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6.錯綜爆発

 衝撃って、備えられるようなものだったのかな。

 どれほどたくさんの緩衝材を用意したところで、完全に相殺することは難しいエネルギー。そんなものに当てられて、少なからずダメージを負う、くらいのイメージで、教室に入ったのが馬鹿だった。

 いや、違う。学校の敷地内に足を踏み入れた瞬間から始まっていた。


「あの子が例の…………」


「あ、ほんとだ。学年は一つ下か」


「隣のクラスのあいつじゃん。あ、どう見てもマジなやつ」


「あははははははは」


「先輩にヤバい人がいるってー。あの人のことかな」


 誰も面と向かって何か言ってくるわけではなかった。でも、どれほど小さな声で話している声であっても聞こえてきてしまう。ただ意識しすぎていたのかもしれない。

 じわじわと私の心に侵食してくる不安の波は、教室に入ったときに明らかな形で襲い掛かってきた。


「千紋ー、やっぱあれ千紋じゃん!」


 ニマニマしながら声をかけてきたのは、夢亜、ではなく、いつも彼女の隣で偉そうな顔をしていた、例のナンバーツーの子。二日前、電車で見かけたときとは、天と地の差があるようなこのテンション。まるで、このときを待っていたかのよう。

 陰険なやり方で人を陥れようとしている、とかもなく、あまりにも悪意が見えすぎている。何も話すことはないので、無視した。夢亜はというと、教室にいないみたいだった。

 関係ない。私は、いつも通り。平常心、平常心。まっすぐこのちゃんの机へ近づいていく。今日も本を読んでいる彼女、いつもなら私が目の前に来て初めてこちらを見るはずなのに、机まで三歩手前のところで顔を上げ、一度こちらを見てから、気まずそうに下を向いてしまった。

 そうだ。私はこのちゃんとすれ違いを起こしたままだった。どうして、そんなことを見落としていたのか。でも、気づいたからには、今声をかけるべきではないと思い、彼女の机を通り越して、自分の席へ向かう。まずい、既に良大君の計画を破ってしまっている。

 教室に私の味方はいるのだろうか。

 誰もが私を好奇の目で見ている。そんな状況をまだ一週間も経っていないうちに経験した。あの不安感を再び味わう覚悟をしたはずだった。それなのに、いざ目の前にすると足がすくむ。

 妙に重い脚を無理やり引きずって自分の席へ辿り着く。

 息が上がっている。

 突如、視点が切り替わったかのように目に映る景色が一変する。

 あれ…………何でだろう……………………教室の、天井が見える。




 白くて四角い天井が目に入った。教室よりも綺麗な白色。

 頭の下には何やら柔らかい感触…………これは、枕か。

 段々、自分に何が起きたか理解できてきた。


「おはよう、やっと目覚めた」


 声の主の方に顔を向けて、息を吞んだ。最も聞きなじみがあるはずの声で、耳にすれば最も違和感を覚える声。


「…………な」


 それ以上は声が出ない。

 ここは恐らく保健室だ。学校内でベッドが用意されている場所と言えば、それしか考えつかない。カーテンで仕切られていて、幾つかベッドが並んでいるのを以前見た。

 ただ、今の私は声が出ないだけでなく、体も動かない。まるで金縛りのよう。

 ベッドの傍らに置かれた椅子に腰かけていた彼女は、椅子から立ち上がり、私に背を向けて、ベッドに座り直した。

 彼女は私の方を見ることなく、私に話しかけてくる。


「千紋って、何も言わないね。本音できちんと話したことある?」


「…………」


「あ、でもそれが悪いことかっていうと、そうでもないのかも。皆自分のこと聞いて欲しいじゃんね。だから千紋みたいなのがいつでも自分に合わせてくれたら、とっても楽っていうか。うーん、でも千紋にとっては無駄だからやめた方がいいと思うな」


「…………」


「信頼してくれている人だっているのに、何で隠してばかりなの? 大したことなんて何も隠してないじゃん。それ、全部皆に正直に伝えたところでなぁんにも変わんないんだよ。でも君は隠してばかり。ほんと、面白くないね。虫唾が走る」


