15.王の病と現代医学
国王の容態が悪化しているという噂は、王都の商業区域にも流れてきていた。
噂というのは不思議なもので、誰が最初に言い出したかわからないのに、気づけば全員が知っている。宿屋の主人が「王宮の食料納品業者から聞いた」と言い、薬草商が「王宮に出入りする医師の弟子が漏らした」と言い、ギルドの窓口でも商人たちがひそひそ話していた。
誠がその話を最初に聞いたのは、ミラからだった。
「王宮の中の話なので確かめにくいんですが、複数のルートから同じ話が来ています。国王陛下が先月から床に臥せっていて、王宮の医師団が手を尽くしても回復しないと」
「病名はわかりますか」
「高熱が続いて、食事が取れない状態だと聞いています。王宮の医師団は『体内の悪い気が暴れている』と言っているそうです」
体内の悪い気。この世界の医学的な表現だろう。
誠は少し考えた。高熱が続いて食事が取れない。それだけでは何とも言えないが、細菌性の感染症であれば現代の抗生物質が効く可能性がある。
ただし、手を出すかどうかは別問題だ。
◆
エレナの屋敷に向かうと、エレナが待っていたように出てきた。
「聞きましたか」
「ミラさんから聞きました」
「実は昨日、王宮から連絡がありました」
「誰からですか」
「レイン殿下の使いです。内容は……田中さんに相談したいことがあると」
誠は少し間を置いた。
「国王の件ですか」
「おそらく。ただし使いの者は何も言いませんでした」
「いつ会うんですか」
「明日の朝、また人払いした上での面会です」
「わかりました」
エレナが誠を見た。
「田中さん、あなたは何か対処できると思っていますか」
「わかりません。症状の詳細を聞かないと」
「でも、可能性はあると思っているんですね」
誠は少し考えた。エレナは賢い。曖昧な答えをしても看破される。
「東の地方では、高熱に効く薬があります。全ての病気に効くわけではないですが、試す価値がある場合もあります」
エレナがしばらく誠を見た。
「……あなたの東の地方というのは、本当に不思議なところですね。石鹸、光る道具、契約書の概念、帳簿の知識、そして高熱の薬まである」
「色々なものが発達している地方です」
「……発達している、という言い方をするんですね」
「他に言い方がわからないので」
エレナが小さく息を吐いた。疑問は持っているが、それ以上は踏み込まない。エレナらしい判断だ。
「明日の面会、同席しますか」
「した方がいいですか」
「王宮の内部では、私がいた方が話が通りやすい部分があります。ただし、これは田中さんの判断で」
「同席をお願いします」
エレナが頷いた。
◆
翌朝、王宮の書斎でレインと向き合った。
今日のレインはいつもより疲れた顔をしていた。笑顔は作っているが、目の下に影がある。
「来てくれてありがとうございます」
「お呼びいただいたので」
「単刀直入に話します。父上の容態が芳しくありません。王宮の医師団は『しばらく安静にすれば回復する』と言っていますが、私には楽観しすぎているように見えます」
「具体的な症状を教えてもらえますか」
レインが少し驚いた顔をした。おそらく、もっと遠回しな会話になると予想していたのだろう。
「二週間ほど前から高熱が続いています。一時下がったかと思うとまた上がる。食欲がなく、体重が落ちています。咳も出ていて、体の節々が痛むと言っています」
誠は頭の中で症状を整理した。
発熱の繰り返し、食欲不振、体重減少、咳、関節痛。複数の可能性がある。細菌性の感染症、あるいはマラリアに似た何か、または結核に近い疾患。
どれに当てはまるかは、実際に診ないとわからない。
「陛下に直接会えますか」
今度はレインだけでなく、エレナも少し驚いた顔をした。
「……医師でもない商人が、国王に直接会うことは」
「では症状をもう少し詳しく教えてください。熱の出方、せきの種類、体の痛みの場所」
レインが記憶を辿るように話した。誠はスマホのメモに打ち込んでいく。
レインの目が、誠の手元の板に向いた。
「その道具は……何ですか」
「東の地方から持ってきた品物です。文字を書き留めておける道具です」
「魔力を感じませんが」
「魔力は使っていません。東の地方の技術です」
レインが少し目を細めた。興味深そうだが、深くは聞かなかった。今は国王の話が優先だという判断だろう。
誠はメモを確認しながら言った。
