7.音と人の結晶
学校の敷地に足を踏み入れたとき、誰もわざわざこちらを見なかった。
教室に入ったとき、誰も昨日のことに触れなかった。
いつもより少し早く家を出たから、学校に到着するのが早かっただけかもしれない。
相変わらず私は、教室に入ってすぐ、このちゃんの机へ向かう。今日は珍しく、本を読んでいない。まだ、登校して間もないのか、色々と準備中だ。バッグの中から荷物を取り出している。
「おはよ、このちゃん」
「千紋おはよう」
朝、おはようって挨拶を交わすことができる。嬉しい。なんだか、本当に久しぶりだ。一旦、私は自分の席へ向かう。一番窓側の列、前から四番目。隣の男子はまだいない。
ゆっくりと教室を見回してみる。
目が合った紺ちゃんは微笑みかけてくれる。彼女の机の上には、たくさん小さな紙が置かれていた。よく見るとそれらは、色々なラーメン屋のクーポンのようだ。彼女の前の席に座るクラスメイトが「なにそれー」と興味津々な様子で話しかける。そんな彼女に紺ちゃんはコレクションの中から一枚渡す。味玉無料券らしい。得意げな顔でラーメントークを繰り広げる彼女に私も後で何か貰っちゃおうかな。
良大君はたった今、教室後ろのドアからこの場所へ入ってきた。目を擦っている。あ、あくびまで。たぶん彼は朝弱い。私も強いとは言えないし、大体皆、朝は弱いものだと思う。さて、自分の席に着いて、どうするんだろう。って、秒で伏せたーーー! 本当に寝ていないんじゃないかと、勝手に心配になる。
夢亜たちはどうだろう。
わざわざ見るまでもなかった。今日も楽しそうにうるさい。ナンバーツーの子、リツカも楽しそうに話している。うんうん、元通りって感じ。
準備を終えると、私は再びこのちゃんの席へ向かう。彼女もまた、机の上に本を出しているから、準備完了ってわけだ。
「こーのちゃんっ、何読んでるのー?」
「……じゃじゃーん」
口角を上げながら彼女は本を顔の前に出して見せる。一週間前に図書室で借りていた本とは違う。でも、作者の名前を見て、私は勝手に喜んだ。私が唯一、ハードカバーで集めている作家の最新作。
「新作だー! 買ったの?」
「この前の日曜日にたまたま見つけたから読んでみようかなって思って。この人の本、面白かったし」
「うん、私も好き。今度買おーっと」
以前の私は、堂々とその作家が好きだと言えなかった。そういう本を読むタイプじゃないって勝手に自分自身にレッテルを張っていたから。今でも、その作家の本を読む自分に対して、完全に納得しているのかはわからない。でも、多少の心の騒めきくらい、今この瞬間は無視していい。
「はーい、席に着いてー」
担任の先生が教室前方のドアを開け、教室に入ってくる。私は自分の席へと戻った。隣の席には野球部の彼がいる。何してたんだろう。今の私の視界には、彼もちゃんと入っている。
朝のホームルームが始まった。先生がいつも通り、連絡事項を伝えていく。人差し指を立てながら言った。
「一点、連絡です。えー、SNSで本校生徒の動画が流れて、色々と問題になっていると、外部の方から連絡がありました。皆さんどうですか? 周りの人のプライバシーに配慮した投稿になっていますか? 今一度、投稿する前によく考えるようにしてください。一度ネットに流れた情報は、そうそう消えません。誰かが傷ついてからでは遅いし、教師がそこに介入するのはすごく難しいです」
今更ではあるけれど、どうやらしっかりと問題になっていた。もう一週間も前に発生したのに、学校で情報として解禁されるのは遅すぎる。既に皆知っている話だ。
でも、改めて注意喚起されて思う。聞き飽きた話だけれども、聞かされないよりはずっとマシだということ。
何度も言われて、めんどいなって思うのは皆そうだと思うけれど、言われていないと忘れちゃうってのも多くの人に当てはまるんじゃないかな。
「今回、このクラスの生徒ではなかったけども、他校の生徒とバイトテロ動画を出した生徒がいて問題になりました。その生徒はとても反省しているようですが、正直、今後どうなるのかはわかりません」
「え?」
声に出てしまった。隣の男子が、「海本?」と不思議そうに囁いた。え? だって、そんなの。え?
