第10話:聖女伝説の幕開け
王立アカデミーの重鎮、アルベルト教授がヴァロワ公爵邸を訪れた「視察」の翌日。
帝都ガルデニアの中枢、ひいては帝国の教育・政治界隈に、一つの巨大な激震が走っていた。
事の発端は、アルベルト教授が王宮へと提出した一通の『特別報告書』である。
本来ならば、一介の貴族の令嬢に対する視察報告など、アカデミーの内部資料として処理されるのが常だ。しかし、アルベルトはその報告書を皇帝直属の御前会議へと直接提出し、顔を紅潮させながら熱弁を振るったのだ。
『陛下! ヴァロワ公爵家の長女、ルセリア令嬢の叡智は、もはや人間の理解を超えた神の領域に達しております!』
アルベルトが提出した報告書には、次のようなことが書き連ねられていた。
一、ルセリア令嬢は、帝国の歴史、経済、魔法理論のすべてを俯瞰し、『モレなく、ダブリなく(MECE)』真理を導き出す未知の思考法を確立している。
二、彼女はその圧倒的な知性を自らひけらかすことなく、あえてスラムから拾い上げた無学な孤児に教育を施し、彼を己の代弁者として機能させることで、教育の究極の形を体現している。
三、彼女の放つ『無言の威圧』は、傲慢な学者(自分)の浅はかさを一瞬で粉砕し、真の謙虚さとは何かを悟らせる、聖なる導きである。
この報告書は、瞬く間に帝都の貴族たちの間に知れ渡った。
「あの気難しいアルベルト教授を、弱冠6歳の少女が、しかも一言も発さずに完全論破しただと!?」
「スラムの孤児をたった数ヶ月で一流の学者並みに育て上げたというのか! なんという奇跡……!」
貴族たちは震え上がった。
ただでさえ最強の権力を誇るヴァロワ公爵家に、百年に一人とも言われる「知の化け物(神童)」が誕生したのだ。これでヴァロワ家の覇権は、今後数十年にわたって盤石なものとなったと誰もが確信した。
◇◇◇
「ルーセ!! 私の愛しい、愛しすぎる天使よ!!」
その日の夕方。
王宮での政務を終え、文字通り飛ぶような速さで公爵邸に帰還した父、ラインハルトは、私の自室の扉を勢いよく開け放つなり、大号泣しながら私のベッドへと突進してきた。
「むにゃ……? お父様? どうしたの、そんなに泣いて……」
「おおお、ルーセ! お前は本当に、私の誇りだ! 王宮はお前の噂で持ちきりだぞ! あの頑固者のアルベルトが、お前の名前を出すたびに涙を流して拝んでいるのだ!」
父の後ろからは、母のエレオノーラもハンカチで目元を拭いながら小走りで入ってきた。
「本当に素晴らしいわ、ルーセ! スラムの可哀想な子供たちに知識を与え、立派な代理人に育て上げるなんて……! あなたの慈愛と教育の才能は、まさに女神の御業ですわ!」
「お嬢様は、ヴァロワの歴史において最も輝かしい星となられました」
母の隣では、メイド長のマーサが深々と、それこそ床に額がつく勢いでお辞儀をしている。
私はベッドの上に座ったまま、ポカンと口を開けていた。
(えーっと……つまり、昨日のアルベルトおじいちゃんの視察は、テオの対応で無事に『合格』ってことになったのね? しかも、なんか知らんけどめちゃくちゃ評価が上がってるっぽい?)
前世の社畜時代、部下に仕事を丸投げしたら、その部下が奇跡的なクオリティの資料を作ってきて、なぜか私のマネジメント能力が社長に大絶賛された時のあの感覚。
私は心の中で「テオ、お前マジで有能すぎるぞ!」と喝采を上げながら、表面上は可憐な令嬢の笑みを浮かべた。
「お父様、お母様。私は大したことはしておりませんわ。テオとマイナが、一生懸命お勉強を頑張ってくれたおかげですの」
「おお! この期に及んで己の功績をひけらかさず、使用人に手柄を譲るその謙虚さ! どこまで完璧な娘なのだ!」
父ラインハルトは天を仰ぎ、さらに激しく涙を流した。
「ルーセよ。お前がこれほどまでに優秀で、自らを厳しく律している(実際は寝ているだけ)のであれば、もう家庭教師など不要だ! お前の好きにするが良い! 学びたいものを学び、休みたい時に休むのだ!」
(――キタッ!!)