「一つ確認させてください。陛下は最近、どこかに行かれましたか。遠出、または普段と違う食事や水を取る機会があったかどうか」
「先月、北の領地への視察がありました。三日間の旅です。その後から体調が崩れ始めたと聞いています」
旅先での感染。可能性が一つに絞られてきた。
「水はどうでしたか」
「旅先の水は、現地のものを使ったはずです」
誠は少し考えた。
旅先の水からの感染、発熱の繰り返し、消化器症状。腸チフスか、あるいはそれに近い感染症の可能性がある。だとすれば、抗生物質が有効だ。
ただし、確信はない。
「レイン殿下、一つ正直に話させてください」
「どうぞ」
「私は医師ではありません。東の地方には、熱を下げる薬と、体内の悪い菌を退治する薬があります。症状を聞く限り、効果がある可能性はあります。しかし確実ではない。使っても効かない場合もあるし、稀に体に合わない場合もあります」
「リスクがあるということですか」
「あります。ただし、今の状態が続けば陛下の体への負担は増える一方です。試す価値があるかどうかは、殿下が判断することです」
レインがしばらく黙っていた。
エレナが小声で言った。
「レイン殿下、田中さんの商品の品質は私が保証できます。石鹸も薬品も、効果は本物です」
レインが誠を見た。
「……一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「あなたはなぜ、こんなに詳しいんですか。医学的な知識まで持っている商人というのは、聞いたことがない」
「東の地方では、商人は幅広い知識を持つことが求められます。薬の知識がなければ、薬を適切に売れないので」
「……なるほど」
レインが納得したかどうかはわからない。しかし今は国王の件が優先だ。
「わかりました。試してみてください」
◆
翌日、誠は現代のドラッグストアで解熱剤と、医師に処方される抗生物質に近い成分を含む市販薬を調べた。
市販薬で対応できる範囲には限界がある。本来であれば医師の診断と処方薬が必要な症状だ。しかし異世界に現代医療は存在しない。
誠はドラッグストアで手に入る範囲の薬を複数購入した。解熱鎮痛剤、整腸剤、ビタミン剤、経口補水液のパウダー。
それと、ネットで腸チフスの症状と対処法を調べた。確認したいことが一つあった。
腸チフスの場合、発熱が一定のパターンを取る。午前中に下がって午後から上がる、という傾向がある。レインが話した「一時下がったかと思うとまた上がる」という説明と一致する。
可能性は高い。しかし確定ではない。
誠はメモを取りながら、薬の使い方と注意事項を整理した。翻訳できるように、全部テキストにまとめる。
◆
王宮の侍医を通じて、薬を届けた。
直接国王に会うことはできなかった。それは予想していた。侍医に対して、誠は薬の使い方を丁寧に説明した。
「まず経口補水液から始めてください。食事が取れない状態が続くと、体が水分と塩分を失います。これを水に溶かして少しずつ飲んでもらう。量は一日にこのくらい」
侍医が怪訝な顔をしている。見慣れない粉末と錠剤を前に、半信半疑の様子だ。
「これは毒ではないですか」
「毒ではありません。私が先に飲んでみましょうか」
解熱剤を一錠、誠が自分で飲んだ。侍医が少し驚いた顔をした。
「……そういう意味ではなく」
「効果がないかもしれません。それは正直に言います。ただし体に害のあるものは入っていません。東の地方では広く使われている薬です」
侍医がレインを見た。レインが頷いた。
「試してみてください」
侍医が渋々という顔で薬を受け取った。
◆
三日後、レインから連絡が来た。
「父上の熱が下がり始めています。食欲も少し戻りました」
誠は少し息を吐いた。
効いた。少なくとも、症状は改善している。
ただし、ここからが重要だった。
完全に治癒させない。
これは冷たい判断に聞こえるかもしれないが、誠なりの計算だった。国王が完全に回復すれば、誠の薬の効果が証明される。それは両王子派が誠を「国王の命を握る存在」として取り込もうとする動機になる。
症状を安定させる、という着地点が最善だ。
誠はレインへの返答を慎重に書いた。
「改善しているとのこと、安心しました。ただし薬の効果には限界があります。このまま症状が安定しても、完全な回復には時間がかかります。無理をされないようお伝えください」
◆
その話が広まるのに、三日もかからなかった。
エレナが血相を変えて屋敷に来た。
