30.それでも俺は行く
特区が動き始めたのは、三方向の同時対処から二週間後のことだった。
王都の東側、以前は使われていなかった広場と周辺の建物を整備して、「アルデス商業特区」として正式に開設した。看板を立てて、入口に標識を設けて、最初の登録商人を迎えた。
初日、十二名の商人が登録した。翌日にはさらに八名。一週間で三十名を超えた。
組合のルーカスとデルガンも特区に移った。ヴェルノ・サッハの代理として、ガランの商人も二名参加した。帝国からも、ドルクの紹介で二名の商人が名乗りを上げた。
アリアが特区の登録窓口の責任者として着任した初日、誠はギルドの前で見送った。
「今日からよろしくお願いします」
「よろしくお願いします、田中さん」
アリアが背筋を真っすぐにして、特区の建物に入っていった。
ガルドが隣で短く言った。
「旦那、いい顔してますよ」
「そうですか」
「はい」
誠は少し照れくさかったが、否定しなかった。
◆
特区が落ち着いてから、誠はさやかにLINEした。
『特区が動き始めました。落ち着いてきたので、今度は王都に来てみますか』
返信は一分以内に来た。
『行きます。いつですか』
『今週末は空いていますか』
『空けます』
土曜日の昼、さやかがアパートに来た。
前回と同じ格好だ。ジーンズとスニーカー。ただし今日はリュックを背負っていた。
「準備いいですね」
「前回学習しました。林の時より歩くと思って」
「正解です」
さやかが少し笑った。
「田中さん、緊張していますか」
「少し」
「なぜですか」
「さやかさんをアリアさんとエレナさんに会わせるのが、どうなるか想像がつかないので」
「喧嘩はしませんよ」
「そういう意味じゃないですが」
「どういう意味ですか」
「……まあ、行きましょう」
誠はGATEを起動した。光の輪が部屋に現れた。
さやかが今日は迷わず手を繋いだ。前回と比べて、ずっと落ち着いている。
「行きます」
「はい」
◆
王都の宿、個室に出た。
誠がここを転移先に登録していたのは、最初から人目につかない場所を選んでいたからだ。
さやかが部屋を見渡した。石造りの壁、木のテーブル、蝋燭の明かり。
「前回の林より、生活感がありますね」
「宿ですから」
「田中さんはいつもここから動くんですか」
「ここが王都の拠点です」
「なるほど」
さやかが窓から外を見た。石畳の通りが見える。
「王都、思ったより大きいですね。林から来た時より、ずっと人が多い」
「王都ですから」
「さっきから『ですから』ばかり言ってますね」
「……緊張しているかもしれません、まだ」
さやかが少し笑った。
「大丈夫ですよ。私は田中さんの異世界の話、全部信じていますから。ちゃんと目で確認できるのが嬉しいくらいです」
「そう言ってもらえると助かります」
「まずどこに行きますか」
「特区を見てから、アリアさんに会いましょう。昼過ぎにエレナさんの屋敷に行く予定です」
「わかりました」
部屋を出た。廊下、階段、一階のロビー。さやかが全部を確認しながら歩いている。
外に出ると、さやかが少し立ち止まった。
「……臭いと音が、やっぱり全然違いますね。林の時は自然の臭いだったけど、ここは人と食べ物と馬が混じった感じ」
「慣れます」
「慣れたくはないですが、嫌いじゃないです」
石畳の通りを歩いた。露店が並んでいる。商人が声をかけている。エルフの女性が布を抱えて歩いている。
さやかがエルフに気づいて、少し速度を落とした。声は出さなかった。ただじっと見ている。
「……前回、林で見た鳥の色が変だと思ったんですけど、やっぱり生き物が違いますね。耳の形も」
「エルフです。この世界には普通にいます」
「普通にいるんですね」とさやかは小声で言った。「田中さん、毎日この景色の中にいるんだと思ったら、なんか不思議な気分になりました」
「不思議ですか」
「田中さんって、私の知っている田中さんと、この世界の田中さんが、同じ人なんだなって実感しました。当たり前なんですけど」
誠はさやかを見た。
「当たり前ですよ」
「でも、リストラされて落ち込んでいた田中さんと、王子と交渉している田中さんが、同じ人って改めて思ったら」
「改めて思ったら」
「かっこいいな、と思いました」
誠は少し固まった。
「……そういうことを、さらっと言うんですね」
「本当のことですから」
前に誠がよく使う言葉だ。さやかがそれを返してきた。
◆
特区に着くと、アリアが登録窓口で書類を整理していた。
誠が入ってくるのを見て、顔を上げた。それからさやかを見て、少し止まった。
「アリアさん、紹介します。橘さやかさんです」
