3.契約書という概念
騙されかけたのは、ギルドに登録してから四日目のことだった。
原因は慢心ではない。むしろ油断していなかった。ただ、相手が上手だった。
男の名前はデルガン。四十代後半、小太りで笑顔の多い卸売商人だ。最初に声をかけてきたのはギルドの建物の前で、「あなたの商品に興味がある」という話だった。石鹸と絆創膏の評判が、じわじわと商業区域に広まっていたらしい。
「面白い品を扱っているそうじゃないですか。うちで一括で引き取りましょう。百個単位で継続的に」
百個。現代換算で単純計算すれば、石鹸一個四千円として四十万円分。継続的にとなれば毎月数十万から百万規模になり得る。
悪い話ではない、と思った。
しかし誠の頭の中で、何かが引っかかった。
長年の営業経験で育った、虫の知らせというやつだ。笑顔が多すぎる。話が早すぎる。そして「継続的に」という言葉を何度も使う割に、具体的な数字と期間を一切言わない。
「ありがたいお話ですが、条件を書面で確認させてください」
デルガンの笑顔が、ほんのわずかに揺れた。
「書面? 私どもは口約束で十分です。この業界、信用が全てですから」
「信用があるなら、書面にしても問題ないはずですよね」
笑顔が戻った。少し硬い笑顔が。
「まあ、わかりました。では明日、改めて話し合いましょう。場所はどこがよろしいですか」
翌日、ギルドの会議室で話し合うことになった。
その夜、誠は現代に戻ってコンビニでコーヒーを買い、アパートの机に向かった。
やることは一つ。契約書の作成だ。
◆
誠はWordを開いて、打ち込み始めた。
取引基本契約書。甲(田中誠)と乙(デルガン商会)の間における商品売買の基本条件を定めるもの。
盛り込む項目は、営業部時代に散々扱ってきた内容だ。商品名・単価・数量・納期・支払い方法・支払い期日・品質基準・返品条件・契約期間・途中解約の条件・違約金の規定・紛争解決の方法。
一時間ほどかけて叩き台を作り、印刷した。A4二枚。
読み返しながら、異世界の実情に合わせて修正する。「銀行振込」は使えないので「指定場所での手渡し」に。「日本円」は「アルデナ銀貨」に。「印鑑」は「署名」に。裁判所の代わりに「ギルドの仲裁機関」を紛争解決窓口にする。
完成した文書を見て、誠は少し考えた。
この「契約書」という概念が、異世界にどの程度通じるかはわからない。しかし内容さえ正確に伝えれば、向こうにも理解はできるはずだ。TRANSLATEがあれば、読むことも書くことも問題ない。
問題は、相手がこれを見てどう反応するかだ。
面倒がって逃げるか。それとも中身を見て、これは対等な取引の証明だと気づくか。
どちらに転んでも、誠には損がない。
もし逃げたなら、その商人は最初から誠を騙すつもりだったということだ。書面を嫌がる理由が他にない。
コーヒーを飲み干して、印刷した紙を折りたたんでリュックに入れた。
◆
翌日、ギルドの会議室。
デルガンは先に来ていた。部下らしき男を一人連れている。誠は一人で入った。
「昨日はありがとうございました。では早速」
デルガンが羊皮紙を取り出した。何か書いてある。簡単な取引メモのようだ。カメラで翻訳してみると、「石鹸百個、銀貨二百枚にて買い取り」とだけ書いてある。単価、納期、継続条件、何もない。
一個あたり銀貨二枚。MARKET相場の半値だ。
「こちらも用意してきました」
誠は印刷した契約書を二部、テーブルに置いた。
デルガンが手に取って眺める。文字は自動変換されているので読めるはずだ。部下の男も覗き込んでいる。
二人の顔が、徐々に変わっていった。
「……これは何ですか」
「取引の条件を書面にしたものです。単価、数量、納期、支払い期日、継続条件、途中解約の場合の違約金、全部書いてあります」
「違約金?」
「契約を一方的に破った場合のペナルティです。例えば、合意した数量を突然買わなくなったり、支払いを遅延させた場合」
デルガンの顔から笑顔が消えた。部下と目配せしている。
「そんなものは必要ない。口約束で十分だと言った」
「昨日もそう聞きました。でも書面にすれば、お互いの権利が守られます。あなたも私も、後で『そんな約束はしていない』と言えなくなる。それは双方にとってメリットのはずです」
「……この単価は」
デルガンが契約書の数字を指差した。単価を見ている。誠は相場通りの銀貨四枚で書いていた。
「市場相場の基準価格です。GATE――私の仕入れルートの調査による相場です」
「相場の半値で引き取るのが当たり前だ。そういうものだ」
