第2話:いざ王宮へ。省エネモードの公爵令嬢
「……うぅ、頭が痛い。そして目が開かない……」
帝国の次世代を担う貴族子弟たちが集う、皇室主催の親睦茶会。
その運命の当日の朝、私は自室の鏡の前で、かつてないほどの絶望と後悔に苛まれていた。
目の下には、うっすらとだが確実に存在するクマ。
焦点の定まらない瞳。そして、身体の奥底から湧き上がる鉛のような疲労感。
それはまさに、前世で「絶対に落とせないコンペの前日に、資料の最終チェックをしていて一睡もできなかった朝」のテンションそのものであった。
「お嬢様、お顔の色が優れませんね……。やはり、昨夜の『深遠なる創造』がお身体に堪えたのでしょうか」
私の背後で、マイナが心配そうに言いながら、私の髪を丁寧に梳かしている。
そう。私がこんなにもボロボロな理由は、他でもない。昨夜、私は一睡もせずに『あるもの』を作っていたのだ。
机の上に散乱する数枚の羊皮紙。
そこに描かれているのは、私が前世の記憶と首のカーブ(ストレートネック)の悩みを総動員して設計した、『異世界版・究極の安眠低反発枕』の図面である。
「お茶会なんて行きたくない」という現実逃避から始まった枕の構想だったが、前世のエンジニア魂(ただの凝り性)に火がついてしまい、気づけば「首の角度は15度が最適」「中身の素材は白鳥の胸毛と、弾力性のある魔獣の毛を3対1の黄金比でブレンドする」などと、異世界の素材学の限界に挑むような異常なクオリティの設計図を朝まで書き上げてしまったのだ。
(馬鹿だ……私、本当に馬鹿だ。今日が『休日出勤(お茶会)』だって分かっていたのに、なんで徹夜で趣味(枕作り)に没頭しちゃったのよ……)
激しい自己嫌悪に陥る私をよそに、マイナの手によって私は着々と「公爵令嬢」としての完全武装を施されていく。
本日のドレスは、母エレオノーラが気合を入れて特注した、何層にも重なる純白のシルクに、細かな銀糸の刺繍が施された超一級品である。動くたびに光を反射してキラキラと輝くそのドレスは、間違いなく今日の主役にふさわしい代物だった。
だが、徹夜明けの8歳の身体には、ただひたすらに「重い」。
コルセットで締め付けられ、何重ものフリルを纏うのは、前世で言うところの「二日酔いの朝に、真夏にスリーピースのフルオーダースーツを着せられる」ような苦行に等しかった。
「マイナ……これ、重い。息苦しい。脱ぎたい……」
「お嬢様、お気持ちは分かります。お嬢様のような高みにおられる方にとって、このような虚飾など窮屈なだけでしょう。ですが、本日は王宮という『敵地』に乗り込む日。どうか、この鎧を纏ってご辛抱くださいませ」
(敵地ってなに。ただの子供のお茶会でしょ……)
私のツッコミを待つことなく、部屋の扉が開いて見習い執事のテオが入ってきた。
彼の手には、昨日私に作らせた「王宮の庭園見取り図」がしっかりと握られている。
「ルセリア様、馬車のご用意が整いました。本日の『戦略』の最終確認でございます」
テオは、まるで敵国への侵攻作戦でも説明するかのような真剣な面持ちで図面を広げた。
「会場は、王宮の南側にある『白亜の庭園』です。皇帝陛下はご不在ですが、皇后陛下がご挨拶をされる予定。そして、同世代の貴族子弟が約三十名。最大の警戒対象は、第二皇子コンラート殿下と、クライス侯爵令嬢ヴィクトリア様です」
「ふーん……(聞いてない)」
「彼らは必ず、お嬢様に取り入り、自らの派閥の格を上げようと接触を図ってくるはずです。ですが、お嬢様は一切の交渉を拒絶し、絶対的な『沈黙』を貫くおつもり。そのための『絶対安全地帯(お昼寝スポット)』として、庭園の奥にある大温室への退避ルートを構築いたしました」
テオの指が、図面の端にあるガラス張りの温室を指し示す。
その言葉を聞いて、私の霞んでいた思考が少しだけクリアになった。
「温室……。人がいなくて、暖かくて、静かな場所……?」
「左様でございます。お茶会が歓談に入り、周囲の気が緩んだ隙を突いて、俺とマイナで護衛の目をそらします。その間に、お嬢様は温室へ」
「……テオ、あなた天才ね。そこなら、フカフカのソファとかありそうだし、誰にも邪魔されずに寝られそう」
「はっ! お嬢様の『聖なる思索(お昼寝)』を全うするため、命に代えましてもルートを確保いたします!」