理解が追い付かない。てっきり、私のことについて話しているのかと思っていた。偶然なんだろうけど、そんな、私たちの小さな事件よりも、もっと重大なのがこの学校で起こっていたなんて。
でも、これでわかった。【ワイヤレススピーカー少女】の動画は、正直誰も傷つけない。私が助けを求めない限り、問題にされる内容じゃなかったってこと。
「はい、じゃあ一限目の準備してー」
呆気に取られているうちに、ホームルームは終了。授業が始まるまで残り数分ある。
「なあ、海本」
目のクマがすっかり消滅した、健康体そのものの彼。もう声をかけてこないんじゃないかと勝手に思っていた。しかし、顔を見ると、今日も何かを探求するための目をしている。
「ん? どうしたの?」
「一昨日はすまん。出尾に渡されたんだけど、あれ、海本の物だったんだな。やっぱりお前が」
このちゃんが渡したんだ。なるほど、直接渡しにくかったから彼に。
二日前はその後まで言わなかった。この人もまた、今更【ワイヤレススピーカー少女】の件を…………
「最高に素晴らしいミュージックを教えてくれそうだ」
「ほぇ?」
な、何それ。戸惑いが隠せるはずもなく。え? んん? んー、え? えーーーーーーっ!
あ、彼は話し出そうとしている。また私を置いていくつもりだ。ちょっと、待ったーーー!
「いいか? 授業が始まるまでに時間がない。よく聞いてくれ。これはあくまでも俺調べなんだ。ソースは俺。だから信頼できると思うんだが、それは置いておいて」
「ちょちょちょちょっと」
私のことなんてお構いなし。少々ペースアップ。
「そのイヤホン持ってる奴って大体、めっちゃ音楽好きなんだよ! ほら、うちのクラスのあいつもあいつも、あー、それと、あいつも使ってる! で、なんと漏れなく俺にとってスーパークリティカルヒットな曲を紹介してくれたんだ! 自主練のときとかに聞いて、テンション上げたり、しんみりしたり! いやぁーまじで助かってるんだよ。だからさ、海本も教えてくれよ~おすすめの曲をよぉ!」
キーンコーンカーンコーン、チャイムが、鳴った。
悔しそうな彼は小声で、「頼むまじで後で教えてくれぇ」とメモ帳を渡しながら懇願してきた。そこまで言われては、断りにくい。
私は授業中、少々悩んだ。でも、昨日までのものとは違う。音楽を通してではあるけれど、自分の内面を多少なりとも晒す緊張感は拭えない。でも、楽しさも兼ね備えた贅沢な悩み。
隣の席の彼はとても変な人だなと思う。でも、別に嫌悪感はない。そんな相手に、自分の特に好きな曲だけで固めたおすすめを紹介するのはまだまだハードルが高く、無難に皆好きそうな曲に紛れ込ませる感じで真のおすすめを入れようとした。でも、それでは私に訊く意味もないか、と腹をくくって、割合を逆転させる。よし、もうどうにでもなってしまえ。
メモ帳に幾つか曲名を書き書き。
休み時間になったところで、彼に返してあげた。「まじでほんとにあざす!」と言いながら受け取った彼は、嬉しそうにそのメモ帳を鞄にしまった。誰かが喜ぶ姿は好きだ。
久々に、一日が平和に進んでいく。そして、平和なまま、授業時間は終わった。授業でやったことは復習しなければ忘れるし、一時間の授業で大きく何かが身に付いたという実感はほとんどその時間内でのみ感じられるもので、よほど面白い内容じゃないと記憶から消えてしまう。
じゃあ今日一日、いや毎日の学校生活で私は何を学んでいるのか。それはきっと、人を知ることだろう。小学生の頃から高校生の今まで。わざわざ学校に来る意味って結局それなんだろうなと感じた。
放課後、私は言われた通り、あの場所へ向かう。隣に紺ちゃん。二人で階段を上って行った。
見慣れた「準備室」の文字が目に入る。鍵も開いているし、既に中に彼はいる。ノック、した方がいいかな。
「失礼しまーす!」
ちょっと。待てができない人多すぎない? 心の準備をさせてくれる人間が少なすぎる。紺ちゃん、ちょっと待ってほしかった。言葉にして伝えると、「ごめん」と素直に謝られたので許す。
狭い部屋に三人。紺ちゃんは「わー、狭い」と当然の反応。心なしか、以前よりも埃っぽくないのは、彼が掃除でもしたのだろうか。
いつも通り、彼は古いノートパソコンを開いて、向き合っている。私は、後ろから声をかけた。
「動画の件、解決できてよかった。良大君が手伝ってくれて本当に助かったよ」
「ああ、よかった」
彼はそこで初めてこちらを向く。淡々としている。ちょっと冷たい。こんな態度されたら、それはリツカだって怒って当然かも。私は心が広いので許してあげよう。…………手伝ってもらっておいて何様なんだ。
「私、正直、言いにくいことでも何でも素直に本心を言える君が羨ましかった。もっと自分のこと、言っても良いって皆が言ってくれたから…………だから、これからは良大君みたいに」
「うみち、ちょっとストーップ」
突然話を遮られる。思わず私は首を傾げた。でも彼女の顔を見てすぐに察した。ちょっぴり赤い。紺ちゃん、勘違いだよ。別に何もないって言ったじゃん。
「い、一旦外出てるから! 話終わったら教えて」
慌てて外に飛び出していったけれど、扉が少しだけ開いている。その隙間からこちらを覗く目に私が気づかないとでも?