私の脳内に、ファンファーレが鳴り響いた。
これだ。これこそが、私が喉から手が出るほど欲しかった「合法的にサボるための大義名分」である!
『優秀すぎるがゆえに、既存の教育枠に縛る必要がない』という、天才にのみ許される特権。
「本当ですか、お父様!? 私、自分のペースで、静かにお勉強(お昼寝)をしてもよろしいのですね?」
「無論だとも! それに、お前が自らの手足として育て上げたテオとマイナ、彼らへの教育費や、お前の研究(という名の娯楽)のための予算枠が足りないだろう。今日から、お前の月のお小遣いを十倍……いや、二十倍に増額しよう!」
「に、二十倍!?」
私は素で驚きの声を上げてしまった。
ヴァロワ公爵家の令嬢の小遣いなど、元々平民が一生働いても稼げないほどの額である。それが二十倍になれば、もはやちょっとした国家予算レベルだ。
「ええ、ルーセ。好きなものを買い、好きなように使いなさい。あなたのその輝かしい未来への投資を、私たちが出し惜しみするはずがありませんわ」
「ありがとうございます、お父様、お母様! 私、もっともっと頑張りますわ!」
(頑張って、最高にダラダラする環境を作るわ!)
私は両親の首に抱きつき、満面の営業スマイルを振り撒いた。両親は「ああ、天使が笑った!」と再び号泣の渦に飲まれていった。
◇◇◇
その日の夜。
両親の狂騒がようやく落ち着き、静寂を取り戻した私の寝室。
「ふふふ……あははははっ! やった、ついにやったわ!!」
私はベッドの上で、手足をバタバタとさせて歓喜の舞を踊っていた。
苦節数ヶ月(前世を含めれば三十数年)。過労死の恐怖に怯えながら生きてきた私が、ついに手に入れた「完全なる不労所得」と「自由な時間」。
「テオ! マイナ! 本当にありがとう! あなたたちのおかげで、私はもう面倒な宿題も、口うるさい家庭教師の授業も受けなくて済むようになったわ!」
私はベッドの脇に控える二人に、心からの感謝を伝えた。
増額された莫大な予算(お小遣い)があれば、前世の記憶を頼りに「最高の低反発マットレス」を特注することもできるし、専属のシェフを雇って毎日最高級のお菓子(福利厚生)を食べることもできる。
(これからは、私がやりたいこと(睡眠と娯楽)だけを追求する、究極のスローライフの始まりよ!)