(よし、目標は決まった。会場に行ったら、適当に隙を見て温室に引きこもる。それまでは、とにかく体力を温存するんだ)
私は重い身体を引きずり、決死の覚悟で部屋を出た。
◇◇◇
ヴァロワ公爵邸から王宮までの馬車の道のり。
普通なら、初めての皇室主催のお茶会に胸を躍らせ、緊張で外の景色を見つめるところだろう。
しかし、私が乗る公爵家の特別馬車は、最高級のサスペンションと極厚のクッションを備えた、まさに『走るベッド』である。
馬車が動き出してわずか三十秒。私は見事に意識を手放し、テオの報告や今日の注意事項など一切聞くことなく、文字通り爆睡していた。
「……ルセリア様。お嬢様、到着いたしました」
テオの静かな声で、私はビクッと目を覚ました。
「んぁ……? 着いた?(よだれ垂らしてないかな)」
マイナが素早く、かつ優しく私の口元をシルクのハンカチで拭ってくれる。セーフだ。
馬車の扉が開き、外の空気が流れ込んでくる。
それと同時に、初夏の強烈な太陽の光が、徹夜明けの私の網膜を容赦なく焼き払った。
「うっ……! まぶしっ……!!」
私は思わず目を細め、顔をしかめそうになった。
いけない。ここで不機嫌な顔をすれば、「ヴァロワの令嬢は機嫌が悪い」と余計な噂を立てられ、面倒な社交(クレーム対応)が増えるだけだ。
前世の社会人経験が、私に警告を発している。
休日の接待ゴルフや、行きたくもない立食パーティーで、一番カロリーを消費する行動は何か。
それは『愛想笑い』と『無駄なリアクション』である。
(よし、今日は『省エネモード』で行こう。表情筋は一切動かさない。目は半開き。話しかけられても、最低限の相槌しか打たない。存在感を極限まで消して、置物のように振る舞うんだ)
私はスゥッと息を吸い込み、顔から一切の感情(という名の表情筋の動き)を消し去った。
ただでさえ眠くてまぶたが重いのだ。自然と、目は少し伏し目がちになり、アンニュイで虚ろな……言うなれば「死んだ魚の目」の一歩手前のような状態になった。
テオのエスコートを受け、私はゆっくりと馬車を降り、王宮の石畳に足を下ろした。
目の前にそびえ立つのは、ガルデニア帝国の心臓部、圧倒的な権威の象徴である大王宮。
白亜の壁、天を突く尖塔、そして入り口に並ぶ金色の鎧を着た近衛騎士たち。同世代の子供たちであれば、その威圧感と美しさに圧倒され、歓声を上げるか、緊張で足がすくむはずの光景だ。
しかし、私の頭の中にある感想は、ただ一つだった。
(うわー、地面が全部大理石じゃん。硬そう。こんなところで転がったら絶対に身体中痛くなるわ。早く温室のソファに行きたい……)
私は、王宮の威容など一瞥もくれず、ただ「硬そう」「寝にくそう」という極めて実用的な(怠惰な)視点でのみ周囲を評価し、無表情のまま歩みを進めた。
だが、この私の『省エネモード(ただ眠いだけ)』と『王宮への無関心(寝る場所を探しているだけ)』が、周囲で出迎えていた他の貴族たちや、王宮の文官たちに、どのような衝撃を与えていたか。
私は完全に理解していなかった。
「……見ろ、あの方がヴァロワ公爵家の、ルセリア令嬢だ……」
「なんという、透き通るような美しさ。まるで雪の精霊が舞い降りたかのようだわ……」
王宮の門の周辺には、同じようにお茶会に呼ばれた他の貴族の馬車が何台も停まっており、着飾った令息や令嬢たち、そしてその親たちが集まっていた。
彼らの視線が、一斉に私へと突き刺さる。
「おい、見たか……? あの令嬢、王宮を前にして、全く表情を変えなかったぞ」
「普通、8歳の子供なら、この皇室の威圧感に飲まれて怯えるか、はしゃぐかのどちらかだ。だが、彼女のあの目は……」
貴族の一人が、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「あの深く、静かな瞳。王宮の威容など、己にとっては何の脅威でもないと言わんばかりの、絶対的な『余裕』……。いや、それどころか、この豪奢な装飾を『虚飾に過ぎない』と見透かしているような、冷ややかで底知れぬ眼差しだ……!」
「あれが、噂に名高いヴァロワの神童……。なんという覇気、なんという精神力だ。我々大人ですら、あの少女の前では見透かされているような恐怖を覚える……!」
(んん……? なんだか周りがヒソヒソ言ってるな。私のドレス、どこかほつれてる?)