コホン。気を取り直して。
「良大君みたいに、もっと自分のことを伝えられるようになろうと思う」
「そうか…………それは頑張って。でもさ」
一度ため息をついた後、彼が言った。
「僕だって本当のことばかり言っていないよ」
それを聞いて、再び首を傾げる私。彼が本当のことを言っていない? それは俄かに信じ難い告白だった。
「そんなことないよ…………だって、良大君は正直に自分のことを話してくれたじゃん。何でもワイヤレススピーカーにする発明がしたいとか、お姉さんが映像解析趣味だとか、探偵ごっこに憧れてるとか。私だったら自分から言い出せない。あ、それは良大君のことを馬鹿にしてるとかじゃなくて」
「うん、それは知ってる。でも、僕は本当のことを言っていない」
「それは、どういうこと?」
私は怪訝そうな顔で彼を見る。彼は何も悪びれる様子もなく言った。
「だから本当じゃないんだ。嘘だよ。最後のやつ以外は、完全に作り話。そんな発明しようと思ってないし、姉なんていない」
「はあ? どうしてそんな、嘘を言う必要が」
そんな馬鹿な。理解できなかった。まだ一度も彼のことを理解できていないことに、少し焦りを覚える。
「どうしてだろうねー。今回の件を解決したいと思った気持ちに偽りはないよ。役に立ちたいと思ったのも本当だし。ただね、海本さんが真面目過ぎるだけだとは思う」
「真面目過ぎるって…………どういう」
「そういうところかな。すぐに答えを知りたくなってしまうところ。今までの君は答えを聞くことができなかったかもしれないけれど、内心いつも答えを求めているのは見えていたよ。別に悪いことじゃないと思うけど、何も、全てが正しくなくてもいいのかなと僕は思う」
すぐに答えが知りたくなる。相手の反応をつい気にしてしまう私は、確かにいつも相手からの答えを急いでいた。ついでにその答えが、私にとって都合のいいものであることばかり願ってしまう。自分勝手だ。
そんな私に比べて、彼はずっと誠実で、時間をかけて答えに辿り着こうとすることができて、諦めたり自分に負けたりもしなくて。私には、そんな人に見える。
でも、それらはあくまでも私の持っていたイメージに過ぎなかった。
「僕はかなりの嘘つきかもしれない。正直、本当のことをありのまま伝えるのは得意じゃないから偽ってる。でも、大切なところだけは曲げずに残して、それを目一杯脚色してるだけ。だから、全部言う必要なんてないと思う。一番大切にしたいところさえ揺らがなければ、あとは自分を守るためにでも、他人を傷つけないためにでも、勝手に虚言で味付けしてもいいと思ってるってわけ」
良大君が話してくれた本当の彼は、彼自身しか知らないものだった。彼が、本当のことを言ったのかどうか、もう私には判別できない。ただ、私には彼の真実に見えたのだ。もうそれでいいのだろう。
「そんなのでいいのかな…………」
「海本さんは、僕の嘘に傷ついた?」
「全然。でもやっぱり、ちょっとは拍子抜けしたっていうか」
「じゃあ良いってことだよ。今のも僕が言わなければ知り得なかったことだし。でも、やっぱり自分に嘘つくのがきついってんなら、偽りで隠す必要もない。相手のジョークはほどほどに捉えて、その内の本心を探れるようになれたらいいよな。ま、むずいから、嘘でもなんでも信じちゃうんだろうけどね」
「はぁ…………なるほど」
「こういう俺の言葉も全部口先だけかもしれないし」
結局、よくわからないってことがよくわかった。でも、それでいい。自分にとって外せないことを言いたいときに言う。何かで隠しても隠さなくてもいい。それが、私にとっては今までよりも少しだけ自分を開示していくことに繋がるだけだ。もう今朝の時点で少しわかっていた。
「さて、そろそろいいかな。あの動画をネット上から抹消する準備は整った。入ってきていいよ、宮重紺さん」
