29.最後の交渉
ドルクからの返答は、約束より一日早く届いた。
飛翔伝書ではなく、使いの者が直接持ってきた。封筒を開けると、中に二枚の書類が入っていた。一枚は返答の書面。もう一枚は、薄い羊皮紙に細かい文字で書かれた記録の写しだった。
返答の書面には、こう書いてあった。
「田中誠殿の提案を受諾します。記録の写しをお渡しします。その代わり、田中商会からの供給において帝国を最優先取引先の一つとして位置づけていただくことを確認いたします。詳細な供給条件については、改めて書面にて協議いたします。ドルク・ヴァーン」
誠はSTORAGEに書面の内容を記録してから、記録の写しを読み始めた。カメラで翻訳しながら。
内容は想像より詳しかった。
百二十年前、ヴァルク帝国の南部地方で大規模な飢饉が発生した。三年連続で作物が不作になり、農民が大量に流亡した時期だ。
その時、東から来た旅人が現れた。名前はハジメ。見慣れない服装で、不思議な道具を持っていた。
ハジメは荒れた土地でも収穫できる農法を教えた。輪作の概念、堆肥の作り方、水の管理方法。それまで帝国の農民が知らなかった技術だった。飢饉は三年目の末に収束した。
帝国の皇帝はハジメを賓客として迎え、様々な問いかけをした。ハジメはほとんどの問いに答えたが、一つだけ答えなかった。
「どこから来たのか」
それだけは「言えない」と言い続けた。
ハジメは五年間、帝国に滞在した。農業だけでなく、食料の保存技術、衛生の基本的な概念も広めた。
そして五年目の終わりに、突然道具が機能しなくなった。ハジメはその翌日、皇帝に別れを告げた。
「道具が使えなくなりました。私はもうここには来られません。ただし、私がここで広めたものは残ります。それで十分です」
そして姿を消した。どこへ行ったかは、記録にない。
誠は記録を読み終えて、少し座ったままでいた。
「どこから来たのか」だけは答えなかった。誠も同じことをしている。
道具が使えなくなって、去った。
「それで十分です」という最後の言葉。
◆
エレナに記録の内容を伝えた。
エレナが静かに読んでから言った。
「五年間、ですか」
「そうです」
「田中さんはここに来てどのくらいですか」
「一年近くです」
「……まだ時間がありますね」
「あるといいですが、同じとは限りません」
「そうですね」
エレナが記録を返した。
「田中さん、ハジメという人は帝国に何を残したと思いますか」
「農業技術と、衛生の概念です」
「それだけですか」
「……記録に書いてあることはそれだけです」
「でも」エレナが少し考えた。「帝国がこれだけ詳しく記録を残していたということは、それ以上のものを残したんだと思います。記録に書けない何かを」
「書けない何かとは」
「信じられる人間、ではないですか。先人のメッセージにもそう書いてありましたよね」
誠は少し間を置いた。
「……エレナさんは鋭いですね」
「田中さんが教えてくれたことを、田中さんに返しているだけです」
◆
その午後、ミラが急いで宿に来た。
尻尾が膝に抱えられている。真剣な顔だ。
「田中さん、まずい話があります」
「何がありましたか」
「三方向から同時に動きがあります」
ミラが指を三本立てた。
「一つ目。ギルドの残存派、ベルトの元部下たちが動き始めています。ベルトが失脚した後も、内部に残っていた一派が、特区の設立を妨害しようとしているようです」
「二つ目」
「教会の保守派です。グレイ大司教が職務停止になった後も、支持者が残っていました。セン・ファルたちの改革に対抗しようとしている動きがあります」
「三つ目」
「帝国です。ドルクさんとは別に、帝国の強硬派が独自に動いています。ドルクさんの交渉とは関係なく、田中さんの商会を直接潰そうとしている勢力が帝国内にあるようです」
誠は少し考えた。
三つが同時に動いている。偶然ではないはずだ。
「三者が連携していますか」
「わかりません。ただし、タイミングが一致しているのは気になります」
「ヴィランさんの動きはどうですか」
「DECTECTで確認します」
誠はGATEを開いた。ヴィランのアイコンが、いつもと違う場所にいる。ギルドの近くだ。
「ヴィランさんがギルドの周辺にいます」
「帝国の強硬派とヴィランさんは別の動きをしているということですか」
「そう見えます。ドルクさんとヴィランさんは交渉派で、強硬派は別の判断をしている可能性があります」