「卸値と小売値の差は理解しています。ただし、この商品は他所では手に入りません。希少品の卸値に、相場の半値は適用されないと考えています」
沈黙。
デルガンが書類をテーブルに戻した。腕を組む。
「……あなたはギルドに登録したばかりの新参者だ。ルーカスの保証で入ったと聞いている。そのルーカスとの関係が壊れたら困るでしょう」
圧力をかけてきた。なるほど、そういう手を使うか。
誠はルーカスと今どういう関係かを素早く考えた。保証人になってもらった恩はある。しかしルーカスとデルガンに繋がりがあるかどうかは不明だ。
「ルーカスさんとの関係は大切にしています。ただ、この取引はルーカスさんとは別件ですよね。関係ありますか」
「……いや、まあ」
「では条件の話に戻りましょう。単価は銀貨三枚まで下げられます。ただし月百個の継続購入を契約書で確約していただく場合に限ります」
三枚は相場の七十五パーセント。それでも仕入れ比率から考えれば十分すぎる利益が出る。
デルガンが書類を再び手に取った。今度はゆっくりと読んでいる。部下が耳元で何か囁いている。
誠は待った。焦らない。沈黙は相手に考える時間を与えるためにある。これも営業の基本だ。
五分ほど経って、デルガンが顔を上げた。
「……支払い期日を、納品後十日から二十日に変えてもらいたい」
交渉に入った。つまり、書面での取引を受け入れる気になったということだ。
「十五日で」
「十八日」
「十七日。ただし遅延した場合の利息条項を追加します」
また沈黙。部下が何か言う。デルガンが頷く。
「……わかった」
合意した。
誠はボールペンで修正事項を書き込んで、二部ともデルガンに渡した。署名をもらって一部回収する。
握手。デルガンの手は汗ばんでいた。
◆
会議室を出たところで、廊下に人影があった。
ギルドの制服。黒髪をまとめた女性が、書類を抱えて立っていた。
アリア、と誠は思った。まだ名前を知らないが、二話前から頭の中でそう呼んでいた。
目が合った。
「あの」
誠が先に声をかけた。女性が少し眉を上げる。
「先日の登録でお世話になりました。名前を聞き忘れていたんですが」
女性が一瞬、誠の顔を見た。それから小さく言った。
「……アリア・ソーレンです。受付担当の」
「田中誠です。タナカ・マコト。よろしくお願いします、アリアさん」
アリアが軽く頷いた。それから廊下の奥に視線を向けた。今出てきた会議室を、一瞬だけ見た。
「デルガン商会と、取引されるんですか」
「しました。今終わりました」
「……確認させてください」
アリアの声が、少し低くなった気がした。
「その取引に、書面はありますか」
誠はリュックから契約書のコピーを取り出した。アリアが受け取って、素早く目を通す。表情が変わっていく。最初の無愛想から、少しずつ、何か別の感情に。
「……これは」
「問題がありますか」
「いえ。むしろ逆です」
アリアが契約書をゆっくりと返した。
「デルガン商会は、過去に口頭での取引をめぐるトラブルを三件起こしています。いずれも相手側が泣き寝入りしました。書面がなかったので」
「なるほど」
「あなたが書面を用意してくれたおかげで、このギルドとしても助かります。もしトラブルが発生した場合、仲裁の根拠になりますから」
誠は少し考えてから言った。
「それ、もっと早く教えてもらえていたら助かったんですが」
アリアがわずかに目を逸らした。
「……ギルドの受付が特定の商人を誘導することは、規定で禁じられています」
「でもデルガンのトラブル歴は事実として存在していた」
「はい」
「教えることはできないけど、私が自分で調べることは妨げない」
「……そういうことになります」
また「規定上は」の話法だ。この人は、ルールの枠内で最大限のことをしようとする人だと思った。
「わかりました。次から自分で調べます。取引相手の履歴、ギルドで確認できますか」
「加盟商人の基本情報は、窓口で申請すれば開示しています。手数料は銅貨五枚」
「ありがとうございます。じゃあ今日、申請してもいいですか」
アリアが少しだけ、本当に少しだけ、口の端を動かした。
「窓口にどうぞ」
◆
加盟商人の情報開示を申請しながら、誠は隣に立っているアリアに話しかけた。
「さっきの書面なんですが、ギルドの方はああいうものに慣れていますか」
「どういう意味ですか」
「取引の条件を細かく書いた書類です。あの形式を見たことがある人はいましたか」
アリアが少し考える顔をした。