「田中さん、困ったことになりました」
「何がありましたか」
「王宮の中で噂が広まっています。田中商会の商人が、国王の病を治す薬を持っているという話です」
「誰が広めましたか」
「侍医の関係者だと思われます。王宮の中で秘密を保つのは難しいので」
誠は少し目を閉じた。
予想はしていた。しかし広まるのが想定より速かった。
「第一王子と第二王子、両方から接触が来ると思いますか」
「もう来ています」
「両方から?」
「昨日の夜に第二王子派のケントから、今朝は第一王子の使いから。どちらも『陛下のためにさらに協力してほしい』という内容です」
ケントは不干渉の書面を交わしているが、国王の件となれば話が変わると判断したのだろう。
「エレナさん、どう対応しますか」
「それを田中さんに聞きに来たんです」
「私の立場は変わりません。どちらにも肩入れしない。薬の供給については、侍医を通じた医療上の判断に委ねる。政治的な取引には使わない」
「それを両方に伝えるんですか」
「同じ内容を同じタイミングで伝えます。片方だけに伝えると、もう片方が不信感を持ちます」
エレナが少し考えた。
「……理屈は通っています。でも両方を同時に扱うのは綱渡りです」
「わかっています。ただし、今この瞬間に片方についてしまうと、もう一方は永遠に敵になります。綱渡りの方がまだマシです」
エレナが誠を見た。
「田中さん、疲れませんか。そういう立場でいることが」
「疲れます」
「でも続けるんですね」
「逃げ場がある間は、続けます」
エレナが少し首を傾けた。
「その逃げ場というのは、いつか教えてもらえますか」
「いつか」
「いつか、ですね。わかりました」
エレナが立ち上がった。ドアに向かいながら、少し振り返った。
「田中さん、一つだけ言っていいですか」
「どうぞ」
「……無理しないでください」
それだけ言って、エレナは出ていった。
誠は少し呆気に取られた。
エレナが「無理しないで」と言うのは初めてだった。いつもは計算の話か、取引の話か、アドバイスだ。
それだけ状況が込み入ってきた、ということかもしれない。
◆
アリアに状況を報告しに行くと、アリアがすでに知っていた。
「国王の件、ギルドにも話が届いています」
「商人の間でも噂になっていますか」
「なっています。『田中商会が国王を治す薬を持っている』という話が、かなり尾ひれがついて広まっています」
「尾ひれというのは」
「『田中商会の商人は不死の薬を持っている』という話まで出ています」
不死の薬。誠は少し頭を抱えた。
「それは困りますね」
「火消しした方がいいと思います。不死の薬を持っている商人という認識が広まると、身の危険が増します。盗賊から狙われる可能性もありますし、権力者が強引に奪おうとする可能性もある」
アリアの指摘は的確だ。
「火消しの方法はありますか」
「ギルドを通じて、正式な声明を出すことができます。『田中商会は一般的な薬品を扱う商会であり、不死の薬の類は取り扱っていない』という内容で。ギルドが公式に出せば、信頼性があります」
「お願いできますか」
「書面を準備します」
アリアが書類を取り出しながら、少し声を低くした。
「田中さん、国王の件は本当に効果があったんですか」
「症状は改善しています」
「……どんな薬を使ったんですか」
「東の地方の薬です。詳しくは言えませんが、熱を下げる成分と、体の回復を助ける成分が入っています」
アリアがしばらく書類を見ていた。
「田中さん」
「はい」
「あなたの東の地方というのは、どんなところなんですか」
「どういう意味ですか」
「石鹸、光る道具、文字を記録できる板、熱を下げる薬……見たことも聞いたこともないものを、次々と持ってきます。どんな場所なのか、想像もつかなくて」
誠は少し考えた。
「色々なものが、こちらとは違う形で発展している地方です。魔法はないですが、その代わり別のやり方で同じことを実現しています」
「魔法のない地方があるんですか」
「あります。魔力がなくても、工夫次第でなんとかなるものです」
アリアがしばらく考えた。
「……不思議ですね」
「そうですか」
「でも、あなたを見ていると、そういう場所が本当にあるんだろうなという気がします」
「どうしてですか」
「あなたのやり方が、この王都の誰とも違うから。外から来た人間だということは、最初から感じていました。ただ、どこから来たのかが、どうしても想像できなくて」