 彼女は冷たい声で、私を切り捨てるように言う。体は動かないけれど、身震いした気がする。


「木乃香ちゃんも、紺ちゃんも、良大君も、野球部の彼も、夢亜も。みんな君と比べて、とてもはっきりしているのに。君だけ、千紋だけはいつも自分自身について、何一つはっきりしない。少しも本当のこと、言わない」


 かけられる声は私を非難するもので、冷たくて鋭い。


「何も言葉にしないなら、実体としての耳も目も口も要らない。それなら代わりに、私が使ってあげる」


 座っていた少女は、倒れている私に近づいて来る。なんとなくわかってはいた。でも、顔を覗き込まれて初めて、声の正体を確認することができてしまった。もやもやしていた感情の正体に気づいて、どこからか怒りさえ芽生える。体は動かないのに、心臓の鼓動は感じるし、冷や汗が流れたり、それが冷えたら悪寒がしたり。


「安心してよ。私が全部解決してあげるから」


 薄っすらと笑みを浮かべ、彼女は額を私の額に重ねた。ぞわぞわと、耐え難い不快感に襲われる。奪われる。私を動かすものが私でなくなってしまう。


「ねぇ…………やめて…………」


 微かに声が出せた。でも、彼女の耳には届いていても、届いていなくても変わらない。

 呼吸が荒くなってくる。止めないと、止めないと、止めてくれないと、止まらなければ、もう、私は。

 恐怖したとき、人は本心を叫ぶだろうか。助けてくれと大きな声で叫ぶのだろうか。今までずっと近くで潜んでいたのに、今日、こうして生まれて初めて真正面から対峙した難敵に対して、抵抗を見せず、みすみす殺されてしまっていいのだろうか。

 いいわけない。でも、発した声は微かだ。もうこれで自由になれてしまうのではないかという甘えと弱さすら滲んで混じって、主導権を明け渡してしまってもいいと思ってしまう気持ちが微塵もなかったとは言い切れずに呑まれる。

 胃の中で抵抗したって無駄。ただ、じっくりと消化され、消火され、昇華される。私を完全なものにするのが私じゃなくて、違う私だった、って話。


「うあああああああああああああああああ」


 今更叫んだところで無駄だって言うのに。もう食道を通って胃へ向かっているようなものなのに。遅い。遅いのに、今更足掻いたって。でも、魚の小さな骨のように、喉に突き刺さって一時的にその場で耐えるくらいなら許された。

 私はこれが夢だと思った。いや夢でしょ、それ以外ありえない。現実逃避だ。二人も存在するはずがない。でも、私の前には『私』が居た。この手では触れていない。でも、額に確かに体温を感じた。頬に触れられた手には温もりがあった。そいつが私に染み込み、私を動かすと言った。

 今の私は消化されないように、私の中から彼女=もう一人の『私』を邪魔するしかない。

 ベッドから彼女が立ち上がった。もうベッドには誰もいない。保健室の先生に声をかけ、この場から出る。

 私は怖い。教室に戻りたくない。

 でも、彼女は何故か楽しそうにしている。これから一体何をしようというのか。私には理解できてしまう。



「急に倒れたらしいけど、大丈夫だったか?」


 もうすぐ次の授業が始まる時間だというのに、教室の扉の前に立っている人がいる。日吉良大だ。

 真っ先に声をかけてきたのは、いつもなら教室で眠そうにしている彼だった。計画は今のところ悉く崩れ、彼に合わせる顔もないというのに、私は何故か明るく振る舞っている。


「うん、大丈夫だよ。ちょっとふらっとしちゃっただけ。ねえねえ、そんなことより他のみんなの様子を教えてよ」


 私のやけに明るい声のトーンに彼は違和感を感じないのだろうか。ああ、きっと感じなかった。私ではない『私』が話す言葉を、鵜呑みにした。


「そうか、それならいいよ。一通りしかないアイデアでは太刀打ちできないことはわかってた。今一度状況を整理するに越したことはない」


 そう言うと彼は、私に手のひらサイズに折り畳まれたルーズリーフを一枚渡してきた。開いてみると、彼なりに整理したクラスメイトの反応が簡単に書かれている。

 その場でさっと目を通す。

 なるほど、朝声をかけてきた彼女はずっとあの調子で、周りに色々とあることないこと吹き込んでいるらしい。野球部の彼は、私が倒れたときに心配してくれたらしい。ただ、ワイヤレススピーカー少女の件についてはまだ興味があるようで、ずっとソワソワしているという。このちゃんは暗い顔をしていたらしい。紺ちゃんは敢えてその話に触れないようにしているのか、他のクラスメイトと普段通りの生活を送っているという。