しかし。
私がベッドの上で堕落の極みのような笑いを浮かべているその時、テオとマイナの二人は、ベッドの脇で静かに、しかし深い覚悟を秘めた瞳で膝をついていた。
「もったいないお言葉です、ルセリア様」
テオが、いつになく低い、厳粛な声で応えた。
「俺たちの命は、あの日スラムでお嬢様に拾われた時から、お嬢様のためだけに存在しております。お嬢様の叡智が世に認められ、こうして正当な評価と自由を得られたこと、我が事のように嬉しく思います」
「私もです、お嬢様! お嬢様がニコニコしていると、私、胸がいっぱいになります!」
マイナもまた、目をキラキラと輝かせて私の言葉に頷いた。
「ええ、あなたたちにはこれからも期待しているわよ。明日からは、さらに私を甘やかす……ゴホン、私のサポートに専念してちょうだいね」
「……はい。お任せください、ルセリア様。おやすみなさいませ」
二人は深く一礼し、私の寝室の明かりを落として退出していった。
フカフカのベッドに身を沈めながら、「あー、明日はお昼まで寝てよう」と呑気に考える私。
自分がこの後、彼らの「重すぎる忠誠心」によって、さらなる大舞台へと担ぎ出されることなど、微塵も想像していなかった。
◇◇◇
ルセリアの寝室を出た後。
テオとマイナは、使用人用の自室へ戻ると、ロウソクの火を挟んで向かい合った。
二人の顔には、6歳と7歳という年齢には全く似つかわしくない、冷徹な大人以上の凄みと決意が宿っていた。
「……マイナ。聞いたか。お嬢様は、俺たちに感謝してくださった」
「うん、お兄ちゃん。お嬢様、すごく嬉しそうだった」
テオは、自分の震える両手を強く握りしめた。
スラムの路地裏で、誰にも見向きもされずに泥の中で死んでいくはずだった命。
それを救い出し、温かい食事を与え、知識を与え、そして今日、帝国の重鎮すらもひれ伏すほどの「力(叡智)」を証明させてくれた。
ルセリア・フォン・ヴァロワ。
あの白く輝く純真な令嬢こそが、彼らにとっての唯一の神であり、世界のすべてだった。
「お嬢様は、今日『自由』を手に入れたと喜んでおられた。……だが、俺は知っている」
テオの漆黒の瞳に、暗い炎が灯る。
「あのアルベルトという老学者のような、自分たちの権威を笠に着た傲慢な大人たちは、必ずまたお嬢様の平穏を脅かしに来る。お嬢様の『静かに眠りたい』というささやかな願いは、この腐敗した貴族社会にいる限り、常にノイズに晒され続けるのだ」
テオは、ルセリアが作ってくれた『ヴァロワ式・業務マニュアル』の束をそっと撫でた。
そこに書かれている「リスクマネジメント」という言葉。テオはそれを、極めて過激な方向に解釈していた。
「お嬢様の安眠を守るためには、ただの防波堤では足りない。お嬢様自身が、誰も手出しできない絶対的な存在……『神聖にして不可侵な権力』の中心とならなければならない」
「お嬢様を、一番偉い人にするの?」
「そうだ。お嬢様は無欲ゆえに、自ら権力を求めようとはなさらない。だからこそ、俺たち『手足』が動くのだ」
テオは、立ち上がり、窓の外に広がる帝都ガルデニアの夜景を見下ろした。
貴族たちが住む華やかな光の海と、彼らがかつて生きていた暗いスラムの闇。
「お嬢様の叡智は、すでにアルベルトを通じて皇帝の耳にも届いているはずだ。だが、これだけでは足りない。もっとだ。お嬢様の偉大さを、慈愛を、この帝国の、いや世界の隅々にまで知らしめなければならない」
テオの言葉に、マイナも力強く頷いた。
彼女の愛らしいエプロンドレスのポケットの中には、スラムの裏路地で身につけた「暗殺用の毒針(護身用)」が密かに忍ばされている。彼女もまた、ルセリアの睡眠を妨げる者を物理的に排除する覚悟を完全に完了させていた。
「俺たちが、お嬢様の『伝説』を作る。誰一人としてお嬢様の昼寝の邪魔ができない、完璧な世界を創り上げるのだ」
テオの静かなる宣言が、夜の闇に溶けていく。
それは、一介の小間使いが抱くにはあまりにも壮大で、あまりにも狂気に満ちた野望であった。
こうして。
「ただ一生働かずに親の金でダラダラしたい」というルセリアの怠惰な願いと。
「お嬢様の安眠を守るために、世界をお嬢様の足元に平伏させる」という側近たちの狂信的な野望。
この二つの、決して交わることのない強烈なベクトル(すれ違い)が、やがて強大な推進力となって帝国の歴史を動かしていくことになる。
孤児を拾い、教育を施し、初めての外部監査を無事に(丸投げで)乗り切ったルセリア・フォン・ヴァロワ6歳。
彼女の意図しない『成り上がり聖女スローライフ』のプロローグは終わりを告げ、ここから、彼女自身も制御不能な本格的な伝説の幕が上がるのである。