ガルドが低い声で言った。
「旦那、これは前の時と似た状況ですね」
「似ています。あの時はギルド・教会・第二王子派が同時に動きました。今回は規模が大きい」
「どうしますか」
「同じようにやります。全部の証拠と情報を整理して、同時に公開します。ただし今回は、帝国という大国が絡んでいるので、より慎重に」
◆
誠はすぐに動いた。
まずレインに状況を伝えた。摂政の立場であれば、帝国強硬派の動きを公式に問題にできる。
「三方向から同時に動きがあります。ギルド残存派、教会保守派、帝国強硬派です」
レインが少し眉を寄せた。
「帝国の強硬派というのは、ドルク殿とは別の動きですか」
「そうです。ドルクさんとは交渉中です。ただし帝国内部の強硬派が独自に動いているようです」
「帝国内部が一枚岩ではないということですか」
「そう判断しています。ドルクさんに確認を取れますか。帝国として強硬派の動きを抑えることができるかどうか」
「……なるほど。帝国の内部分裂を使うということですか」
「ドルクさんと私は記録と取引の交換で合意しています。強硬派がその合意を壊しにくれば、ドルクさんにとっても困る話になります」
レインが少し考えた。
「田中さん、あなたは本当に、毎回予想外のところから手を打ちますね」
「他に方法がないので」
「わかりました。ドルク殿に正式な問い合わせを入れます。帝国として田中商会への妨害行為を把握しているかどうか、という形で」
「ありがとうございます」
「ギルド残存派と教会保守派については」
「それぞれ手立てを持っています。オーレンさんとセン・ファルさんに、今日中に動いてもらいます」
「わかりました。王宮としても対応します」
◆
オーレンのところへ行くと、オーレンはすでに動いていた。
「ベルトの元部下の動きは把握していました。特区の設立に反対している商人たちを組織しようとしています。ただし彼らが持っている切り札がわかりません」
「切り札、ですか」
「何か証拠か交渉材料を持っていると、内部の情報から聞こえてきます」
誠は少し考えた。
「私がギルドにいた頃の記録で、まずいものがありますか」
「……一点だけ気になるものがあります。あなたが最初にギルドに登録した時の記録です。身分証明なし、保証人はルーカス。当時は特例扱いで処理しましたが、規定上は問題があると言えなくもない」
「それを使って、登録の遡及無効を狙うということですか」
「可能性があります」
誠は少し考えた。
登録の遡及無効。それが通れば、田中商会の過去の取引全てが問題になる可能性がある。
「オーレンさん、当時の特例処理は、ギルドマスター権限で認められたものですよね」
「そうです。私が判断しました」
「その判断の記録は残っていますか」
「残っています」
「では、記録を公開してください。特例処理は正当な手続きを踏んでいると証明できます」
「……わかりました。ただし公開すると、私が裁量で判断したことも明らかになります」
「オーレンさんの判断は正しかったと思います。胸を張って公開してください」
オーレンが少し間を置いた。
「……田中さん、あなたはいつもそういうことを言いますね」
「本当のことですから」
「わかりました。今日中に記録を公開します」
◆
エレナ経由でセン・ファルにも連絡を取った。
教会保守派の動きについて、セン・ファルは既に把握していた。
「大司教の支持者が、今週末に公開の場で声明を出す予定です。改革派の進めている変更を『教会の伝統を壊すもの』として非難する内容だと聞いています」
「先手を打てますか」
「打てます。明日の朝の礼拝で、改革の内容と意義を民衆に説明する機会を設けました。田中さんが貧民街でやっていた活動の成果も、話の中に入れる予定です」
「石鹸と衛生活動の話ですか」
「はい。実際に効果があったことを、数字で示します。子供の発熱件数が昨年比でどれだけ減ったか、住民の証言を集めました」
誠は少し驚いた。
「そんなデータを集めていたんですか」
「田中さんに教えてもらった記録の重要性を、実践していました」
「…ありがとうございます」
「いえ、私たちのための記録です。田中さんのためでもありますが」
◆
全ての準備が整った翌日、三方向で同時に動いた。
朝、セン・ファルたちが礼拝で民衆に向けて改革の成果を説明した。具体的な数字と住民の証言は、保守派の「伝統を壊す」という主張に対して、事実で反論する形になった。
