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第4話:戦略的撤退(サボり)と、温室の発見

背後から聞こえていたコンラート皇子とヴィクトリア侯爵令嬢の、やたらと語彙力が高い(しかし中身は子供の喧嘩に過ぎない)激論の声が、分厚い生け垣と石造りの回廊に遮られて完全に遠ざかった。


「……ふぅ。やっと静かになったわ」


王宮の南翼へと続く人気のない回廊で、私は周囲に誰もいないことを確認してから、これまで顔に張り付けていた「令嬢としての無表情(省エネモード)」を完全に崩し、盛大なため息を吐き出した。

前世の営業時代、最悪に面倒くさい取引先との接待をなんとかやり過ごし、店の外に出てネクタイを緩めた時と全く同じ、あの強烈な解放感である。


「いやぁ、それにしてもテオの作ってくれた『見取り図』、本当に役に立ったわ」


私は重いドレスのスカートを少しだけまくり上げ、歩きやすくしながら、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。

それは、昨日テオに作らせた『王宮・白亜の庭園および周辺施設の見取り図』である。


最初は「トイレへの逃げ道くらい分かればいいから、適当に地図書いといて」とお願いしただけだったのだが、テオが提出してきたものは、前世のゼネコンが作成する『ビルの避難経路図』すら凌駕する、常軌を逸したクオリティの代物であった。

王宮の複雑な構造が完璧に図式化されているだけでなく、「近衛兵の巡回ルートと時間帯」「王宮メイドの視界(死角)」「風向き」「日照の角度(昼寝に最適な場所かどうかの指標)」まで、細かなメモがびっしりと書き込まれていたのである。


(どうやってたった一日で、王宮の軍事機密レベルの情報を集めたのかしら……。まぁ、ギルの裏社会ネットワークと、テオの異常な情報処理能力があれば不思議じゃないか。本当に、最強の部下(社畜)を持った社長の気分よ)


私は羊皮紙に目を落とし、現在地を確認した。

テオの計算によれば、今私が歩いているこの回廊は、次のお茶会の配膳まで王宮の給仕たちが誰も通らない『空白の十五分間』が発生するルートだ。

実際、すれ違う人間は誰一人おらず、遠くで聞こえる噴水の水の音だけが、徹夜明けの私の疲れた脳を優しく癒してくれていた。


(よしよし、順調ね。テオとマイナが会場に残って『お嬢様は現在、新たな領地経営の概念を脳内で構築中であり、席を外して思索の海に沈んでおられる。絶対に誰も近づくな』とかなんとか言って、他の連中を煙に巻いてくれているはずだわ)


あの二人のことだ。私の「ちょっとサボってくる」という合図を、間違いなく「帝国の未来を占うための神聖な瞑想の儀式に入る。愚民どもを近づけるな」という風に脳内変換し、鉄壁の防衛線を張ってくれているに違いない。

部下が勝手に自分の評価を上げてくれるのだから、こんなに楽なことはない。


私は重いドレスを引きずりながら、見取り図に『絶対安全地帯サイレント・ゾーン』として印がつけられている目的地へと歩を進めた。


回廊の突き当たり。

そこに現れたのは、巨大なガラスと精緻な白い錬鉄アイアンワークで構築された、ドーム状の壮大な建物だった。

ガルデニア帝国が誇る、王宮大温室である。


「わぁ……」


私は思わず、感嘆の声を漏らした。

重厚なガラス扉を押し開けて中に入ると、そこは完全に別世界だった。

外の初夏の風とは違う、魔法で完璧に管理された、心地よい暖かさと適度な湿度が肌を包み込む。

見渡す限りに広がるのは、世界中から集められた希少な植物たち。淡い光を放つ『星屑草』や、微かに甘い香りを漂わせる『太陽樹』など、ファンタジー世界特有の珍しい魔法植物が所狭しと咲き乱れている。


王族たちが心を癒やすための、この世の春を凝縮したような神聖な空間。


だが、徹夜明けで極度の睡眠不足に陥っている私の目は、その美しさを「芸術」や「神秘」としては一切捉えていなかった。


(おおっ……! なにここ、マイナスイオン出まくりじゃない! しかもこの室温、前世のオフィスで冷房が効きすぎて震えていた時に比べたら、まさに天国の設定温度(24度)だわ! さらに、このほのかに香る甘い匂い……アロマ効果で安眠を誘うやつね!)


私の脳内にある評価基準は、ただ一つ。「いかにして心地よく寝られるか」だけである。


「テオのやつ、本当に最高の場所を見つけてくれたわ。日差しも暖かくて、人の気配もゼロ。これなら、お茶会が終わるまで誰にも見つからずに爆睡できる!」


私はウキウキとした足取りで(ドレスが重いので実際はノロノロと)、温室のさらに奥へと進んでいった。


広大な温室の中央には、美しい石畳の広場があり、その真ん中に小さな泉が湧き出ていた。

そして、その泉のほとり、巨大な熱帯植物のようなものの大きな葉の陰に、私が求めていた『それ』は存在した。


「……見つけた」


私はゴクリと唾を飲み込んだ。

そこにあったのは、純白の木枠に最高級の真紅のベルベット生地が張られた、大人一人がゆったりと横になれるサイズの『カウチソファ(長椅子)』だった。

おそらく、皇帝や皇后がこの温室を訪れた際、休息を取るために特注で用意されたものだろう。

クッションには見事な金糸の刺繍が施され、座面はふっくらと盛り上がっている。見ただけで、その弾力性と肌触りが極上であることが伝わってくる。


「……社長専用の高級レザーシートどころじゃないわね。まさに、神が私の昼寝のために用意してくれた祭壇ベッドよ」


普通であれば、皇帝専用かもしれないのソファに、いくら公爵令嬢とはいえ許可なく座るなど不敬罪に問われかねない行為だ。

しかし、前世の社畜時代、外回りの営業中に公園のベンチや営業車の倒れないシートで血の涙を流しながら仮眠をとっていた私にとって、目の前にこんな極上の寝床があるのに我慢するなど、到底不可能なことであった。