「……見たことは、なかったと思います。少なくとも私は初めてです」
「普通の取引はどうやって証明するんですか」
「口頭か、簡単な覚書です。数量と金額だけ書いた一行のもの」
「それで、今まで大丈夫だったんですか」
「大丈夫ではない場合に、デルガン商会のようなケースが発生します」
アリアが淡々と言った。
誠は少し考えた。
「もしあの形式の書類を、ギルドの標準フォーマットとして採用したらどうですか」
アリアが動きを止めた。
「……それは」
「取引トラブルが減る。ギルドへの信頼が上がる。商人にとっても安心して取引できる。デメリットが思いつかないんですが」
「理屈は通っています」
「では」
「私には、そういう提案を受け付ける権限がありません」
また権限の話だ。しかし今度は、その先を誠は知っていた。
「権限を持っている方はどなたですか」
アリアが誠の顔を見た。何かを測るような目だった。
「……ギルドマスターになります。ただし、面会には事前申請が必要で、審査に二週間かかります」
「申請書類はありますか」
「……あります」
「いただけますか」
アリアがしばらく誠の顔を見た。それから窓口の引き出しから書類を取り出して、カウンターに置いた。
「こちらです」
「ありがとうございます」
書類を受け取りながら、誠はふと気になっていたことを聞いた。
「アリアさんはギルドの規定、全部覚えているんですか」
「業務上必要なので」
「何条くらいあるんですか」
「全部で二百四十七条です」
「全部?」
「確認させてください、と言って調べるよりも、覚えていた方が仕事が早いので」
それを当たり前のように言う。
「すごいですね」
「仕事ですから」
素っ気ない返答だったが、今度は確実に耳が赤くなっていた。
誠はそれを見なかったことにして、書類をリュックにしまった。
「では二週間後に申請書を持ってきます」
「お待ちしています」
振り返ると、アリアはもう次の客の対応に入っていた。背筋が真っすぐで、表情は無愛想に戻っている。
しかし誠には、今日のやりとりがなかなか悪くなかったように感じられた。
◆
その夜、さやかからLINEが来た。
『田中さん、最近忙しそうですね。副業、うまくいってますか』
『まあまあです。今日は書類仕事をしていました』
『書類仕事? 副業なのに?』
『商売って結局、書類が全部ですよ。口約束じゃ何も残らない』
送信してから、アリアの顔を思い出した。
規定を二百四十七条全部頭に入れている女性。ルールを守りながら、最大限のことをしようとする人。そして契約書を見て「むしろ逆です」と言った時の顔。
あの顔は、驚きだったと思う。それと、少しだけ、安堵のようなものも混じっていた気がした。
さやかから返信が来た。
『田中さんって、やっぱり営業向いてたんじゃないですか』
『向いてはいたと思いますよ。ただ、上の人間が下手だったというだけで』
『それ、私には言えなかったのに。どんどん辞めていきましたもんね、うちの営業部』
誠は少し間を置いてから返信した。
『橘さん、あそこはもう長くいる場所じゃないですよ』
しばらく既読がつかなかった。
誠はノートを開いて、今日の収支を書いた。デルガン商会との契約:月百個、単価銀貨三枚。月間契約売上見込み、銀貨三百枚(現代換算三十万円)。
その下に書いた。
ギルドマスター面会申請:提出済み。審査期間二週間。
交渉材料:契約書フォーマットの標準化提案。
そして最後に一行。
アリア・ソーレン。ギルド受付。規定二四七条暗記。情報源として最重要。
最後の「情報源として最重要」という文字を書いてから、誠はボールペンのキャップをカチッと閉めた。
情報源。そう、情報源だ。
それ以外の意味は、今のところは、特にない。
◆
翌朝、さやかから返信が来た。
『……考えてみます』
それだけだったが、誠にはその短い三文字の重さが、なんとなくわかった気がした。
転職活動というのは、誰にとっても面倒くさいものだ。
でも、変わるきっかけというのは、たいていこういう小さな一言から始まる。
誠自身が、スマホのアプリ一つで全部変わったように。
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次話予告:第4話「ギルドの罠」
ギルド幹部から「専属商人になれ」と圧力をかけられる。
録音と転移能力を武器に、誠は初めて「権力」と正面から向き合う。
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