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ことば湯、ひとしずく――道後の小さな宿に、言えなかった想いを置いていく  作者: 明石竜


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第一章 帰る場所の湯の匂い

 道後温泉駅を出ると、湯の匂いがした。

 ほんのり甘く、湿った空気にまじって、息を吸うたびに喉の奥へやわらかく落ちてくる。観光客の笑い声、からんと鳴る下駄の音、みやげもの屋の軒先に並んだ坊っちゃん団子や一六タルトの箱。 

道後温泉本館の屋根が、商店街の向こうに少しだけ見えた。その古い建物だけは、昔と同じ場所で町の真ん中に座っていた。見慣れていたはずの景色は、数年ぶりに戻ってきたわたしには、少しだけ明るすぎた。

 キャリーケースの取っ手を引く手に、じんわり汗がにじんでいた。

 四月の終わり。日差しはもう春のやわらかさを抜けかけていて、アーケードの外は思ったよりまぶしい。なのに、足どりはやけに鈍かった。

 帰ってきただけだ。

 それだけのことなのに、どうしてこんなに、うまく歩けないんだろう。

 道後の商店街を抜けた先、小さな坂を曲がると、見慣れた木の看板が見えた。ことの葉亭。祖母がひとりで切り盛りしている、小さな宿の名前だ。

 看板の文字を見た瞬間、胸の奥で、何かがかすかにほどけた。

 泣きたいわけじゃない。ほっとしただけだ。たぶん。きっと。でも、その「たぶん」が、今のわたしにはいちばん頼りなかった。

 菊間瓦を葺いた二階建ての建物は、派手さはないのに、昔からそこにあるものだけが持つ落ち着きをまとっていた。木の格子戸と白い壁、軒先にかかる小さなのれんまで、何も変わっていないように見えて、その変わらなさが今はありがたかった。 


「由良、よく来たね」

 玄関の引き戸をあけると、奥の帳場からおばあちゃんの声がした。

 山岡佳寿子。七十九歳。ことの葉亭の女将で、わたしの母方の祖母だ。小柄で、背筋が伸びていて、割烹着の上から帳場のカウンターに手をついているその姿は、子どものころから少しも変わっていない気がした。白い髪を後ろでまとめて、目尻の深いしわがやわらかく笑っている。

「お邪魔します」 

 そう言ってから、少しだけ迷った。

「……ただいま、の方がいいのかな」

 わたしがぼんやりと言うと、おばあちゃんは、そうね、とだけ答えた。

 ただいまを受け取りましたよ、という短い合図。それだけで十分で、それ以上を求められなかったことに、わたしは知らないうちに息を吐いていた。

「部屋、六号室にしておいたよ。一番奥の、小さい方」

「ありがとう。迷惑じゃなかった?」

「迷惑だったら呼ばないでしょう」

 おばあちゃんは帳場から出てきて、わたしのキャリーケースを引こうとした。あわてて手を遮ると、しわの深い手がひょいと引っ込む。

「ちゃんと眠れてる?」

「……うん、まあ」

「まあ、は、眠れてないってことだね」

 やっぱり、少しも変わっていなかった。おばあちゃんはわたしの曖昧な言葉を曖昧なまま受け取ることをしない。でも、そこから先を深追いしてくることも、ない。

 六号室は板の間に小さな縁側があって、窓の外に松の枝が見えた。宿のなかで一番こぢんまりしているが、静かで、落ち着いた部屋だ。子どものころ、ここで昼寝をしたことがあった気がして、でも記憶は曖昧で、夢と現実の境がどこかもよく分からない。

 キャリーケースを壁に立てかけ、畳の上に膝をおろすと、ようやく体から力が抜けた。

 東京のアパートを引き払ったのは、三日前だ。

 退職届を出してから二か月、ほとんど実家の自分の部屋で過ごしていた。お父さんは「少し休んだら次のこと考えればいいだろ」と短く言い、お母さんは何かと理由をつけて食事を部屋に持ってきた。気づかいだと分かっていても、その気づかいが少しだけ重かった。

 おばあちゃんに電話したのは、自分でも衝動的だと思う。「一か月だけ手伝わせてほしい」と言ったら、「いつでもいらっしゃい」と言われた。それで、来てしまった。

 次のことは、まだ何も決まっていない。

  

 宿の夕方は忙しい。

 夕食前に客室を回って不足がないか確かめ、温泉の準備を整え、食事の盛りつけを手伝う。脱衣籠の脇に、白い今治タオルをきれいに畳んで重ねる。厚すぎないのにやわらかくて、水気をよく吸うその手ざわりに、おばあちゃんが長く同じものを使っている理由が少し分かる気がした。

おばあちゃんはひとりでそれをこなしていたらしいが、わたしが加わったことで、少し動きに余裕ができたと言っていた。

 その日の宿泊客は三組。夫婦ひと組、一人旅の男性、それから道後観光に来た大学生の友人グループ。帳場でのチェックインの応対は、おばあちゃんがほとんどやってくれたが、わたしも横に立って、鍵を渡したり、温泉の時間を案内したりした。

「温泉本館はよく混みますが、宿の内湯もよろしければ」

「みかんのお菓子が部屋に置いてありますので」

「朝食は七時からでございます」

 言葉を口にするたびに、妙な感覚があった。声は落ち着いているのに、頭のどこかで、自分が仮の姿をしているような気がした。広告会社で担当者として話していたころと、どこが違うのだろう。形は似ているのに、何かが根本から違う。