 特筆すべきはそれくらい。他の生徒についても書かれていたけれど、私が気にしたのはそれだけってことだ。

 ルーズリーフを再び折り畳んで、制服のポケットに入れた。

 教室後ろの扉を開くとちょうど授業のチャイムが鳴った。急いで席へ向かう。多くのクラスメイトの痛い視線を感じつつも、体は勝手に、ちゃんと席に着いた。

 倒れたという事情を知っていてか、既に教室にいた次の授業の先生は何も追及してこなかった。全員が席に着いたのを確認すると、いつも通り、授業開始の挨拶をした。

 正直、この日、私は気が気じゃなかった。常に誰かに見られていると錯覚ではなく実感して、落ち着かなかった。慰めではない言葉をかけるために声をかけてくる人がちらほらいたけれど、それは払い除けていた。表に私がいたのなら耐えられなかったかもしれない。でも、実際は私ではない『私』が全ての対応をしていたのだ。私の感じる不安や葛藤、焦りの数々は全くもって顔に出なかった。他者から見れば、心が動いていないと勘違いするほど、不気味なほどに負の感情を顔に表さなかった。

 その代わり、思ったことをありのまま言葉で伝えて、何度か一触即発の空気になってしまった。休み時間に声をかけてきた他のクラスの女子から嘲笑された際に、間髪入れず相手のウィークポイントを突く発言をした。きっとそれは彼女にとってのコンプレックスだったから、相手は顔を真っ赤に染め挙げてブチギレて、捨て台詞を吐いて去って行ったのだろう。

 私の代わりに表に出ている『私』。それは私の本心を肉体に宿らせ、具現化したようなものだった。今までの私にはできなかったことを易々とやり遂げることができる、正直で物怖じしない『私』。私がずっと憧れていたような、自分の思いや考えを、飲み込まないで、吐き出して、伝えられる、『私』。

 それで良いと、一瞬でも思ったのに。そうなりたいと願っていたのに。

 なんだか思っていたものと違う。

 でも、なんとか喉に留まりながら私は『私』の言動をただ見守るしかなかった。誰かから大小様々な攻撃を受けるたびに、こちらもまた正直な心から発せられた鋭利な言葉を突きつけ返した。

 階段の壁に設置された鏡に映る自分の顔を見たときに、少し顔に疲れが滲んでいたのがわかった。内側から見ているだけの私ですら疲れていたのだから、表の『私』だって当然疲れているのだろう。同じ私に変わりないし、二重人格でもないのだから、表も裏もないのだけれど。


 どんなに長い一日であっても、心臓が動き、脳が働き、手足が前に進むのであれば、着実に終わりへと向かう。今日を一言で表すなら、それは散々な一日だった。昨晩考えていた計画なんて、何一つ首尾よく運ぶことなく、今日の授業を全て終えた。

 クラスメイトがどんなに大変なことになっていようと、多くの生徒には関係ない。ある種、私に興味がある人間だけがわざわざ声をかけてくるのだ。だから、帰りの時間になれば大体の人はすぐに自分の向かうべき場所へ移動していく。

 教室に残るのは、何かしらの用がある人間だけ。今日に限っては、係の仕事に勤しむ人や雑談に花を咲かせる人ですら、長居せず減っていく。私に何を言っても無駄だとわかった人や、もう飽きた人も減っていく。気まずさを抱えながらもこの場を後にする人も居なくなった。教室には物音がなくなっていき、呼吸音だけが聴こえる気がした。