さやかがアリアに向かって、少し丁寧に頭を下げた。
「橘さやかです。田中さんにはいつも心配させられています」
TRANSLATEが翻訳する。
アリアがしばらくさやかを見た。それから誠を見た。それからまたさやかを見た。
「……アリア・ソーレンです。特区の窓口を担当しています。私も田中さんには心配させられています」
「ですよね」
さやかがそう言って、少し笑った。アリアが少し目を細めた。警戒しているのか、値踏みしているのか、誠には判断がつかなかった。
「心配というのは、どういう場面でですか」
「一人で抱え込む癖があるじゃないですか。相談しないで急に動く」
「……そうですね。よく知っていますね」
「三年間、先輩として見てきたので」
アリアが少し考えてから言った。
「……私は一年ほどですが、同じことを感じています」
「やっぱりそうですよね」
二人が頷き合った。誠は少し居心地が悪かった。
「あの、私の話をしているんですよね」
「していますよ」さやかが言った。「ちょっと黙っていてください」
アリアが、珍しくはっきりと笑った。
誠は黙った。
特区を案内しながら、アリアとさやかが話し続けた。最初は特区の制度の話だったが、途中から誠の話に戻った。アリアが記録の管理について説明すると、さやかが「書面で残すのは田中さんに教えてもらいました」と言い、アリアが「私もです」と言った。
二人の話は自然に続いていた。誠はついていくのをやめて、少し離れて二人を見ていた。
現代と異世界の二人が、普通に話している。
◆
昼過ぎ、エレナの屋敷を訪ねた。
エレナが玄関先で待っていた。さやかを見て、少し目を細めた。
「初めまして。エレナ・フォン・ヴェストです」
「橘さやかです。田中さんからよくお話を聞いています」
「私もさやかさんのことは聞いています」エレナが少し間を置いた。「ずっと会いたいと思っていました」
「えっ、そうなんですか」
「田中さんが珍しく話す人なので。どんな方なのか、気になっていました」
さやかが誠を見た。
「そんなに話していたんですか」
「……まあ、少し」
「少しじゃなかったですよ」エレナが言った。「田中さんが名前を出す人は、数えるほどしかいません。さやかさんはその中でも、よく出てきます」
さやかが少し頬を染めた。それをごまかすように、部屋を見渡した。
「素敵な屋敷ですね。古いけど、手入れが行き届いている」
「ありがとうございます。以前より使用人が減ってしまいましたが、残ってくれた人たちが丁寧に管理してくれています」
「田中さんに家の財政を助けてもらったと聞きました」
「助けてもらいました。最初は取引として始まりましたが、今は……」
エレナが少し言葉を選んだ。
「今は?」
「今は、一緒に動いている仲間だと思っています」
さやかがエレナを見た。それから誠を見た。
「田中さん、エレナさんってかっこいいですね」
「……そうですね」
「さやかさんこそ」エレナが言った。「田中さんに『かっこいい』と言える人は、そういないと思います」
「さっき言ったばかりでした」
「聞こえていましたか」
「窓が開いていたので」
さやかが少し笑い、エレナも笑った。
誠は二人の間で、少し居場所がなかった。
「お茶でもいかがですか」
「いただきます」
お茶が出た後、三人で少し話した。さやかがエレナに特区のことを聞いた。エレナが誠の最初の頃の話をした。聞いていると、誠が知らなかった角度から自分の話が出てきて、少し妙な気分になった。
「田中さん、最初に会った時は疲れた商人という印象でした。でも道具を使って人の情報を確認しているのを見た時に、ただ者じゃないと思いました」
「道具、というのは」さやかが少し前のめりになった。「私も気になっています。エレナさんはあれをどういうものだと思っていますか」
「東の地方の、魔力を使わない不思議な道具だと思っています。詳しくは聞いていません」
「私は故郷から来た道具だと知っています。でも仕組みは私にもわかりません」
「さやかさんも、田中さんの故郷の人なんですね」
「そうです」
エレナがさやかを見た。
「田中さんの故郷は、どんなところですか」
「うーん、一言では難しいですが……魔法はないけど、その代わりに便利な道具がたくさんある場所です。田中さんが広めているものは、全部そこでは普通に手に入るものです」
「石鹸も、薬も」
「銅貨1枚か2枚くらいの価値で買えます」
エレナが少し目を丸くした。
「……銅貨一、二枚ですか」
「そうです」
「それが、こちらでは銀貨何枚にもなる」
「はい。だから田中さんが商売できているわけです」
エレナがしばらく考えた。
