14.教会の秘密
ヴェルノとの書面が完成したのは、面会から四日後だった。
六対四の優先供給権、品質保証の基準、価格設定の方式、供給が止まった場合の対応。全部で八条からなる契約書は、誠がこれまで作った中で一番しっかりした内容になった。ヴェルノの側も、自分たちの商会の法務担当が確認したという旨の書面を添付してきた。
ガラン共和国の議会では全取引を書面で記録することが義務付けられているという話は本当だったらしく、ヴェルノ側の書式も実によく整っていた。
誠はサインをして、写しをリュックに入れ、原本を現代にバックアップした。
問題は、この一件が片付く前に、別の問題がすでに動き始めていたことだ。
◆
グレイ大司教が本格的に動き出したのは、ヴェルノが王都を離れた翌日だった。
朝、ミラが飛び込んできた。今日は尻尾がぱたぱたしていない。
「田中さん、教会が動きました」
「どんな動きですか」
「今朝の礼拝で、グレイ大司教が説教をしました。王都北区と南区の二か所で同時に」
「内容は」
「『異端の品物は神の秩序を乱す。それを売り買いする者は、知らずして悪魔の業に加担している』という話をしたそうです。田中商会の名前は出していませんが、明らかにあなたのことを指しています」
異端の品物。誠の商品を指す言い方だ。
「民衆の反応は」
「今のところは半々です。信心深い人は不安がっているし、実際に石鹸や薬を使ったことがある人は首を傾けています。ただ、大司教が言ったとなると、無視できない人も多いです」
誠は少し考えた。
グレイ大司教の戦略は、前回のバルド神父とは違う。神父の時は誠に対して直接圧力をかけてきた。今回は民衆を通じた間接的な包囲だ。
相手が変わったというより、エスカレートしている。
「エレナさんには連絡しましたか」
「まだです」
「連絡してください。教会内部の情報が必要です」
◆
エレナの屋敷に向かうと、エレナがすでに情報を持っていた。
「グレイ大司教の説教は、昨日の夜に急遽決まったそうです。きっかけはヴェルノ・サッハが王都を離れたことです」
「なぜそれがきっかけに?」
「ヴェルノは教会に対してある種の抑止力になっていました。ガランは教会との関係が薄い国で、ヴェルノが王都にいる間は、教会が派手に動くと外交問題になる可能性があった。でもヴェルノが去ったので、動きやすくなったということです」
なるほど。読んでいる。
「教会内部に、大司教の動きに反対している人間はいますか」
「います」
エレナがはっきり言った。
「知っているんですか」
「一人、心当たりがあります。セン・ファルという若い神父です。改革派で、大司教のやり方に不満を持っていると以前から聞いていました。ただし、直接接触したことはありません」
「繋いでもらえますか」
「試みます。ただし、彼が動いてくれるかどうかはわかりません。教会内で孤立すると、職を失うだけでは済まないので」
「わかっています。無理に動かす必要はないです。話を聞かせてもらえるだけでも十分です」
エレナが頷いた。
「それと、もう一つ話があります」
「なんですか」
「……田中さん、これを見てください」
エレナが書類を取り出した。折りたたまれた羊皮紙で、かなり古い。
「何ですか、これ」
「先月、父の書斎を整理していたら出てきました。父も存在を忘れていたようです。」
誠はスマホのカメラを書類に向けた。
翻訳が表示される。
内容は、二十年以上前の記録だった。当時の教会の経理担当の神父が書いたものらしく、「大司教府の特別会計」について記述されている。特別会計の支出先として、複数の貴族の名前と金額が記載されていた。
「これは」
「教会が貴族に資金を流していた記録です。宗教の寄進を、政治工作に使っていた痕跡です」
誠は書類を慎重に読んだ。二十年前の記録だが、当時の支出パターンがわかる。
「今も同じことをしていると思いますか」
「していると思います。二十年前にやっていたことを、なぜ今さらやめるんですか」
それは論理的な指摘だ。
「この書類の出所を教会は知っていますか」
「知らないはずです。父も存在を知らなかったので、教会側でも記録から漏れた書類だと思います」
「原本を私に預けてもらえますか。安全な場所に保管します」
「それが目的で見せました」
誠は書類をリュックに入れた。今夜、現代でスキャンしてバックアップを取る。
「エレナさん」
「なんですか」
「これを持ってきてくれたのは、なぜですか」
エレナが少し間を置いた。
「……田中さんなら使えると思ったからです」
「使えるというのは」
「脅しには使わないで、でも必要な時に証拠として機能させる。そういうバランスがわかる人だと思っています」
誠はエレナを見た。
「信頼してくれているんですね」
「……九割は計算です」
誠は少し笑った。前に自分が言った言葉を、そのまま返された。
