せない。


(私の熱弁を前にして、微動だにせず、瞬き一つしない……。これが、帝国最大の権力を誇るヴァロワ公爵家の次期当主……。なんという胆力。なんという精神の絶対領域サンクチュアリ! 彼女の前では、私の皇族としての威厳など、児戯に等しいというのか!)


一方のヴィクトリアもまた、コンラートと全く同じ絶望と畏怖の淵に立たされていた。


(ど、どういうことですの……? 私が提示した経済特区の構想は、クライス侯爵家のお抱え学者たちが何ヶ月もかけて練り上げた、完璧なスキームのはず。なのに彼女は、ただ『確かに』と頷くだけ。驚きも、感嘆の表情も一切見せないなんて……!)


ヴィクトリアの持つ扇子が、カタカタと微かに震えていた。


(まるで、そのような初歩的な経済理論など、とうの昔に理解しきっていると言わんばかりの態度。……そうですわ、彼女は以前、あの王立アカデミーのアルベルト教授すらも無言で論破したという『生ける神童』……!)


ヴィクトリアは、ルセリアの深淵のような瞳に吸い込まれそうになる錯覚を覚えた。


(私が得意げに語った経済理論には、実は致命的な欠陥があるのではないか? 彼女のあの『確かに』という相槌の裏には、『確かに、素人の思いつきとしてはよくできているわね』という痛烈な皮肉が込められているのでは……!? ああ、なんて恥ずかしい! 私は、神童を前にして知ったかぶりをするという、最大の恥を晒してしまったの!?)


8歳の子供たちの、限界を超えた深読み。

彼らは、自分たち自身の「賢さ」と「プライドの高さ」ゆえに、ルセリアの『ただの睡眠による無反応』を、『完璧な論理による全否定』へと勝手に変換し、自滅へのスパイラルを転がり落ちていたのである。


「ル、ルセリア……お前は、どうなのだ……」


コンラート皇子の声が、先ほどの力強さを完全に失い、震えを帯びていた。

彼は、すがるような目で、微動だにしない純白の少女を見つめた。


「お前は、さきほどから私の言葉にも、ヴィクトリアの言葉にも頷くばかりで、自らの意見を一切口にしない。……我々の語る未来像が、それほどまでに取るに足らない、浅薄なものだとでも言うのか……!」


ヴィクトリアもまた、顔を青ざめさせながらルセリアを見つめている。

「お、お答えください、ルセリア様! 貴女のような天才から見れば、私たちの方策など、砂上の楼閣に過ぎないというのですか!」


二人のエリートからの、血を吐くような問いかけ。

温室の静寂の中で、彼らの荒い息遣いだけが響いている。


(さぁ……! 貴女のその恐るべき知性で、我々を完膚なきまでに打ちのめしてみせろ!!)

コンラートとヴィクトリアは、もはや己の敗北を確信し、せめて圧倒的な真理の言葉によって介錯されることを望んでいた。


彼らの熱を帯びた視線が、ルセリアの唇に注がれる。


そして。

立ったまま完全に爆睡しているルセリアの肉体(自動応答モード)は、相手の「最も強い疑問形」の音声アルゴリズムを検知し。


ゆっくりと、小首を傾げた。


「……ふぁ……」


小さく、本当に微かな、気の抜けたような声が漏れた。

それは、限界を超えた疲労が生み出した、寝言のような「あくび」のなり損ないであった。


しかし、それが言葉にならず、ただの「深遠なる溜息」として空気に溶けた瞬間。


「…………っ!!」


コンラートとヴィクトリアの二人は、雷に打たれたように目を見開き、そして同時に膝から崩れ落ちた。


(溜息……! 彼女は今、我々の問いに対して、言葉を返す価値すらないと、溜息一つで切り捨てたのだ!!)

コンラートのプライドが、音を立てて粉々に砕け散った。


(『武力か、経済か』という二元論で争うこと自体が、そもそも次元の低い争いであると……! 帝国の未来を背負う者が、己の派閥の正当性を主張するためにいがみ合っている、この醜い状況そのものを、彼女は悲しんでおられるのだわ!!)