「……田中さんの故郷というのは、本当に不思議な場所ですね」
「不思議というより、別の方向で発展した場所だと思います。魔法がない分、別の工夫をしてきた場所です」
「なるほど」
エレナがさやかを見て、それから誠を見た。
「さやかさんは、田中さんのことが好きなんですね」
さやかが少し止まった。
「……そんなに分かりますか」
「田中さんを見る時の顔が、私やアリアさんとは少し違います」
「エレナさんは、田中さんのことが」
「好きです」エレナがあっさり言った。「ただし、田中さんは鈍いので、こちらから言わないと伝わらないので」
誠が口を挟もうとした。さやかが先に言った。
「鈍いのは知っています」
「共通認識ですね」
二人が顔を見合わせた。
誠は黙った。
◆
さやかを宿に送ってから、誠はガルドとミラと王都の通りを歩いた。
夕方の石畳がオレンジに染まっている。
「ガルドさん、ミラさん、今日さやかさんを連れてきました」
「見ました」ミラが尻尾をぱたぱたさせた。「アリアさんと意気投合してましたね。田中さんの悪口で」
「悪口じゃないと思います」
「似たようなものです」
ガルドが短く言った。
「旦那、今日は顔色がいいです」
「そうですか」
「全員が同じ場所にいる日は、珍しいので」
誠は少し考えた。現代と異世界の全員が、今日は同じ場所にいた。さやか、アリア、エレナ、ガルド、ミラ。
「ガルドさん、一つ相談していいですか」
「どうぞ」
「私はこれからも、ここに来続けます。道具が使えなくなるまで、それ以降も、できる限り。そのつもりで動いています。ただし、いつかは来られなくなる可能性がある」
「はい」
「その時でも、特区は続きます。アリアさんがいます。エレナさんがいます。オーレンさんがいます。続けられると思いますか」
ガルドがしばらく考えた。
「……続けられると思います。旦那が作った仕組みは、旦那がいなくても動きます」
「それを聞いて安心しました」
「ただし」
「ただし?」
「旦那がいた方が、もっとうまくいきます。だから、できる限り来てください」
「はい」
ミラが言った。
「田中さん、私も続けます。特区に何かあれば動きます」
「ありがとうございます」
「経費は」
「請求してください」
「ありがとうございます」
三人で少し笑った。
◆
夜、宿でさやかと二人になった。
明日の朝に現代に戻る前の、最後の夜だ。
さやかが窓から王都の夜景を見ていた。魔法の照明が点いている。現代とは違う色の光だ。
「きれいですね」
「そうですね」
「田中さんはこの景色が好きですか」
「好きです」
「いつからですか」
「……気づいたら好きになっていました」
さやかが振り返った。
「田中さん、今日アリアさんとエレナさんに会って、どう思いましたか」
「どうとは」
「二人とも、田中さんのことが好きだなと思いました」
誠は少し間を置いた。
「……そうですか」
「田中さんは気づいていますか」
「気づいています」
「私も、好きです。それは知っていますよね」
「知っています」
「三人に好かれている田中さんは、どうするつもりですか」
誠はしばらく考えた。
この問いは、ずっと先送りにしてきた。さやかが「今すぐ答えなくていい」と言ってくれたから。アリアが「いつか答えを出してほしい」と言ったから。エレナは今日、さやかがいる前でさらっと「好きです」と言った。
全員が、待ってくれていた。あるいは待つのをやめて、踏み込んできた。
「正直に言います」
「どうぞ」
「三人とも、大切に思っています。それは変わりません。ただし」
「ただし」
「さやかさんに対して思っていることは、アリアさんやエレナさんとは少し違います」
さやかが誠を見た。
「どう違いますか」
「二人のことは、この世界で一緒に動いてきた仲間として大切にしています。本物の信頼です。でもさやかさんは」
「さやかは」
「最初から、全部の話を聞いてくれた人です。異世界のことを知らなくても、知った後も、変わらずそこにいてくれた。疲れたと言えるのも、正直に話せるのも、さやかさんに対してだけです」
さやかが少し黙った。
「続けてください」
「それが何を意味するのか、自分でもはっきりとはわかっていませんが、大切な人だということはわかっています。それ以上の言葉を、今すぐは言えません。ただ、そう思っています」
さやかがしばらく黙っていた。
それから少し笑った。
「田中さんらしい答えです」
「曖昧でしたか」
「曖昧ですが、田中さんにしては踏み込んでいます」
「そうですか」
「うん。ありがとうございます。正直に話してくれて」
「こちらこそ、待ってくれてありがとうございます」