 それでも残る人。それは、私にまだ用がある人だけだ。


「何か話があるんだよね? 言って」


 飾らない言葉。淡々として、わかりやすくなった『私』が言う。やはり『私』は私だ。内面が露わになる前から計画していたことを、まだ、きちんと遂行しようとしている。『私』は私のために動いている。

 教室に残っていた相手は表情一つ変えずに頷く。

 私はこの人が真相に近い何かを持っているだろうと薄々気づいていた。それは、今の私が陥っている状況に対する明確な答えの一つ。原因を創り出した例の盗撮犯を明らかにする鍵を、持っているに違いない。私は「言って」などと言っていたくせに、話し出そうとした相手を一度止める。

 ここじゃない。教室ではなく、とっておきの場所で話してもらうと決めていた。

 放課後、唯一計画通りに進められたことがある。それは、人を連れて図書室に向かうことだ。

 どうしてその場所がこんなにも私にとって都合が良いのか。人目のつかない場所だから、という理由だけでは勿体ない気がする。

 薄暗い階段を一段ずつ上がる。後ろから一人、ついて来る。

 三階に出ると、廊下の突き当りに位置する図書室が見えた。扉は閉まっているが、鍵はかかっていない。そっと手を掛け、扉を開く。長机の端に人影。既に先客がいた。


「やあ、来たね。海本さん」


 私は良大君に軽く挨拶を返す。後ろについてきたクラスメイトは彼を見るなり、怪訝そうな顔をした。でも、すぐに後ろめたさを含んだような元の表情に戻った。

 良大君が座っている席は窓際で、カーテンが開かれている。建物の外から光が差し込み、明るい。その正面の席に私たちは座る。

 しかし、彼はすっと立ち上がると、「僕は一旦席を外すよ。きっとその方がいい」とだけ言って本棚と本棚の間に消えていった。少しすると、図書室の扉が開いて、彼は出ていったことがわかる。

 他に誰もいなくなった。私とクラスメイト、二人だけ。


「ここで大丈夫。さっき言おうとしてたことを教えて」


 環境を整えたところで私は切り出す。そのクラスメイトは一度目を合わせた後すぐに逸らし、再びこちらを窺い見るように見た後、しっかりとこちらを見つめ直してから、ようやく纏まったであろう言葉を発した。


「うみち、ごめん……………………私、なんだ」


 その一言はあまりにも簡潔で、当事者である私からすれば、理解に苦しむ点なんて何一つないはずだった。言葉の意味はわかる。でも、理由が、状況が、わからない。

 いつもの私なら、すぐに訊き返すなんてことはしない。きっと何拍か休符を挟んだ後に音が出るはず。いや、それは都合のいい解釈だから違うな。いつもの私であっても、彼女に対してであればすぐにでも訊き返していただろう。


「でも、紺ちゃんは部活のときずっと一緒にいたし……誰かに言わされてるんじゃないの? なんで?」


 やはり私は一つなのだと再確認する。例え、淡々と正直に考えを話すような私になったところで、この心が相手の持つ真実を知ることに対して、不安や恐れを感じないわけではない。だから、「なんで」という言葉が少し弱弱しく感じられた。

 今日という一日、それは普段と比べると数えきれないほどの人に声をかけられた。嫌味っぽいことや陰口だって滅茶苦茶言われた。私は嫌だと思ったし、ムカついた。でも、結局、今の淡々とした私には響かなかったと思う。

 それなのに、どんな反応をされても気にならない相手がたくさんいたのに対して、どんな反応をされてもいいとは思えない相手もいた。その人たちにまで、嫌味や陰口を言われるのは嫌だし、怖い。裏切られるのも、嫌だし、怖い。見放されるのも嫌だし、怖い。

 それは私の全細胞の共通認識で、相手の反応を待つ間に微かに手が震えるのにも納得してしまう。でも目はしっかりと相手を見つめている。

 隣に座っている友達は、体ごとこちらに向けて、小さく息を整え、私の目を見て言う。彼女の唇が僅かに震えたように見えた。


「…………嘘じゃないよ……こんなことになるなんて思ってなかった。私はただ、後で一緒に笑い話にして、ただ一緒に…………ううん、それも言い訳」


 再び、小さく深呼吸してから、私の目を捉え直して彼女は言う。思い違いではなかった。その声は震えている。


「今大切なのは事実だけ、だよ。私が、うみちの動画をSNSに載せたの。ごめん、どうにか騒ぎを収束させたかったのに、私にはどうにもできなくて…………本当にごめんなさい」