「親の金(税金)で買ったようなもんでしょ。減るもんじゃないし、ちょっと借りるだけよ」


私は誰に対する言い訳ともつかない独り言を呟くと、迷うことなくその長椅子へと直行した。


「よいしょ、っと……」


まずは、足を締め付けていた窮屈なエナメル製の小さな靴を脱ぎ捨てる。

フリルとレースで無駄に重いドレスのスカートをバサリと持ち上げ、ソファの上に横向きに倒れ込んだ。


「……あぁっ……!」


背中と腰に、ベルベットの極上の柔らかさがフィットする。

固いコルセットで締め付けられていた身体が、ふわりと宙に浮いたような錯覚に陥った。

さらに、ソファの端に置かれていたフカフカのクッションを抱き寄せ、顔を埋める。ほのかな薔薇の香りと、高級な布地の滑らかな感触が、徹夜で酷使された私の大脳皮質を容赦なく甘やかしてくる。


「最高……。前世で泊まった、一泊五万円の高級ホテルのベッドより気持ちいいわ……」


私はドレスの裾がめくれていることなど一切気にせず、完全に気を抜いた体勢でクッションに顔をすりすりした。

温室のガラス屋根から差し込む太陽の光が、木々の葉に遮られて心地よい木漏れ日となり、私の白い髪とドレスをキラキラと照らしている。


泉から聞こえる、チョロチョロという微かな水の音。

風に揺れる植物たちの、カサカサという心地よい葉擦れの音。

これ以上ない、完璧な『お昼寝環境』の完成である。


(あのバカみたいに騒がしいお茶会の会場から、こんなに静かで平和な場所に逃げてこられるなんて。やっぱり、持つべきものは有能な部下テオね。あとでお小遣いから特別ボーナスを出してあげよう……)


私は、少しずつ遠ざかっていく意識の中で、己の怠惰な計画が完璧に遂行されたことに深い満足感を覚えていた。

まぶたが、もう自力では開けられないほどに重い。


(前世では、こんな風に日の当たる場所で、仕事の時間に堂々と寝るなんてこと、絶対にできなかったなぁ。毎日毎日、誰かに怒られるんじゃないかってビクビクして……。でも、今は違う。私は公爵令嬢で、誰にも文句を言わせない最強のニートなんだから……)


前世の哀愁漂う記憶が、走馬灯のように脳裏をよぎっては消えていく。

山積みの書類。鳴り止まない電話。上司の怒声。終電の窓に映る、死んだ魚のような自分の顔。

それらすべてが、今の私には遠い異国の昔話のように思えた。


(あぁ……幸せ。やっぱり、睡眠こそが人間の至高の娯楽よ。……おやすみなさい、世界。私を、お茶会が終わるまで絶対に起こさないでね……)


私は最後に小さく寝返りを打ち、最も首の角度が楽なポジションを見つけると、完全に意識のスイッチをシャットダウンした。


スゥ……スゥ……。

静かな温室の中に、私の無防備で平和な寝息だけが微かに響き始める。

それは、帝国の次世代を担う『神童』の姿などではなく、ただ休日に遊び疲れて眠ってしまった、無邪気な8歳の子供の姿そのものであった。


しかし。

私がこの「絶対安全地帯」だと信じて疑わなかった王宮の大温室が、実は『王宮の子供たちがこっそり密談や決闘(喧嘩)をするための定番の隠れ家』であることを、情報網を駆使したテオでさえ把握しきれていなかったのだ。


私が深い深い眠りの底へと落ちていった、まさにその数分後。


「おい、待てヴィクトリア! 先ほどの言葉、聞き捨てならんぞ! ここで決着をつけようではないか!」

「ええ、望むところですわ殿下。誰の目もないこの場所で、貴方のその無謀な精神論を完璧にへし折って差し上げますわ!」


温室の入り口の扉が乱暴に開かれ、足音荒く踏み込んでくる二つの影。

お茶会の会場で最も面倒くさいマウント合戦を繰り広げていた二大巨頭――第二皇子コンラートと侯爵令嬢ヴィクトリアが、取り巻きの目を盗んで「二人きりでの決着」をつけるために、こともあろうにこの温室へと乗り込んできたのである。


「ここで、我々のどちらが真に上に立つべき器か、はっきりさせよう!」

「ふふっ、後悔なさらないでくださいね、殿下」


激しい怒気と闘志をぶつけ合いながら、泉の広場へと歩を進める皇子と令嬢。

そして、彼らがその広場の奥、熱帯植物の葉の陰にある皇帝専用のソファに目を向けた時。


「…………え?」

「…………あら?」


二人の歩みが、ピタリと止まった。


そこには。

脱ぎ捨てられた靴。

乱れた純白のドレス。

そして、高級なクッションに顔を埋め、信じられないほど無防備に、しかしどこか『この世のすべてに絶望し、達観してしまったかのような静けさ』を纏って眠りこけている、ヴァロワ公爵令嬢・ルセリアの姿があったのである。


かくして。

「ただサボって寝ていただけ」の徹夜明けの怠け者と、「己のプライドをかけて決着をつけようとしていた」意識高い系の子供たちという、絶対に交わってはいけない二つの存在が、密室空間で最悪のエンカウントを果たしてしまった。


私の安らかな休息の時間は、わずか数分で崩壊し、帝国の未来を決定づける「大いなる勘違いの伝説(第二幕)」が、ここから静かに、そして劇的に幕を開けることになるのだった。

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