入口がゆっくり開く。「ぐぬぬぬ…………」と唸りながら紺ちゃんが再び入室。私たちの話がよくわからなかったに違いない。目を細めながらまだ「むむむ」と唸っている。
これで役者は揃った、のかな。
「それと、木乃香も」
振り返ると、このちゃんが入口の前に立っている。さらさらとした髪が廊下の窓の隙間から吹いた風によってふわりと揺れていた。彼女は口を噤んでいる。突然現れた彼女を前にして、私はどんな顔をしていたのだろう。一番最初に私の心を支えてくれた友達。彼女なしでは、ここまで辿り着けなかった。それに、このちゃんは、良大君の助けを良しとしていなかった。私は彼女との約束を破ってしまったわけだ。
今、このちゃんはどんな思いでそこに立っているのか。考えれば考えるほど、私の心は苦しめられた。今朝は何事もなかったかのように接してしまっていたけれど、私は肝心なことを忘れていた。謝らなきゃいけない。どんな理由であっても、裏切ったという事実は軋轢を生んだはずだ。
彼女の方へ歩み寄る。
俯いていては駄目だとわかっていたから、しっかりと顔を見て。言葉がつっかえている喉から音を振り絞って。でも、言葉を伝えるまで前を向き続けられず、頭を下げた。
「ごめんね」
声が重なった。一つは私。もう一つは。
思わず顔を上げる。見ると、涙目になっているこのちゃんの顔があった。何も言えずにいる私に、彼女は声を震わせながら言う。
「イヤホン取ったの私………………………………ごめん、私、裏切者、なんだ…………」
彼女の目から涙が落ちる。ボロボロと落ちていく。私の後ろにいる二人は黙って私たちの様子を見守っている。
「言い出せなかった…………私、自分勝手で、あのイヤホンなら、千紋が…………」
途切れ途切れに紡がれる言葉。人前で泣くことができるのは、それだけ私たちのことを本当に信頼しているからだと思う。私は以前隠れてしまったけれど、彼女の心はきっと強いから。
「……………千紋が、もっと…………千紋自身を話してくれるって、思ったから……………………」
私は涙が耐えられなくなって、彼女を抱きしめていた。約束を破り、信頼を捨てる可能性があっても、友達として必死に私のことを知ろうとしてくれていた。なのに、それなのに、私は酷い。最初から見えないようにして、嘘をついてまで隠して。このちゃんに対して申し訳なくて、自分に対して許せなくて、悔しくて涙が溢れた。自分の愚かさを痛感して、爆発しそうだった。
「ごめん……………………本当に、ごめんね……………………」
本当はもっと、ちゃんと、何に対して謝っているのか説明しないといけなかったはずだ。でも、今は「ごめん」の文字だけを繰り返すだけで、それが私たちの全てだった。
彼女の行動は良いとは言えない。でも、悪意から起こした行動じゃない。それがわかっているからより一層辛い。私のミスだった。ミスなんて軽い音の言葉では表しきれないほど、重大な選択間違い。それに今更でも気づくことができたのだから、私にとって今日という日は大切な転換点になっただろう。
私にとっては、もうそれで終わりでよかった。
だというのに、このちゃんは私の謝罪を拒んで、あまつさえ、自分が全て悪いのだと言い出した。
「千紋は何も、悪くなくて…………千紋が泣くなんて、千紋を泣かせるなんて……全部私が始めた話なのに」
「そんなことないよ、私だってこのちゃんを裏切って………」
「違う!」
突然声を荒げたこのちゃんに驚く。私の背後にいる二人も息を吞む音が聞こえた気がする。ただでさえ静かな室内がより一層静寂に包まれた。
「………私が悪かったのに。それなのに今日も千紋は優しく話しかけてくれた………それがどうにも苦しくて。本当はね、千紋。最初から【ワイヤレススピーカー少女】になる必要なんてなかったんだよ?」
「木乃香、それってどういうことなんだ?」