誠はアリアを見た。
アリアは疑っているわけではない。ただ、純粋に不思議がっている。自分たちの世界の常識で、誠という存在を理解しようとしている。
「いつか話せる時に話します」
「また『いつか』ですね」
「エレナさんにも同じことを言いました」
アリアが少し目を細めた。
「……そうですか」
何かを考えている顔だったが、それ以上は聞かなかった。
書面の準備を続けながら、アリアが言った。
「声明文、今日中に出します。あと、田中さん」
「はい」
「国王の件は、あまり深入りしない方がいいと思います」
「理由は」
「王位継承の問題と絡まると、商人としての立場が危うくなります。国王の命に関わる存在として見られ始めると、商売の自由がなくなります」
誠はアリアを見た。
「アリアさんはいつも、的確なことを言いますね」
「……規定を覚えていると、物事の構造が見えやすくなります」
「それだけじゃないと思いますが」
アリアが視線を落とした。
「書面の準備をします」
「ありがとうございます」
誠はギルドを出た。
外は昼過ぎの日差しが強かった。石畳が白く光っている。
アリアの言う通りだ。国王の件には深入りしない。症状を安定させた段階で、後は侍医に任せる。薬の追加供給は求められれば応じるが、政治的な取引には使わない。
GATEを確認する。クールタイム残り一時間。
今日は現代に帰って、さやかとご飯を食べる約束があった。
前に「今度、話す」と約束した。副業の話を、少しだけ。
どこまで話すか、まだ決めていない。
ただ、さやかには少しだけ、本当のことを話してもいいかもしれないという気持ちが、最近少しずつ大きくなっていた。
◆
現代、荒川区の定食屋。
さやかが向かいに座って、生姜焼き定食を頼んでいた。
「で、副業の話、聞かせてもらえるんですか」
「少しだけ、と言いましたよ」
「少しだけでいいです」
誠は少し考えた。
「海外との取引をしています。向こうでは珍しい日本の日用品を売っています」
「日用品って、例えば?」
「石鹸とか、薬とか、ライターとか」
「ライター……」
「向こうでは火を簡単につける道具がないので、高く売れます」
「へえ。どの国ですか」
「……あまり知られていない地域です。遠いところです」
「飛行機で行くんですか」
誠は少し間を置いた。
「……行き来は、特殊な方法です。それはまだ言えないです」
さやかが誠を見た。
「特殊な方法って、何ですか」
「いつか話します」
「また『いつか』」
「もう少し待ってください」
さやかが少しだけ唇を尖らせた。しかしすぐに表情を戻した。
「まあ、田中さんが言えないって言うなら、そういう事情があるんでしょうね」
「ありがとうございます」
「でも、危ないことじゃないですよね」
「危ないことは……まあ、少しはあります」
「少し、ですか」
「なんとかなっています」
さやかが少し黙った。
「田中さん、本当に大丈夫なんですか。なんか最近、色々と抱えているように見えて」
「抱えています、色々と」
「一人で抱えすぎじゃないですか」
「ガルドさんとミラさんとエレナさんとアリアさんがいます」
「誰ですか、その人たち」
「現地で信頼できる人たちです」
さやかが少し安心したような顔をした。
「そっか。一人じゃないなら、よかった」
「一人だったら、とっくに逃げていました」
「逃げないのは、その人たちがいるからですか」
誠は少し考えた。
「……そうかもしれません」
さやかが生姜焼きを一口食べた。
「田中さん、その人たち、大切にしてくださいね」
「はい」
「約束ですよ」
「約束します」
定食屋の外は、普通の夕方の荒川区だった。交差点の信号が変わって、自転車が通り過ぎる。コンビニの明かりが灯る。
誠はお茶を飲みながら、少し遠くを見た。
今日、異世界で起きていること。国王の病。両王子の思惑。教会の動き。ギルドの改革。エレナの家の財政。
全部、ここからは見えない。
でも、確かにある。
それが今の田中誠の世界だった。
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次話予告:第16話「さやか襲来」
さやかが誠のアパートを訪ねる。
偶然目にしたスマホの画面。
「田中さん、これ……何ですか」
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