さやかが窓の外を見た。また魔法の照明が灯っている。
「田中さん、私はこれからも来ていいですか。ここに」
「来てほしいです」
「一緒にいてもいいですか」
「いてほしいです」
「……それで、今は十分です」
さやかが静かに言った。
誠は何も言わなかった。
窓の外で、魔法の照明が一つ、少し明るくなった気がした。
◆
翌朝、さやかを現代に送り届けてから、誠は一人で王都の石畳を歩いた。
特区の建物の前を通った。アリアがもう窓口に立っていた。誠に気づいて、少し頷いた。誠も頷いた。それだけで十分だった。
ギルドの前を通った。オーレンが入口で書類を確認していた。
「おはようございます」
「おはよう、田中さん。これからもここに来ますか」
「来ます」
「それを聞いて安心しました。まだ変わり足りないので」
「私もそう思っています」
エレナの屋敷の前を通った。エレナが庭に出ていた。
「田中さん、昨夜さやかさんと話しましたか」
「話しました」
「……どんな話でしたか」
「色々と」
「その色々を、私に教えてもらえますか」
「近いうちに」
「…近いうちを待っています」と、エレナがにっこりした。
誠は歩き続けた。
ガルドが途中で合流した。
「旦那、今日はどうするんですか」
「特区の様子を見てから、帝国の供給契約の書面を確認します。それからレインに特区の初週報告をします」
「いつも通りですね」
「いつも通りです」
「旦那、一つだけ言っていいですか」
「どうぞ」
「旦那がここにいる間は、俺もここにいます。どこへ行くかわからない逃げ場があっても、戻ってくる間は一緒にいます」
誠は少し間を置いた。
「……ありがとうございます、ガルドさん」
「礼はいいです」
「でも言いたかったので」
ガルドが口の端を動かした。
二人で特区に向かって歩いた。
石畳が朝の日差しで白く光っている。露店が開き始めている。馬車が通り過ぎる。遠くでミラの声がした。誰かと話しているらしい。元気のいい声だ。
誠はGATEを確認した。クールタイムは問題ない。いつでも現代に帰れる。いつでも戻ってこられる。
それが変わらない限り、ここにいる理由はなくならない。
先人のハジメは「それで十分です」と言って去った。
誠は、まだ十分ではないと思っている。
特区は動き始めたばかりだ。帝国との取引は緒に就いたばかりだ。セン・ファルたちの改革はこれからだ。さやかにまだ言えていない言葉がある。アリアに答えを出すと約束した。エレナに「近いうちに」と言った。
やりたいことが、まだたくさんある。
めんどくさいことも、まだたくさんある。
でも今は、それが悪くないと思っていた。
誠は歩きながら、ポケットのGATEを握った。
リストラされた翌日に、このアプリが起動した。その日から全部が始まった。
なぜ自分に与えられたのか、まだわからない。先人のハジメとどう繋がっているのか、まだわからない。GATEがいつまで使えるのか、それもわからない。
わからないことだらけだ。
でも、今日も石畳を歩いている。
それでいい。
誠は特区の建物が見えてきたところで、少し足を止めた。
看板に「アルデス商業特区」と書いてある。自分たちが作った場所だ。
中からアリアの声がした。登録に来た商人に、規定を説明している声だ。落ち着いた、明瞭な声だ。
誠は少し笑って、また歩き始めた。
今日も、やることがある。
それでも俺は行く。
◆
その夜、現代のアパートで誠はノートを開いた。
記録する。
特区、開設一週間。登録商人三十名超。アリア、着任。ガラン商人二名参加。帝国商人二名参加。帝国との供給契約、書面確認中。
それから少し間を置いて、別のページに書いた。
さやかが王都に来た。アリアとエレナに会った。三人が同じ場所にいた日。
さやかに、少しだけ正直に話した。
まだ言えていないことがある。でも、言う時が来ると思っている。
GATEを確認した。
通知はなかった。LOCKEDだったものは全部解放されている。新しい機能は今のところない。
誠はスマホを置いて、窓の外を見た。荒川区の夜。変わらない景色。
でも自分は変わっている。
リストラされた翌日の、面倒くさいだけだった男から、少しずつ、少しずつ。
まだ終わっていない。
むしろ、ここからだ。
誠はノートを閉じた。
明日の朝、また異世界に行く。
それでいい。
それで十分だ。
ここまでのご拝読ありがとうございました
この作品は一旦ここで終わりにさせていただきます
次回の作品も「スマホ」と「異世界」のテーマは継続で書いて行こうと思います
近いうちにまた投稿し始めるのでよかったらご覧ください
それではまた「近いうちに」会いましょう