 彼女は崩れるのを堪えた。右手で口元を押さえ、必死に耐えている。

 私は彼女に裏切られた、とは思えなかった。思いたくなかっただけなのかもしれないけれど。それは、私が知っている正直で真っすぐな友達の姿に変わりなかったから。どこか安堵に似た感覚にすら陥っていた。しかし、手放しで安心を噛みしめることなんてできるはずもなく、心のどこかに引っ掛かるところもあった。その引っ掛かりこそが、彼女が「今は大切じゃない」とした部分だ。

 今更謝られたからって許さない、とかそういった怒りの感情よりも疑問が脳内を埋め尽くした。なんで紺ちゃんは…………

 今は事実が大事だなんて彼女は言ったけれど、私にはその背景を知る権利も必要性もあると思う。私は表も裏も無くそう感じていた。


「紺ちゃん。どうしてそんなことをしたのか、教えて欲しい」


 紺ちゃんは一瞬躊躇いの表情を見せた。けれど、覚悟を決めたのか、口を開いた。話してくれる。そう、今の騒動が起きるきっかけとなったあの日の話を。


 電車に乗っていたフードを被った黒づくめの正体、それは宮重紺だった。

 その日、彼女は朝から少し熱があったらしい。だから、電車に乗って病院へ行くことにした。そして、最近あまり学校では話せていない友達を電車内で見かける。話しかけようとも考えた。でも、体調不良だしやめておこうと思っていたら、急に列車内がざわつく。見ると、例の友達が何やら注目されている。少し観察しただけで、何か問題が起きていることがわかった。

 友達として、助けに入るべきだと思ったのに、足は地面にへばりついて全く動かず、代わりにポケットからスマホを取り出した。少し離れた場所から見るとそう深刻な問題ではないようにも見えて、後で本人に見せて笑い話にして終わりにするくらいの軽い気持ちで動画を回した。

 でも、その動画をすぐにどこかに公開することはしなかった。病院の待合室で、知り合いにしか見せないインスタのストーリーに載せたら、あとは知っての通り。誰かがそれを拡散した。


「私、軽率だった。皆にもっとうみちのこと知ってほしかったし、私も知りたかっただけなのに…………やり方を間違えちゃった…………ううん、それも違う。いや違わないけど…………うみちの動画やっぱ載せるのやめようって思って数分で消したし…………あ、それも全部を言えてるとは思えない」


「不器用だね…………私が言えることでもないけどさ」


「そんなことない。うみちは器用だよ。こんなこと、面と向かって言うのは気が引けるけど」


 一つ間を置いて。


「私、うみちにもっと構ってほしかったのかも」


 今の私なら、正直に彼女に自分の思いも伝えられるはずだと思っていた。しかし、実際は黙ってしまう。結局、私という人間は、素直になれない。相手が素直に打ち明けてくれても、それに対して誠実に対応することができない。

 だから、曖昧に「うん」と小さく唸ることしかできなかった。

 知り合いしか見られない設定にしたインスタのストーリー。その知り合いには面倒な人間も紛れ込んでいるというのに、危険を顧みずに載せてしまった。それはつまり、その後起こりうることが予測できたはずなのに、止められなかったという過ち。

 原因を作ったのは紺ちゃんだ。でも、それを拡散した人間がいる。だから全て彼女が悪いわけではない。それがわかっただけでも私は嬉しかった。


「ありがとう、話してくれて」


 私の意志で言葉が紡がれた。いつの間にか、手も足も自由に動かせる。私を乗っ取っていたものは、私に溶け込み、今や反発するものではなくなっていた。同じ私。唯一無二の私。