「残り一割は」
「縁です」
二人で少し笑った。
◆
その日の夕方、誠は貧民街に向かった。
ガルドを連れて、薬と石鹸を持って。
前回の石鹸配布が民衆に好評だったことは、今も取引先からの話で確認できている。教会の説教で「異端の品物」と言われても、実際に使ったことがある人間は信じない。
問題は、まだ使ったことがない人間だ。
今日はもう一段進める。石鹸の配布だけでなく、現代の衛生知識を直接教える。
貧民街の広場に着くと、前回来た時に顔を覚えていた住民が何人か寄ってきた。
「また来たよ」
「石鹸持ってきた?」
子供たちが近づいてくる。誠は荷物を下ろした。
「今日は石鹸と一緒に、手の洗い方を教えます。病気を防ぐための方法です」
ガルドが後ろで腕を組んで立っている。今日は護衛というより、荷物持ちに近い役割だ。ガルドも最近、そういう仕事に慣れてきた。
誠は現代のやり方で手洗いの実演をした。石鹸を泡立てて、指の間まで洗う。爪の周りを丁寧に。手首まで。二十秒以上かけてすすぐ。
「汚れは目に見えないものが一番怖い。特に食事の前と、病人の世話をした後は必ず洗う」
子供が真剣な顔で見ている。大人も数人、立ち止まっていた。
「これで病気が防げるんですか」
老婆が聞いた。
「全ての病気ではありませんが、かなりの確率で防げます。私の故郷では、これが広まってから子供が病気で亡くなる数が大きく減りました」
老婆が石鹸を受け取って、まじまじと見た。
「教会は、これが悪魔の品だと言っているが」
「石鹸は油と植物の成分から作っています。悪魔の素材ではありません」
「でも神父様が」
「病気で苦しむ子供を助けるものが、悪魔の業だと思いますか」
老婆が黙った。
誠は続けた。
「私はこれを売って生活しています。ですから完全に中立ではありません。ただ、実際に使った方に判断してもらいたいと思っています。今日配るものは無料です。使ってみて、役に立つかどうかを自分で決めてください」
その言い方が良かったのか、老婆が周囲の人たちに声をかけ始めた。
一時間かけて、石鹸と使い捨て手袋(現代の使い捨てビニール手袋)、絆創膏を配り終えた。使い捨て手袋は病人の世話をする時用に、という説明をつけた。
「ガルドさん、今日の反応はどうでしたか」
帰り道、ガルドが少し考えてから答えた。
「前回より、みんな真剣に聞いていました」
「大司教の説教があったからですか」
「逆に、説教があったせいで興味を持った人もいると思います。禁じられたものは気になるので」
なるほど。禁止が宣伝になった。
「計算していましたか、旦那」
「半分は。半分は偶然です」
ガルドが短く笑った。
◆
翌日、エレナからセン・ファル神父との面会が取れたという連絡が来た。
場所は教会の管轄外にある私的な茶館。時間は早朝。人目につかないようにという配慮だ。
誠は一人で向かった。ガルドとミラには外で待機してもらう。
セン・ファルは三十代前半の、細身の神父だった。目が利発そうで、表情に緊張が出ている。
APPRAISEを向ける。
┌────────────────────────┐
│ 【 APPRAISE RESULT 】 │
│ 名称 :セン・ファル │
│ 役職 :教会 王都北区担当神父 │
│ 年齢 :三十二歳 │
│ MP :134(練達水準) │
│ 備考 :改革派。大司教の方針に │
│ 内部から異議を持つ。 │
│ 民衆への봉사を本来の使命と │
│ 考えている誠実な人物。 │
│ 現在、孤立気味。 │
└────────────────────────┘
誠実な人物。孤立気味。
「田中さんですか」
「はい。セン・ファル神父、時間を作っていただいてありがとうございます」
「エレナ令嬢からの頼みですから。ただ、長くはいられません」
「わかっています。単刀直入に話します」
「どうぞ」
「大司教の説教について、神父はどう思いましたか」
セン・ファルが少し間を置いた。
「……私の個人的な見解を聞きたいんですか」
「はい」
「私は、あの説教は間違っていると思っています」
はっきり言った。
「理由を聞いてもいいですか」
「教会の使命は民衆を助けることです。病気を防ぐものを『悪魔の業』と呼ぶことは、民衆を助けることにならない。むしろ助けを遠ざける」
「大司教はなぜあの説教をしたと思いますか」
セン・ファルが視線を落とした。
「……あなたの商売が、教会の収入に影響するからです」
「教会の収入に?」
「民衆が健康になれば、祈祷や治癒の儀式への需要が減ります。教会は長年、病人の治療に宗教的な意味を付けて収入を得てきました。それが脅かされている」
誠は少し驚いた。そういう経済的な動機があったのか。
「教会の内部では、大司教の方針に反対する声はありますか」
「あります。ただし表には出ません。出せば左遷か、最悪追放される」
