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第5話:安息の地の崩壊、持ち込まれた派閥争い

スゥ……スゥ……。


王宮の南翼、静寂に包まれた大温室の奥深く。

私は特注の高級カウチソファに身を横たえ、この世のすべてのしがらみから解放された、至高の眠りへと落ちていた。


夢を見ていた。

前世の記憶と今世の記憶が入り混じった、ひたすらに甘く、フカフカな夢。

私は一面の巨大なマシュマロの海(あるいは巨大な低反発マットレス)の上に全裸でダイブし、永遠に終わらない有給休暇を謳歌している。上司からの電話は鳴らない。溜まった未決裁の書類もない。ただ、暖かな木漏れ日と、どこからか聞こえる心地よい水の音だけが、私の魂を優しく撫でてくれる――。


(あぁ……最高……。このまま、マシュマロと同化してしまいたい……)


私の精神は、完全に涅槃ニルヴァーナの境地へと到達しようとしていた。

徹夜で枕の図面を引いていた疲労感は、極上のソファの弾力と温室のポカポカとした気温によって、ゆっくりと溶かされていく。

このままお茶会が終わる夕方まで、私は誰にも邪魔されることなく、この『絶対安全地帯サイレント・ゾーン』で惰眠を貪り続けるはずだったのだ。


しかし。

現実は、いつだって無慈悲である。前世でも今世でも、社畜(元)のささやかな休息は、常に他者の身勝手な都合によって打ち砕かれる運命にあるらしい。


「――だから言っているだろう、ヴィクトリア! 貴様のその冷徹な数字至上主義が、帝国の若き芽を摘み取っているのだと!」

「まぁ、呆れましたわ。殿下のような根拠のない精神論こそが、国庫を無駄に食いつぶす最大の癌だと、なぜお分かりにならないのですか!」


バンッ!! という、重厚なガラス扉が乱暴に開け放たれる音。

それに続いて、庭園でバチバチにやり合っていた二つの甲高い声が、私の神聖なるサンクチュアリ(温室)の静寂を容赦なく切り裂いた。


「…………んぎゃっ!?」


私はビクッと全身を痙攣させ、カウチソファの上で跳ね起きた。

まぶたが糊でくっついたように重く、頭の中は泥水が詰まったようにぐわんぐわんと揺れている。


(な、なに!? なんであいつらの声がここで!?)


私は慌ててソファの背もたれに隠れるように身を屈め、巨大な熱帯植物の葉の隙間から、温室の入り口方面を覗き込んだ。


そこには、顔を真っ赤にして怒り狂う第二皇子コンラートと、扇子を握りしめて冷たい怒りを放つ侯爵令嬢ヴィクトリアの姿があった。

彼らは、お茶会の会場(戦場)でのマウント合戦だけでは飽き足らず、あろうことか「大人や取り巻きのいない場所で、一対一の決着をつけよう」と、わざわざこの人気の少ない温室へと場所を移してきたのだ。


(うっっっわ……最悪だ!!)


私の心の中で、緊急事態を知らせるアラートがけたたましく鳴り響いた。


(前世で、会社の給湯室でこっそりサボってコーヒー飲んでたら、次期社長候補の派閥のトップ二人が口論しながら入ってきた時と全く同じシチュエーションじゃないか! なんでよりによって、私の昼寝スポットを『密談場所』に選ぶのよ!!)


彼らの歩みは、確実に私が隠れている泉の広場の方へと向かってきている。

逃げ道はない。温室の出口は、彼らが入ってきたあのガラス扉一つだけだ。


「よいか、ヴィクトリア。民を動かすのは『心』だ! 上に立つ者が自ら剣を取り、汗を流し、血を流す覚悟を見せてこそ、真の忠誠は生まれる!」

「前時代的なヒロイズムですわね。一人の英雄の血より、百人の官僚の緻密な計算式の方が、確実に民を救いますわ。殿下のやり方は、いずれ帝国を無謀な戦争へと導くだけです!」


(うわぁ、めっちゃ白熱してる……。8歳の子供の会話じゃないわよこれ。どう見ても『イケイケの営業部長』と『コストカットの鬼の財務部長』の対立構造じゃないの)


私は頭を抱えたくなった。

こんな密室で、そんな血みどろの権力闘争おままごとの現場に遭遇してしまったら、どうなるか。

「あ、どうも。お疲れ様です。お話の邪魔してすいません、私はただ寝てただけなんで、お気になさらず〜」と笑顔でスルーできるような空気ではない。

確実に見つかった瞬間、「ちょうどいい、ヴァロワの令嬢! お前はどちらの意見が正しいと思う!?」と、この地獄のディベート大会の『審査員』に強制エントリーさせられるに決まっている。


(絶対に、見つかるわけにはいかない……!)