私は周囲のざわめきに全く気づかず(徹夜明けで耳も遠くなっていた)、ただ重いドレスを引きずりながら、早く座れる場所を求めてノロノロと歩を進めていた。
その「一歩一歩を確かめるような、ゆっくりとした歩み」すらも、周囲には「王者の風格」や「洗練された究極の令嬢の所作」と勘違いされていく。
「ルセリア様、完璧でございます。周囲の有象無象が、お嬢様の『静かなる威圧(省エネモード)』に完全に気圧されております」
私の少し後ろを歩くテオが、誇らしげに小さな声で囁いた。
(威圧なんてしてないわよ。ただ眠くて早く歩けないだけじゃない……)とツッコミたかったが、声を出すことすらカロリーの無駄なので、私は小さく「ん」とだけ喉を鳴らした。
王宮の回廊を抜け、本日の会場である『白亜の庭園』へと続く巨大なガラス扉の前に到着する。
扉の向こうからは、すでに到着している数十人の貴族の子供たちの、華やかで、そしてどこか刺々しい歓談の声が聞こえていた。
(うわぁ……絶対に面倒くさい空間だ。あの扉の向こうは、マウンティングと自己アピールの戦場よ。営業スマイルの嵐が吹き荒れてるわ)
前世のトラウマが蘇り、私は思わず足を引き返しそうになった。
しかし、扉の前に立つ王宮の従者が、私の姿を認めるなり、よく通る声で高らかに宣言してしまった。
「ヴァロワ公爵家ご令嬢、ルセリア・フォン・ヴァロワ様、ご到着であらせられます!!」
ギィィィッ、と重厚なガラス扉が開かれる。
その瞬間。
庭園の中で響き渡っていた子供たちの甲高い笑い声や、貴族特有の嫌味な牽制の言葉が、まるで時が止まったかのようにピタリと鳴り止んだ。
色とりどりのドレスや正装に身を包んだ三十名近い令息・令嬢たち。
彼らの視線が、入り口に立つ私一人に集中する。
純白のドレスを身に纏い、輝くような白銀の髪を揺らしながら現れた私。
だが、その顔には一切の笑顔がない。
無表情。いや、深海の底のような静けさと、徹夜明け特有の「世界に対する無関心」を宿した青い瞳で、私は会場をゆっくりと見渡した。
(うわ、めっちゃ見られてる。怖い。っていうか、人多すぎ。早く壁際の目立たない席に行こ……)
私がそう思い、ゆっくりと瞬きをしながら無言で一歩を踏み出した時。
会場の空気が、完全に私に「呑まれて」いた。
誰も言葉を発せない。
帝国最強の権力を誇る公爵家の長女であり、すでに「神童」として大人たちすら平伏させたという生ける伝説。
その彼女が放つ、子供らしからぬ圧倒的な『無のプレッシャー』を前に、野心に燃えていた貴族の子供たちは、蛇に睨まれた蛙のように硬直してしまったのだ。
「……さぁ、お嬢様。まずはあの壁際の席へ。あそこなら、温室への撤退ルートに直結しております」
「ええ……案内して、テオ……」
私は気だるげに(本当に気だるいだけ)頷き、テオのエスコートを受けながら、海が割れるように道を開ける子供たちの間を縫って、会場の隅へと歩を進めた。
誰一人として、私に声をかける勇気を持たない。
私の『省エネモード』作戦は、皮肉にも「他者を寄せ付けない絶対者のオーラ」として機能し、最高の結果(誰にも絡まれない)を生み出していた。
(よしよし、いい感じ。みんな私を避けてくれてる。このまま壁際の椅子に座って、隙を見て温室に逃げ込めば……今日のミッション(休日出勤)は、完全勝利だ!)
私は内心でガッツポーズを決めながら、壁際の椅子に腰を下ろした。
あとは、この無駄な時間が終わるのを、ひたすら息を潜めて待つだけ。
しかし。
私のそのささやかな願い(サボり計画)は、この会場内で最も面倒くさく、最もプライドの高い「二人の厄介な人物」の存在によって、無惨にも打ち砕かれることになる。
「……ほう。あれが噂のヴァロワの令嬢か。ふん、ただの人形のようにしか見えないがな」
「あら、殿下。人形だなんて失礼ですわ。ただ、少しばかり『自分が特別だ』と勘違いしているだけの、哀れな見世物ですわよ」
会場の反対側から、私を値踏みするように見つめる二つの強烈な視線。
それは、帝国の第二皇子コンラートと、ライバル派閥の筆頭であるクライス侯爵令嬢ヴィクトリアからの、明らかな「宣戦布告」の合図であった。
(あーあ……なんか面倒くさそうなのがこっち見てる。絶対に関わらないでおこう)
私はそっと目を逸らし、壁のタペストリーの柄を数えるふりをして、ひたすらに意識をシャットダウンすることに努めるのだった。