ヴィクトリアの目から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。


ガクッ、と。

二人揃って大理石の床に膝をつき、両手をついてうなだれる。


「……すまなかった、ヴァロワ令嬢。……いや、ルセリア」


コンラートが、絞り出すような声で言った。

その顔には、先ほどまでの傲慢な皇子の面影はなく、己の未熟さを痛感した一人の少年の顔があった。


「私は、上に立つ者としての威厳を示すことばかりに囚われ、本質を見失っていた。貴女のその『絶対的な沈黙』と、すべてを包み込むような溜息の前に、己の器の小ささを思い知った……。貴女の言う通りだ、私にはまだ、皇帝を名乗る資格などない」


(えっ、私、何も言ってないんだけど……)

というルセリアのツッコミが夢の中から届くはずもなく、ヴィクトリアもまた、震える声で懺悔を始めた。


「ええ……私たちが愚かでしたわ。数字や理屈を並べ立てて、相手を論破した気になっていた自分が、なんて惨めで恥ずかしいことか……。ルセリア様、貴女のその決して動じないお姿こそが、我々が目指すべき『真の貴族の姿』だったのですね」


ヴィクトリアは、床に両手をついたまま、ルセリアに向かって深く頭を下げた。

コンラート皇子もまた、自らの非を認めるように、静かに頭を垂れる。


帝国の次期皇帝候補である第二皇子と、最強の頭脳を誇るクライス侯爵令嬢。

この二大巨頭が、ただ「立ったまま寝ているだけの徹夜明けの8歳児」に向かって、完全なる敗北と服従を示した歴史的瞬間であった。


そして。

二人が完全に戦意を喪失し、静寂が訪れたことで、私の肉体に設定されていた『相手の音声に反応する自動応答アルゴリズム』が、ついに起動条件を失った。


(……あれ? 声が、聞こえなくなった……)


夢の中でマシュマロに包まれていた私の意識が、急な静寂によってフワリと浮上してくる。

(会議、終わったのかな……?)


重い重いまぶたの奥で、少しずつ視界がクリアになっていく。

焦点の定まっていなかった青い瞳に、再び「おっさん」の理性が戻り始める。


「……ん? あれ……?」


私は、パチリ、パチリと数回瞬きをして、目の前の光景を見た。


温室の美しい石畳の上。

そこには、なぜか土下座のような姿勢で私に向かって平伏し、肩を震わせて静かに泣いている(ように見える)コンラート皇子とヴィクトリアの姿があった。


「えっ? なに? どうしたの二人とも。なんか落とし物でもしたの?」


私が、素で小首を傾げ、ポカンとした声で尋ねた。

徹夜明けの寝起きのせいで、私の声は普段の「公爵令嬢の澄んだ声」よりも少しだけ幼く、あどけない響きを帯びていた。


その声を聞いて、ビクッと顔を上げた二人の目に映ったのは。

先ほどまでの「すべてを見透かす冷徹な賢者」のオーラを完全に消し去り、ただの純真無垢で可愛らしい8歳の少女に戻った(寝起きの)ルセリアの姿だった。


「ル、ルセリア……?」

「ルセリア、様……?」


二人は、呆然とその光景を見つめた。

そして、彼らの天才的な頭脳は、最後の、そして最も致命的な『勘違い』を完成させてしまう。


(――おおお……! 彼女は、我々が己の非を認め、謝罪した瞬間に、あの恐ろしい威圧を解いてくださったのだ!)

(なんという慈愛! 愚かな私たちを許し、再び『同じ目線(子供としての無邪気さ)』にまで降りてきてくださったというの!? 罰するのではなく、赦すことで我々を導こうと……!)


「ルセリア……っ!!」

「ルセリアお姉様……っ!!(※ヴィクトリアは同学年)」


感極まった二人が、文字通り床を這うような勢いで私にすがりつき、私の純白のドレスの裾を握りしめて号泣し始めたではないか。


「ひぃっ!? な、なに!? なんなの急に!!」


寝起きの私は、突如として足元で泣き叫び始める帝国のトップエリートたちに、恐怖のあまり悲鳴を上げた。


「すまなかった!! 私の愚かさを許してくれ! お前こそが、我々を導く真のオピニオンリーダーだ!!」

「ルセリアお姉様! どうか、どうかこれからは私を妹分として、いえ、一番の弟子としてご指導くださいませ!!」


「いや、お姉様ってなに!? 年同じでしょ!? ちょっと、鼻水つけないで! これお母様の特注ドレスだから!!」


私がパニックになってドレスを引っ張る姿すらも、彼らには「照れ隠しをする無邪気な聖女」として極限まで美化されて映っていた。


私の「誰にも絡まれずに温室でサボる」という完璧な計画は、前世の哀しき社畜スキルの発動によって、最悪の形で裏目に出てしまった。

避けるどころか、皇子とライバル令嬢という、一番面倒くさい二人の『熱狂的な信者ストーカー』を生み出してしまったのである。


こうして、王宮のお茶会事件は、ルセリア・フォン・ヴァロワという少女を「同世代の頂点に君臨する絶対的カリスマ」へと押し上げ、私の過酷な(面倒くさい)社交ライフの幕開けを告げるのであった。

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