私は息を殺し、己の気配を極限まで消す『ステルス・モード』へと移行した。

前世のサラリーマン時代、社長が不機嫌な顔でオフィスを徘徊している時、いかにして視界に入らずにパソコンのモニターと同化するか。その長年の社畜経験で培った隠密スキルを、今こそ発揮する時だ。


私は、カウチソファから音を立てずに床に滑り降り、巨大な観葉植物の鉢植えの陰に身を隠した。

膝を抱え、身体を限界まで小さく丸める。呼吸は、毛穴から空気を取り入れるようなイメージで、ゆっくりと、浅く。


(よし……。ここなら死角だ。彼らが泉の周りを一周して帰ってくれれば、私は助かる。頼む、私の存在に気づかずに、勝手に口論して勝手に帰ってくれ……!)


コンラートとヴィクトリアの足音が、少しずつ近づいてくる。

コツ、コツ、という靴音が、大理石の床に響くたびに、私の寿命が数日ずつ削られていくような感覚に陥った。


「私が皇帝となった暁には、まずは北部の騎士団を再編し――」

「その予算はどこから捻出するおつもりで? 結局は平民への増税に行き着くのでしょう?」


彼らは激しく言い合いながら、ついに泉の広場へと到達した。

距離にして、私からわずか五メートル。

私は息を止め、目を固くつぶって、ただひたすらに彼らが立ち去るのを祈った。


(通り過ぎろ……通り過ぎろ……私は石だ。私は光合成しかできない、ただの無害なシダ植物だ……)


しかし、私のその悲痛な願いは、異世界の物理法則と、己の恵まれすぎた『外見スペック』によって、いとも容易く打ち砕かれることになる。


「ん……? なんだ、あれは」


コンラート皇子の声が、不意に口論のトーンから、疑問を帯びた声へと変わった。

その足音が、ピタリと止まる。


「どうなさいましたの、殿下。議論から逃げるおつもり……あら?」


ヴィクトリアの声も、何かに気づいたように途切れた。


(……え? なに? どうしたの?)


私は冷や汗を流しながら、恐る恐る目を開け、葉っぱの隙間から自分自身の姿を確認した。

そして、絶望した。


(あ…………っ)


私の隠密行動は、致命的な欠陥を抱えていたのである。

私は確かに身体を丸め、鉢植えの陰に隠れていた。

しかし、私が今日身に纏っているのは、母エレオノーラがこの日のために特注した『何層にもフリルが重なった、巨大で豪華な純白のシルクドレス』だったのだ。


私がいくら身体を小さく丸めようとも、その巨大なドレスのスカート部分は鉢植えの陰に収まりきらず、まるで巨大な白いマッシュルームのように、大理石の床の上にド派手に広がっていた。

さらに最悪なことに、温室のガラス天井から差し込む太陽の光が、私の『純白の白銀の髪』に直撃していた。

その髪は、光を反射してキラキラと、いや、ギラギラと神々しいオーラを放ち、薄暗い植物の陰で、まるで『発光ダイオード(LED)』のように私の現在地を強烈にアピールしてしまっていたのだ。


(目立つ!! めちゃくちゃ目立つ!! 隠れる気ゼロのビジュアルじゃないのよこれ!!)


私は自分の容姿と服装の派手さを、人生で初めて呪った。

黒いスーツに身を包んでいた前世なら、オフィスの影に溶け込むこともできただろう。しかし、今の私は「歩くイルミネーション」も同然なのだ。


「おい、そこ。植物の陰に隠れているのは誰だ?」


コンラート皇子の鋭い声が、私を完全にロックオンした。

チャキッ、と、彼が護身用の短い剣の柄に手をかける音が聞こえる。ヴィクトリアも警戒するように一歩下がり、こちらを睨みつけていた。


「怪しい奴め。王族の密談を盗み聞きするとは、ただの不敬では済まされないぞ! 出てこい!」


(……終わった)


私は深く、深いため息を心の中で吐いた。

ここで「私は怪しい者ではありません」と逃げ出そうにも、この重いドレスでは走ることすらままならない。背中を見せて逃げれば、それこそ本物の不審者として近衛兵を呼ばれてしまう。