「神父は今、孤立していますか」
セン・ファルが少し驚いた顔をした。
「……なぜわかるんですか」
「顔を見ていればわかります」
セン・ファルが少し間を置いた。
「……孤立しています。改革を訴えると、冷たくされます。それが普通です」
「一つお願いがあります」
「なんですか」
「教会内部で、同じ考えを持っている人間を教えてください。名前でなくていい。何人いて、どんな立場かだけで」
「……なぜそれを聞くんですか」
「一人が声を上げても潰されます。でも複数が同時に動けば、話が変わります。内部からの改革には、同志が必要です」
セン・ファルがしばらく誠を見た。
「あなたは、私たちを動かして何かしようとしていますか」
「動かしたいわけではありません。ただ、あなたたちが動きたい時に、外から支えられる準備をしておきたい」
「外から支えるとは」
「証拠の保全と、必要な時の情報提供です。動くかどうかは神父たちが決めることです。私は商人なので、無理に宗教の問題に首を突っ込むつもりはありません」
セン・ファルがしばらく考えた。
「……同じ考えの者は、五人います。全員が若い世代で、大司教の方針に疑問を持っています」
「ありがとうございます」
「ただし、名前は言えません」
「言わなくていいです」
「あなたは……本当に商人ですか」
誠は少し笑った。
「商人です。ただ、放っておけない性格なので」
セン・ファルが少し目を細めた。
「エレナ令嬢が言っていた通りの人ですね」
「どんなことを言っていましたか」
「計算しているようで、実は困っている人を見ると動かずにいられない人だと」
誠は少し間を置いた。さやかも同じことを言っていた。
「そういう評判が広まっているんですね」
「悪い評判ではないと思いますが」
「困ります、的になるので」
セン・ファルが小さく笑った。初めて緊張が取れた顔だ。
「田中さん、一つ教えてもいいですか」
「どうぞ」
「大司教は今、あなたの商売を潰すだけでなく、王宮に働きかけて商人ライセンスの剥奪を求めようとしています」
「いつ動きますか」
「今週中だと聞いています」
「わかりました。ありがとうございます」
「私にできることがあれば、また連絡してください。エレナ令嬢経由で」
二人は茶館を出た。別々の方向に歩き始めて、セン・ファルが少し振り返った。
「田中さん」
「はい」
「貧民街で石鹸を配っているのを見た住民から、話を聞きました。あの子供たちが石鹸を使って手を洗うのが楽しいと言っているそうです」
「そうですか」
「それは悪魔の業ではないと、私は思います」
誠は少し頷いた。
「ありがとうございます」
◆
セン・ファルと別れてから、誠はまっすぐオーレンのところへ向かった。
ギルドマスターは在室だった。事情を説明すると、オーレンが眉をひそめた。
「商人ライセンスの剥奪を教会が求めてくるとは、ギルドとしての独立性への侵害です」
「対応できますか」
「剥奪の申請は王宮経由で来ることになります。ただし、ギルドのライセンス管理権限はギルドにあります。王宮からの要請であっても、正当な理由がなければ従う義務はない」
「正当な理由というのは」
「取引上の不正、詐欺的行為、契約違反などです。あなたはそのいずれも行っていない」
「では法的には問題ないですね」
「問題ありません。ただし」
「政治的には話が別い、ということですか」
「……そうなります」
誠は少し考えた。
「オーレンさん、一つお願いがあります」
「なんですか」
「もし教会から申請が来た場合、私に事前に知らせてください。対応する時間を作りたいです」
「わかりました」
「それと、これを預かっていただけますか」
誠はリュックからエレナの書類のコピーを取り出した。原本は現代にある。これはスキャンして現代でプリントしたものだが、内容は同じだ。
「これは……」
「二十年前の教会の経理記録です。情報源の名前は言えませんが、信頼できる人物から入手しました」
オーレンが書類を読んだ。顔が少しずつ変わっていく。
「……これは、ギルドも関係しています」
「その時期の人間がまだいますか」
「……確認が必要ですが、可能性があります」
「つまり、教会だけでなくギルドの一部にも関係している話かもしれない」
「……そうなります」
誠は少し間を置いた。
「私はこれを今すぐ公にするつもりはありません。ただ、教会が不当な形でライセンス剥奪を求めてきた場合には、使います」
オーレンがしばらく書類を見ていた。
「……田中さん、あなたはどこでこういう情報を集めるんですか」
「信頼できる人たちが、教えてくれます」
オーレンが誠を見た。
「……わかりました。預かります」
◆
その日の夜、誠はアリアに会いに行った。閉館後のギルドで。
「セン・ファル神父と会いました」
「そうですか」