 それが何なのかは、うまく言葉にできなかった。

 夕食の後片づけが終わり、客が温泉に向かう気配がした頃、おばあちゃんがわたしに湯飲みを差し出した。

白地に藍の模様が入った砥部焼の湯飲みだった。

子どものころから見慣れていたはずなのに、久しぶりに手に取ると、少し厚みのある手ざわりが妙に落ち着いた。

「ちょっと帳場に来て」

 ほうじ茶が入っていた。香ばしい湯気が鼻先をくすぐる。宿の帳場は小さな木のカウンターで、後ろには棚と、予約帳と、古い写真が一枚だけかかっている。

 わたしが腰掛けると、おばあちゃんはカウンターの脇に手を伸ばして、古びたノートを一冊取り出した。

 表紙は薄い緑で、端が少し黒ずんでいる。タイトルも何もない。ただ、使い込まれた年数だけが表紙ににじんでいるような、そういうノートだ。

「ことば帳、って言ってるのよ。帳場に置いてあるの」

「ことば帳」

「宿泊客が書き残していくの。俳句でも、日記でも、ひとことでも。書きたい人が書いて、読みたい人が読む。強制じゃない。義務でもない。ただ置いてあるだけ」

 おばあちゃんはそれだけ言って、ノートをカウンターに置いた。開かなかった。説明を続けなかった。

  

 その夜、わたしは六号室の布団の上で、少しだけ迷った末に、ことば帳を手に取っていた。

 おばあちゃんが置いたままにしていったのは、見ていいということだったと思う。黙って持ち出したが、それも暗黙の許可のうちだと信じることにした。

 最初のページは、インクの薄い万年筆の字だった。

 年号は書かれていない。筆跡から察するに、かなり前のものだと思った。


 言えなかったことは、消えたことにはならない。


 それだけだった。前後も、署名も、何もない。

 短い一文なのに、読んだ瞬間、息が詰まるような感覚があった。

 誰が書いたのだろう、とは思わなかった。それよりも先に、じわりと何かが広がってきた。喉のあたりで固まっていた、形のない何かが。

 わたしには、何があるだろう。

 退職の理由を、本当の言葉で誰かに話したことがない。「合わなかった」「疲れた」「少し休みたかった」。そういう言葉だけで済ませてきた。お父さんにも、お母さんにも、仲の良かった同僚にも。

 本当は、どこかの夜に、うまく息が吸えなくなった。どこかの朝に、駅のホームで足が動かなくなった。画面の向こうで、誰かが何度も修正を求めていた。悪意のある言葉ではなかった。ただ、急いでいる声と、すみませんを繰り返す自分の声だけが、夜遅いオフィスに残っていた。

その日から、メールの通知音を聞くだけで、胸の奥が硬くなるようになった。それが何度も続いて、ある日ふっと糸が切れるみたいに、もう行けなくなった。

 でもそれを話したことはない。

 話す言葉が分からなかったのか、話す気力がなかったのか、あるいは、話してしまったら本当に壊れてしまう気がして怖かったのか。

 たぶん、全部が少しずつ本当で、全部が少しだけ言い訳だった。

 ページをめくると、また別の字が現れた。今度はボールペンで、丸みのある、若い人の字だった。


 何度来ても、ここのお湯はやっぱり好きです。また来ます。

 

その次のページは、硬い楷書で一行。


 旅に出る理由は、帰る場所があるからだと思う。


 もう少し先のページには、鉛筆で薄く、消えかかっているが、


 泣いてもいい場所を、ありがとう。


 と書いてあった。

 わたしは布団の上で体育座りをしたまま、しばらく動かなかった。

 誰かの言葉が、こんな小さなノートの中で重なっていた。自分の名前も、理由も書かずに、ただそこに置いていかれた言葉たち。それが何十年分も重なって、このノートの重さになっている。

 宿に泊まって、お湯につかって、ご飯を食べて、眠る。それだけのことをした人たちが、帰る前にここへ何かを置いていった。誰かに読まれるとも分からないままに。

 それって、どういう気持ちだったんだろう、と思った。

 言えなかったことを、誰かに宛てずに書く。それだけで、少し軽くなったりするものなのだろうか。

  

 翌朝、目が覚めると窓の外が白んでいた。松の枝の向こうに、薄い空の色が広がっている。道後の朝は早く、町が動き出す前に静けさが深くなる時間がある。

 布団から出て縁側に腰かけると、どこか遠くから路面電車の音がした。がたんと揺れるような、あの独特の音。子どものころは当たり前すぎて気にも留めなかったが、数年ぶりに聞くと妙に懐かしかった。

 松山を出た理由は、あった。

 地元に残ることへの、はっきりしない焦りのようなものだ。大学進学で県外に出て、就職でそのまま東京に残った。地元に戻ることは「諦めた人がするもの」だと、明確に考えていたわけじゃないけれど、どこかでそう感じていた部分はあったと思う。

 その結果がこれだ、と思うと、笑えるような、笑えないような気持ちになった。

 帰ってきた。諦めたから、ではなくて、壊れてしまったから。でも、その違いを自分の中でうまく整理できていない。帰郷と敗走が、まだわたしの中で切り分けられていない。

 朝の光が縁側に差し込んできた。

 よく晴れそうだ、と思った。それだけのことなのに、少しだけ心が軽くなった。昨夜のことば帳の一文が、頭の隅に残っていた。

 言えなかったことは、消えたことにはならない。

 消えない。だとしたら、どうすればいいのだろう。

 まだ分からない。でも、ここに来てよかったという気持ちが、今朝初めてすこしだけ、本当に感じられた気がした。

 廊下から、おばあちゃんの足音がした。朝の仕事が始まる音だ。

 わたしは立ち上がって、着替えを引っぱり出した。一か月。そのあとのことは、まだ何も分からない。でも今日の分は、今日動けばいい。

 それくらいのことは、できるかもしれなかった。


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