覚悟を決めるしかない。


私はゆっくりと立ち上がった。

足が痺れており、さらに極度の睡眠不足で頭がクラクラする。

鉢植えの陰から、純白のドレスと、白銀の髪を揺らしながら、亡霊のようにスゥッと姿を現した私を見て、コンラートとヴィクトリアは、幽霊でも見たかのように息を呑んだ。


「なっ……ルセリア・フォン・ヴァロワ!?」

「あ、貴女……なぜこんな所に!?」


驚愕で目を見開く二人。

私は、徹夜明けの重い体を引きずりながら、精一杯の「令嬢らしい(作り物の)笑み」を浮かべて、静かに一礼した。


「……ごきげんよう、コンラート殿下。ヴィクトリア様。奇遇ですわね、こんなところで」


私の声は、ひどく掠れていた。

喉が渇いていたのもあるが、眠気で声帯のコントロールがうまくできていないのだ。


「き、奇遇だと……? 貴様、いつからそこにいたのだ!」

「はて……いつから、でしょうか。私はただ、この美しい植物たちを鑑賞しながら、少し『思索』に耽っていただけでしてよ」


私は、テオが使っていた言い訳(思索)をそのまま流用して誤魔化そうとした。


しかし、私の姿を見た二人の顔色は、徐々に驚きから、別の感情――畏怖と、そして強烈な『闘争心』へと変化していった。


「思索、だと……? この皇室主催の茶会の最中に、一人だけ会場を抜け出し、このような密室で……?」

コンラート皇子が、信じられないものを見るように呟いた。


「……まさか。私たちがここに来ることすら、予測していたとでも言うのですか?」

ヴィクトリアが、扇子を持つ手を震わせながら、鋭い視線で私を射抜く。


(えっ。いや、予測なんてしてないよ。ただ寝てただけだよ。お願いだから深読みしないで)


私の内心の懇願は、見事に無視された。


「……そうか。お前は、庭園での有象無象の争いには興味がない。だが、この帝国の未来を決めるのは、私とヴィクトリア、そしてお前(ヴァロワ公爵家)の三極であると、最初から見抜いていたのだな」


コンラートが、自分の中で勝手に納得したように、力強く頷いた。

(違います。帰りたいだけです)


「なるほど……。わざと隙を見せて一人になり、我々が追ってくるのを待っていたというわけですわね。なんという底知れぬ自信、なんという傲慢さ……! 腹が立ちますけれど、その知略は認めざるを得ませんわ」


ヴィクトリアもまた、私の「寝落ち」を「高度な心理戦トラップ」だと完全に誤解してしまっていた。

(違います。ただ寝床を探してただけです。あなたたち誰も追ってきて欲しくなかったです)


二人は互いに顔を見合わせ、そして、獲物を追い詰めた肉食獣のような瞳で、ジリジリと私に歩み寄ってきた。


「ちょうどいい。ルセリア、お前も公爵令嬢として、そして次世代の帝国の頭脳として、ここで明確な『答え』を出せ!」


コンラートが、私の前に立ち塞がり、ビシッと指を突きつけてきた。


「私の掲げる『力と革新による帝国の再興』か!」

「それとも、私の掲げる『法と計算による持続可能な統治』か!」

「「お前は、どちらが上に立つべきだと考える!!」」


二人の声が、温室のガラス天井にビンビンと反響した。

逃げ場のない密室。

帝国の未来を背負う、意識高い系のトップエリート(8歳)二人からの、究極の二択の強要。


「…………えぇ」


私は、思わず前世のオッサンのような、間の抜けた呻き声を漏らしてしまった。


最悪だ。本当に最悪だ。

徹夜明けで、一秒でも早く横になりたいこの極限状態において。

なぜ私は、他人の「どっちの派閥のリーダーシップが優れているか」という、究極にどうでもいいプレゼン大会の審査員を務めなければならないのか。


(勘弁してくれ……。どっちでもいいよ。お前ら二人で仲良く会社(帝国)を回せばいいじゃないか。営業(皇子)と経理(令嬢)なんだから、どっちも必要でしょ……)