「教会内部に改革派が五人います。名前はわかりませんが」
「……対応の選択肢が増えますね」
「今週中に大司教がライセンス剥奪を申請してくる可能性があります。申請が来たら、すぐに知らせてください」
「わかりました」
アリアが少し考えてから言った。
「田中さん、最近、動きが大きくなっていますね」
「そうですか」
「ギルドの問題、王子の件、ガランの商人、そして今度は教会。全部、同時に動いています」
「そうなっています」
「……疲れていませんか」
誠は少し驚いた。アリアがそういうことを聞くのは、初めてだった。
「疲れています、多少は」
「多少、ですか」
「多少以上かもしれません」
アリアが誠を見た。いつもの無愛想な顔だが、今夜は少し違う色がある。
「田中さん、今夜の閉館後の帳簿の分析の話は、覚えていますか」
「もちろんです。まだ有効ですよ」
「今夜はどうですか」
誠は少し考えた。今夜は現代に帰って、書類のバックアップを取る予定だった。
「……少しだけなら」
「少しだけでいいです」
二人でギルドの小会議室に移動した。誠がノートとボールペンを出して、複式簿記の基本を説明し始めた。
アリアは最初から理解が速かった。規定を二百四十七条暗記している人間が、数字の仕組みを覚えられないはずがない。
「借方と貸方、というのは」
「全ての取引を二つの側面から記録します。例えば商品を現金で売った場合、現金が増えると同時に商品が減る。その両方を記録することで、帳簿のどこかで数字が合わなくなった時にすぐわかります」
「つまり、不正があれば必ず数字が合わなくなる」
「そうです。ベルトの不正が見つかったのも、支出の合計と収入の合計が合わなかったからです」
アリアが頷いた。メモを取りながら、質問をしてくる。質問が的確だ。
一時間ほど経って、アリアが言った。
「ありがとうございました。だいぶわかってきました」
「呑み込みが早いですね」
「……規定より面白いかもしれません」
誠は少し驚いた。
「規定より面白い、ですか」
「規定は覚えるものです。でも帳簿の分析は、数字から物語を読む感じがします。どこかがおかしいと、それが証拠になる」
「そうです。そういう感覚が大事です」
アリアが少し嬉しそうな顔をした。ほんの少しだけだったが、誠は見逃さなかった。
「また教えてもらえますか」
「もちろんです」
「……田中さんは、しばらく王都にいますか」
「まだいます。やることがたくさんあるので」
「そうですか」
アリアが書類を片付け始めた。立ち上がりながら、少し迷う顔をしてから言った。
「田中さん、教会の件は気をつけてください。グレイ大司教は、バルド神父とは違います。あの方は、目的のためならどんな手段も使います」
「アリアさんは、どこでそういう情報を集めるんですか」
「……ギルドには、色々な商人が来ます。教会の関係者も来ます。話をよく聞いていれば、自然と情報が集まります」
「規定二百四十七条に加えて、情報収集も得意なんですね」
「仕事ですから」
誠はアリアを見た。
「アリアさんは、強いですね」
アリアが少し止まった。
「……そんなことは」
「規定を守りながら、変えたいものがある。助けたい人がいる。それで動ける人間は、そんなに多くないです」
アリアが視線を落とした。今夜は耳だけでなく、頬まで少し赤い。
「……田中さんのせいです」
「私のせいですか」
「あなたが来るまでは、規定の中で黙っていることが普通だと思っていました。でも、あなたが来てから、規定の中でできることはたくさんあると気づきました」
「それはアリアさんが最初から持っていたものです。私は何もしていない」
「……そういうことを、さらっと言うんですね」
「本当のことです」
アリアがしばらく黙っていた。
それから小さく、しかしはっきりと言った。
「おやすみなさい、田中さん」
「おやすみなさい、アリアさん」
◆
夜、現代のアパートに戻った。
書類をバックアップして、コーヒーを淹れて、ノートを開いた。
今日の記録を書く。セン・ファルとの面会。改革派五人の存在確認。エレナの書類をオーレンに預けた。アリアへの帳簿分析の指導。
最後に一行書いた。
アリアが「田中さんのせいです」と言った。
何のせいなのか、正確には聞かなかった。
でも、悪い意味ではなかったと思う。
少なくとも、そう受け取っておくことにした。
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次話予告:第15話「王の病と現代医学」
国王の容態が悪化した。
「現代の薬で治せるかもしれない」という情報が王宮に漏れる。
両王子派が誠を取り込もうと動く中、誠は難しい選択を迫られる。
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