 紺ちゃんは一度目を丸くした後、ゆっくりと強張った表情を解していき、目を細めて「うん」と頷いた。

 私は再び私として決意する。

 この騒ぎを収束させて、平和な日々を取り戻すのだと。

 そうと決まれば、行動に移すのみ。もう怖くない。私にも強い心があるとわかったのだから。


「そろそろ話はついたかな」


 いつの間にやら背後に立っていた男子に声をかけられる。本当にやめて欲しい。ちょっとの衝撃には強くなった私がいたとしても、やっぱり心臓には悪いから。


「今日はまだ終わってない。紺ちゃん、良大君、私に力を貸してほしい」


 二人に頼む。一人では立ち向かえなくても、仲間がいればなんとかなる。それはきっと真理だ。

 ニヤリと笑みを浮かべる自称探偵と、かけがえのない友達の一人。

 私はあなたたちの真っすぐさを見習いたい。


「海本さん、とりあえず図書室を出よう。まだターゲットの靴があるか確認する必要がある」


 私たちは荷物を身に着け、急いで椅子を机にしまう。静かな図書室にギギィ……と椅子と床が擦れる音が響く。原状復帰は完璧だ。あとは急いで昇降口へ向かうだけ。


 パシャーーーーン


 スライドする扉が力任せに開け放たれた。鈍くて大きな、耳を劈く音がシンとした図書室に響き渡る。幸か不幸か、図書室の司書さんは奥の部屋から出てこない。

 代わりと言ってはなんだけれども、出入り口には人の影が見えた。教師ではない、生徒だ。顔を見て息を呑む。


「ふふーん、話は聞かせてもらったよー千紋ぁ」


 相変わらずニンマリしているその生徒は、ズカズカと足音を立てながらこちらに近づいて来る。隣を見ると、良大君は険しい顔をしている。紺ちゃんはと言うと、無表情だった。


「やっぱり千紋が【ワイヤレススピーカー少女】だったんだー。夢亜に頼んで雑だけどかまかけてもらった。それなのに、頑なに話さなかったからさぁ」


 私はこの人がクラスメイトであり、いつも夢亜の側近かのように振る舞っていた人であることくらいしか知らない。関わりが全然ない相手だったのだから。ただ、わかりやすく直接敵意を向けられているため、身構えないわけにもいかない。

 他に物音のしない図書室に彼女の声だけが響き渡る。


「ねぇ夢亜、ほんとに千紋なんだよねぇ?」


 そう言って彼女は後方に声をかけた。後ろからもう一人姿を現す。その人は静かに頷いた。私も知っているクラスメイトだ。教室ではうるさくて、中心的で、時々親切。私はどうにもこの人のことが嫌いになりきれなかった。今更わかったことだけれども、嫌いになる必要がなかったからだと知る。それに彼女のことを全然知らなかったからだともわかる。


「いい加減にしろよ、リツカ」


 やや声を荒げたのは良大君だった。リツカと呼ばれたクラスメイトは彼を睨み返す。思い返すと私は、良大君のことも何も知らなかった。どんな食べ物が好きなのか、どうしていつも眠そうなのか、どんな人間関係を持っているのか。何一つ、ちゃんと聞いたことはない。

 今、彼が彼女を下の名前で呼び捨てにする経緯も何もわからない。推測の域を出ないけれど、何かあったに違いない。それは、私の問題以前にきっと。


「全部お前が仕組んだってことくらいわかってんだよ。海本さんが映った動画、あれを拡散したのはリョウカだろ」


「だとしたら?」


「そんな奴の顔見たくもない。くだらないし、ただただ呆れる」


 彼は何故、私以上に怒りに満ちた声色なのだろう。彼のことが全くわからない。

 恐らく、長らく探していた諸悪の根源は見つけ出したのだ。意外にもあっさりと。でも、そんな簡単に解決するものだろうか。


「リツカ、もうやめよ。私疲れた。これ以上偽るの無理」


 夢亜が言う。偽る、というのは何の話だろう。


「私は友達だと思ってるから、リツカの我儘だってたくさん聞いてきた。似合わない役だってクラスで演じ続けた。でも、それは全部リツカのためだった。もう計画は終わったじゃん。良大はあなたのことを何とも思ってない」