私は内心で血の涙を流しながら、フラフラと揺れる視界の中で、どうにかしてこの場をやり過ごす方法を必死に模索していた。

しかし、限界を迎えた私の脳は、すでにまともな思考能力を喪失しつつあった。


立ち上がったことで、急激に血が下がり、貧血のような眩暈が襲ってくる。

さらに、温室のポカポカとした気温と、高い湿度が、私の眠気を「暴力的なレベル」まで引き上げていた。


「どうした、ルセリア! 答えられないのか!」

「お黙りなさい、殿下。彼女は今、我々の提示したビジョンを、彼女の持つ『神童』の頭脳で緻密にシミュレーションしているのですわ。邪魔をしてはいけません」


(違う。ただ寝落ちしそうになってるだけだ……)


コンラートとヴィクトリアが、私の顔を至近距離で覗き込んでくる。

彼らの熱のこもった言葉が、私の耳を通り抜けていくが、その内容はもはや日本語(あるいは異世界語)として脳内で処理されず、「ブーン」という羽虫の羽音のような環境音にしか聞こえなくなっていた。


意識が、遠のく。

膝から力が抜けそうになる。


だが、ここで倒れれば、ただの「体調不良の子供」として騒ぎになり、親やマーサがすっ飛んできて大騒動になる。それは一番面倒くさい。

かといって、彼らのディベートにまともに付き合う気力も、体力も、知識もない。


絶体絶命の危機。

その時、私の魂に深く刻み込まれた『前世の悲しき社畜の防衛本能』が、無意識のうちに発動した。


(――ダメだ。もう、脳は動かない。手動操作マニュアルは諦めろ。……オートパイロット(自動応答モード)に、切り替える……!)


前世で、終わりの見えない深夜の役員会議や、社長の果てしなく長い自慢話を聞かされていた時。

私は、一切話を聞いていないにも関わらず、「めちゃくちゃ真剣に話を聞いているように見える」という究極の擬態スキルを身につけていたのだ。


それは、目を見開き、直立不動の姿勢を保ちながら、相手の言葉の『ブレス』に合わせて、絶妙なタイミングで相槌を打つという、哀しくも恐るべき技術。

名付けて、『立ったまま、目を開けて寝る(相槌つき)』である。


私の身体は、グラリと揺れた後、ピシッと不自然なほど真っ直ぐに直立した。


「ルセリア……?」

コンラートが、私の異変に気づいて怪訝な顔をする。


私の目は、大きく見開かれていた。

しかし、その瞳には一切の光(知性)が宿っておらず、どこまでも深く、透き通った青い虚無だけが広がっていた。


「……はぁ……」


私の口から、無意識の相槌が漏れる。


「な、なんだ? どういう意味だ、その『はぁ』は!」

コンラートが食い下がる。


私は、彼の顔を見つめたまま(実際には網膜に映像が映っているだけで認識していない)、ゆっくりと、首を縦に振った。


「……なるほど……」


「なっ……! 私の『力と革新』の真理を、理解したというのか!」

皇子が顔を輝かせる。


すると、ヴィクトリアが怒ったように身を乗り出してきた。

「お待ちください! では、私の『法と計算』の理論は間違っていると仰るの!?」


私は、視線をスゥッとヴィクトリアの方へ移し(動いたものに本能が反応しただけ)、再び、ゆっくりと深く頷いた。


「……なるほど……それも……」


「!! つまり、殿下の無謀さを認めつつも、私の理論の重要性も理解しているということ……!?」

ヴィクトリアが息を呑む。


二人からの矢継ぎ早の質問(激論)に対し、私は完全に意識を失った状態(睡眠状態)でありながら、前世の脊髄反射だけで的確な(ように見える)相槌を打ち続けていた。


「……ええ……」

「……なるほど……」

「……ふむ……」

「……そう、ですね……」


それは、ただ単に「全く話を聞いていないおっさんが、適当に話を流しているだけの姿」であった。

だが、それをやっているのは、帝国の最高権力者の娘であり、神童と謳われる絶世の美少女、ルセリア・フォン・ヴァロワである。


限界を超えた疲労が生み出した、一切の感情のブレがない、無機質で、冷徹で、底知れぬ深淵を感じさせる『美しい沈黙と相槌』。


その異常なまでのプレッシャーと、全く己のペースを崩さない不動の姿勢は、目の前で言い争っていた皇子と令嬢の心に、徐々に、しかし確実に、強烈な『畏怖』と『大いなる勘違い』を植え付けていくことになるのである。


(おやすみなさい……。あとの処理は、勝手にやってね……)


私は立ったまま完全に夢の世界へと旅立ち、温室の密室で、帝国の歴史に残る「究極の居眠り」が本格的に稼働し始めたのだった。

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