背後から良大君の声がした。もう我慢できないとばかりに口を挟んできたようだ。彼の問いに、このちゃんは流れる涙を拭いながら答える。
「私が、千紋を【ワイヤレススピーカー少女】にした、の」
一同は言葉を失う。一体どのような手段で? という疑問が頭に浮かんだ。それはあとの二人も同じだったようだ。
「木乃香ちゃんが、どうやってそんなことを?」
今度は紺ちゃんが問う。私の目からの涙は止まっていて、ただこのちゃんを見つめるしかない。数秒の沈黙の末、このちゃんは言った。
「千紋が自分のことを話してくれますように、って、お願い、したら、こうなった、の」
途切れ途切れになりながらも紡がれた言葉。もし、それが真実だとしたら、私は一種の魔法のようなものにかかってしまったのかもしれない。でも、そんな考えは良大君の現実的な一言に一蹴された。
「願うだけで叶うものなんてないよ。だからその願いには物的証拠があるはずだよ。海本さん、ちょっといいかな」
遠慮も躊躇いもなく、彼は私に近づいてきた。そして、無遠慮に髪を触ったり、顔を覗き込んだり、目や耳をじっと見たりしてきた。私は何が何だか理解できずその場で身動き取れずにいたし、一度は彼を止めようとした紺ちゃんもその成り行きをただじっと見つめている。
私は何をされているのかわからないけれど、心拍数が上がっていることだけは実感している。紺ちゃんの頬が少し赤らんでいることからしても、今この状況は恥ずかしいものなのだろう。
「最近美容室に行ったことは?」
「え、っと………ないかな」
「じゃあ、誰かに頭や顔を触られたりは?」
「ん………今、良大君が触った、くらい?」
なんだか事実を口にしたら余計に恥ずかしくなったのだけれど、彼本人は何の動揺も見せない。今更になって理解した。探偵気取りで遠慮せずこういう行動をするから、リツカのような勘違いを起こす被害者が出てしまうのだと。なるほど、これは重罪だ。
私の気持ちなんて何も考慮しない彼は、次の質問を出す。
「じゃあさ、最近病院に行ったことはある?」
「それは………」
一つだけ心当たりがあった。それは定期的に訪れている、歯科医院。このちゃんの親戚が営んでいる病院で、最近歯面清掃をしてもらったっけ。
そのことを伝えると、彼は答えを得て満足したように笑った。
「ははっ、これはラッキーだな。僕も君も、まとめて解決だな。さて、口を開けてくれ」
何もかも唐突すぎて、本当だったら人に口の中を見せるなんてしないはずなのに、言われるがまま口を開いていた。せめてもの救いは、私の歯はとても健全だったという点だ。
「まじか、凄いねこれ。ちょっと舌で右下の奥歯に触れてみてよ」
「うぅ? こうかな?」
舌先に冷たい感触がした。でも、舌でそれを外すことは出来なさそうだったので、一旦手洗い場へ行き、指で取れるか試みた。少し時間はかかったけれど、なんとか奥歯に入っていたものの正体と対面することができた。
「凄い………超小型だけど、これはスピーカーだよ」
「そんなものが………このちゃんはこれ知ってた?」
首を左右に振る様子からして、彼女も知らなかったようだ。
「これは僕がもらってもいいかな?」
そう言うと、彼は嬉々として小さな欠片程度の機械を受け取った。
やっと落ち着いた私たちに流れた涙は既に枯れて、ぐちゃぐちゃになった互いの顔を笑えるくらいにはなっていた。本当はもっと前にあるべきだった衝突なんだと思う。私が隠し続けたから今になってしまった。でも、これからもこのちゃんとの繋がりは消えないはず。そう思うと、すれ違ってしまった記憶もいつかまた、私たちを繋ぎ止める役割を果たしてくれるのではないかと感じた。
あとは待っていてくれた二人に、お礼を言って、今度こそ終わらせることを決意する。
「このボタンを押すだけで、綺麗さっぱり消滅するよ。さあどうぞ」
「それって、ほんとなの?」