 言い切ってしまった夢亜の言葉で察した。まさか、良大君のことが? え? どうして私に関係が。


「夢亜、どうしてうみちの動画を拡散したの?」


「え? どうしてそこで夢亜が」


 紺ちゃんの夢亜への質問の意味がすぐには理解できなかった。しかし、紺ちゃんから伝えられた内容を聞いて納得する。なるほど、リツカというクラスメイトは紺ちゃんの投稿を見ていない。なぜなら相互フォローしているわけでもないから。あのうるさい子達の中で見ていたのは、夢亜だけ。さっき紺ちゃんは言っていた、動画は「数分で消した」と。

 夢亜の顔を見る。彼女は目を逸らさなかった。


「……それが友達を助ける手段になると思ったから」


「それ以上やめて、夢亜」


 リツカはとっくに崩れていた。彼女の顔はどうしてか涙でぐしょぐしょだ。すすり泣く声が静寂に包まれた図書室の空気に溶け込んでいく。


「私の…………私のヒーロー、なのに…………」


 ああ、そうか。この人もまた、言えなかったんだ。本当の自分を。


「そんなもの存在しないよ。少なくとも僕はリツカにとってのそれじゃない」


 良大君は突き放すように言った。しかし、彼はどこまでも親切ではあった。その親切な言動の一つ一つが、私の知らない場所で、彼女を勘違いさせ続けた。もしくは、その子が一方的にそれを追い続けてしまった。その結果がこれだ。でも、良大君からの提案は、彼女に再び差し伸べられた手に変わりはなかった。


「でも、この騒動を収める手伝いくらいならしてあげられる」


 一度顔を上げたリツカは、再び下を向いてしまう。彼女の手を引いて夢亜が図書室の椅子に座らせる。そしてこちらを見て頷いた。それは、もうここは大丈夫だから行っていいよ、の合図だった。

 私たちはその場を後にする。

 予感がした。私は今、この二人を置いてでも走って駐輪場へ向かうべきだと。


「ごめん二人とも! ちょっと急ぐね」


 私の行動もまた支離滅裂で、他の人からしたら問い詰めたくなるようなものに違いない。しかし、二人は大人しく見送ってくれる。

 心から感謝しながら、私は廊下も階段も走った。私の上履きが立てた音が建物の中で反響する。人の気配のない校舎を走り出て、自分の自転車が置いてあるわけでもない駐輪場へ駆けた。

 そこにいた。

 私の大好きな友達が。


「このちゃん!」


 声をかけると、驚いたように振り返って、彼女が私を見る。駐輪場近くの木々が風で揺れた。今日は結ばれているさらさらとした髪も、制服のスカートも風を受けて靡いた。

 自転車の傍に立っている彼女は、こちらを見ても何も言わない。


「もう隠すのやめる!」


 私は叫んだ。と言っても、そこまで大きな声を出せたのかは不明。心の中では精一杯叫んだ。彼女に向けて。私自身に向けて。


「そっか」


 ようやく口を開いた彼女はふふっと柔らかく笑った。木々についた緑色の葉っぱが優しく揺れる。


「良かった」


 それだけ口にして、彼女は私を残して、行ってしまう。追いかけない。私は押し付けない。自分の興味を、答えを、虚しさを、孤独を。

 他の人が戸惑うくらいなら、そのとき私は我慢すればいいって思ってたから。

 違うな。

 ただ、本当の自分を知られるのが怖かったから。


「待って!」


 今度こそ、少しは叫べたようだ。このちゃんは自転車に乗ったまま、脚を止めて、振り返る。


「私、本当はあの映画、見たことある!」


 彼女は目を見開く。驚いているときの彼女のサイン。何の話か、彼女もすぐにわかったようだ。どうして嘘をついたのか。それを問い詰める権利が、彼女にあるはず。でも、そのまま何も言わない。


「それだけじゃない…………私、普段はあまり本読まないけど、その作者の本は好きで…………今後出る本も含めて、全部ハードカバーで揃えようとしているくらい大好き………!」


 今は、これくらいしか、私自身について本心を話せない。でも、私にとっては大きな一歩。


「それくらい本当は大好きだって、ちゃんと言いたかったから…………うん、それだけ」


 言い切ってしまうと、達成感と清々しさを感じた。言ってしまったことに対する焦りや相手の反応への不安なども、勿論心に存在している。今後、このときのことを思い出して、独りでに悶え苦しむ日も可能性としては十分すぎるほどある。それでも、私は言えて良かったと思う。


「わぁ…………」


 彼女の口からはそれだけ。喜び、驚き、困惑、それとも引いてる?