昼、オーレンがギルドの記録を公開した。誠の登録の特例処理が正当な手続きを踏んでいることが明示された。残存派が持っていた切り札は、正当性を失った。
午後、レインからドルクへの正式な問い合わせが送られた。帝国として強硬派の妨害行為を把握しているか、という内容だ。
DECTECTでヴィランの動きを確認していると、午後の中頃から急に動きが変わった。宿屋の拠点と、別の場所を何度も往復している。内部で何かが起きている。
夕方、ドルクから遠話石で連絡が来た。エレナが受けて、誠に内容を伝えた。
「帝国として、田中商会への妨害行為は認知していない。強硬派の動きは帝国の公式な立場ではない、という返答でした」
「つまり帝国として強硬派を切り離した、ということですか」
「そう解釈できます。ドルクさんが内部で動いてくれたということだと思います」
その夜、ミラが報告してきた。
「三方向とも、動きが収まっています。ギルド残存派は記録の公開で切り札を失って引いています。教会保守派は今日の礼拝の反響が大きくて、声明を延期したようです。帝国強硬派はドルクさんの動きで孤立しています」
「一日で動きましたか」
「全部が同時だったので、それぞれが連携できなかったと思います」
「それが狙いでした」
ミラが尻尾をぱたぱたさせた。
「田中さん、今回も全部準備していたんですか」
「準備は半分です。あとは全員が動いてくれたおかげです」
「オーレンさんも、セン・ファルさんも、レイン殿下も、ドルクさんも」
「そうです。一人では何もできません」
ガルドが短く言った。
「旦那、今夜はゆっくり休んでください」
「そうします」
◆
夜、現代のアパートでさやかから電話が来た。
「田中さん、今日どうでしたか。なんかLINEが来なかったので気になって」
「色々ありましたが、全部うまくいきました」
「全部って、何があったんですか」
「三方向から同時に問題が来て、同時に対処しました」
「三方向……田中さん、大丈夫ですか。疲れてますよね」
「疲れています」
「休んでください」
「はい」
「田中さん」
「なんですか」
「帝国の記録、読めましたか」
「読みました。先人のハジメは五年間いて、道具が使えなくなって去りました」
「……五年間」
「そうです」
「田中さんはまだ一年くらいですよね」
「そうです」
「じゃあまだ四年あります」
「同じとは限りませんが」
「でも、今日みたいに全員が動いてくれるなら、四年あれば相当なことができますよ」
誠は少し間を置いた。
「……さやかさんは、いつもそういう見方をしますね」
「田中さんが悲観的になりそうな時に、私がいるので」
「助かっています」
「それでいいんです」
さやかが少し間を置いた。
「田中さん、今度異世界に行く時、また連れて行ってくれますか。今度は王都で、アリアさんとエレナさんに会わせてほしいです」
「帝国の件が落ち着いたら」
「約束ですよ」
「約束します」
「おやすみなさい、田中さん。ちゃんと寝てください」
「おやすみなさい、さやかさん」
電話を切った。
誠はノートを開いた。
今日の記録を書く。三方向の同時対処。オーレンの記録公開。セン・ファルの礼拝。レインのドルクへの問い合わせ。強硬派の孤立。
それから別のページに、先人の記録から抜き書きをした。
「道具が使えなくなりました。私はもうここには来られません。ただし、私がここで広めたものは残ります。それで十分です」
それで十分、か。
誠は少し考えた。
本当に十分かどうかは、まだわからない。
でも今夜は、少なくとも今日一日は、十分だったと思えた。
GATEを確認した。クールタイムは明日の朝に明ける。
やることはまだある。特区の設立。帝国との供給契約。先人の記録の続き。そして、まだ答えを出していない問い。
でも今夜はガルドの言う通り、ゆっくり休もうと思った。
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次話予告:第30話「それでも俺は行く」
全ての騒動が一段落した。
特区が動き始め、帝国との取引も始まった。
さやか、アリア、エレナが、それぞれの言葉で誠に向き合う。
そして誠は、自分の選択を決める。
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