良大君の単純な説明に、紺ちゃんが訊く。それに対して彼は「さあどうでしょう」と曖昧な返事をする。嘘つきだけど誠実な彼の言うことだ、これは本当かもしれないし、嘘かもしれない。確率フィフティフィフティ。
押してみればわかる話だ。私はノートパソコンの画面に表示されたボタンにカーソルを持っていく。そのボタンは、既に開かれていたSNSのタブに重なるように表示されている。そのため、例の動画を載せた投稿が見えて、そのコメント欄も目に入った。
『こんな偶然があるとは』
『この子、このコメント欄見てるかな。届いてるといいな!』
『おいおいマジかよ! ご本人降臨しちゃってる』
ご本人って私? 偶然目に入ったコメント欄が気になって、一度ボタンを押すのをやめる。代わりにコメント欄を遡って見てみた。そこには思いがけないコメントがあった。
『皆さんこんにちは』
その後に、名乗る。その名前は、数えきれないほどスマホの画面で目にしてきたもので、一瞬目を疑った。
『動画から聞こえた声が私だったので驚きました…ちょっとした運命も感じて』
落ち着いた優しい声で言葉が再生される。周りに人が居ることも忘れて、文章に見入ってしまう。彼女の言葉はまるで一人一人に囁きかけているようだ。
私の口から独りでに零れ落ちた、あの歌が。
『この動画で偶然出会ってくださったあなたにも寄り添っていますように…』
その言葉を目にして、この一週間の喜び、葛藤、後悔、それ以外にも。その全てが走馬灯のように駆け巡って、一週間前、あの電車の中で立っている、通学中の私に行き着く。
不本意ながら形として残った出来事。
でも、残ったからには意味があったんだと思えた。
彼女の音楽とコメントが、静かに、女神のように私を守ってくれる。寄り添ってくれる。だから、もう無理に消す必要のないことだってわかった。動画に映るのが誰かなんて、じっくり見なきゃわからないし、大多数の人間にとっては一生関わることのない赤の他人なわけだし。
私はパソコンから手を離した。不思議そうに私を見つめる紺ちゃん。このちゃんは静かに頷いて微笑んだ。
「あれ、押さないの?」
良大君からの質問に力強く頷いたとき、初めて紺ちゃんも理解したのか、パッと顔を輝かせた。彼はと言うと、ニヤリと笑っていた。
「そうか、じゃあもうこいつも必要ないな」
そう言って、段ボールの山から何かを取り出す。見るからに、本来ここにあるべきものではないような。
「ちょっと下がってて」
私たち三人をパソコンから離れさせると、彼は手に持っていた物を思い切りノートパソコンに叩き付けた。
ドガアアアアン……………………ガンッガンッガンッ…………
「は? 何してんの!」
紺ちゃんが叫ぶ。良大君は、右手に握った金槌で、学校の備品だというパソコンを叩き割った。今までの様々な違反が全てバレたとき、確実に退学になるのでは、と本気で思えてくる。
こんなことをしておきながら、平気な顔で彼は言った。
「もう海本さんは【ワイヤレススピーカー少女】でいる必要はないと思うよ」
「…………うん」
「ほら、スマホ出して。好きな曲でも再生してみなよ」
スマホを取り出す。どうしても、また私の口から音が出るのではないかと、少しだけ躊躇いもあった。でも、今は以前よりも怖気づいてしまうこともなく、その再生ボタンを押せた。
スマホ本体から曲が流れる。私が好きなアーティストの曲だ。私を守ってくれる、心強い歌だ。
「好い声だね。心に訴えかけてくるような。何て名前のアーティストなの?」
黙って聴いていた彼が、曲が終わってすぐに私に訊いてきた。このちゃんと紺ちゃんもこちらを見ている。二人はどう感じたんだろう。表情からは読み取りきれない思いがあるはずだ。あとで勇気を出して訊いてみようかな。
私はどこか誇らしげに、そして笑顔で、再生画面を彼らに見せる。もう隠す必要はないと判断した。
「めっちゃいいからよかったら聴いてみてよ」