 こちらを見たまま固まっていた彼女は、突然、進行方向を向き直して走り去ってしまった。

 このちゃんが、私の言葉をどう受け取ったのかが気になる。知りたい、今すぐにでも。何も言ってくれなかったから、ずっとモヤモヤしている。きっと、隣の席の彼もこんなじれったい気持ちを抱えながら毎日を過ごしていたのだろう。

 一度紺ちゃんたちのところへ戻ろうかと、校舎に向けて歩き始めたところで、そこそこ遠くに見える建物の影から二人が姿を現す。私はこの場で二人を待つことにした。


「木乃香ちゃんに会えた?」


 紺ちゃんに訊かれ、私は頷く。安心した表情を見せる彼女の隣、良大君は疲れた顔をしている。


「良大君、大丈夫?」


「ん、ちょっと疲れただけだから大丈夫。そろそろ全部解決できそうだし、明日にはゆっくり眠れるかな」


「寝る間も惜しんで考えていてくれたの?」


「いや、流石にそれは。僕は直接何かしたわけでもないし、ただ考えることが減るのが嬉しいような、寂しいような。複雑だなってね」


 いつも眠そうだからもしやと思ったけれど、流石にそれはないか。それに、結局今も彼は【ワイヤレススピーカー少女】の件を楽しんでいるように見える。真犯人が彼です、って言われてもきっと驚かない。

 それから三人で少し話した後、今日は解散することにした。


「明日この件は完全に片付けよう。また明日の放課後、あの部屋に来てくれ」


 彼が私にかけた言葉を紺ちゃんは聞き逃さなかった。


「ちょっと! 私たちのうみちに何するの?」


「大丈夫だって紺ちゃん。何もないって」


 上手くフォローできず。より怪しくなってしまった。思い返すと、急に腕を掴まれたのは怖かったし、完全に安全ですとは言えないと思ってしまう。それに、詳しいことは知らないけれど、リツカをはじめ、女の子を泣かせる男ってことには変わりないし。

 なんて迷っているうちに、良大君はあっさりと、「宮重さんも来てもいいよ」などと言う。え、急に軽すぎるじゃん。あの場所、そんな簡単にバレていいものだったの?

 まあまあ。明日のことは明日の私しか知らないことだし。

 「じゃあね」と手を振って、彼とは逆の方向へ、紺ちゃんと二人で歩き出す。そういえば、誰かと一緒に駅へ向かうのって珍しい。

 紺ちゃんはもう既にいつもの紺ちゃんだった。


「あ、そうだー! 前言ってたラーメンのお店! の近くに今度、パン屋さんがオープンするらしいよ~。ほら、駅前の空き地になってたところ。建物できてるでしょ?」


「え、そうなの?」


 彼女が指す先は遠すぎてまだ見えない。そんな建物あったかな。毎日駅は見ているはずなのに、全然周りを見ていなかったことに驚きだ。パン屋さんってことは、私たちと同じように高校生も足を運ぶ可能性は十分。なのに全く知らなかったなんて。ちょっとうちの学校周辺の発展具合を舐めていた。

 知ったからには、オープンしたら一回行ってみようかな、なんて思う。


「それとー、あっちの方! さっき夢亜が言ってたんだけど、すごーく美味しいパンのお店があるんだってー」


 そんな会話をする余裕があったんだ。夢亜も意外と、じゃなくて、めちゃめちゃ本当は楽しい人なのかもしれないな。

 って、そこじゃなくて。


「またパンなの? それ、お客さん取り合っちゃうじゃん」


「あはははは、確かにー。お店の雰囲気被っちゃったらやばいね。さて、どっちが生き残るかな?」


 思わず突っ込まずにはいられない。できればどっちのお店もいい感じに繁盛するといいなーって、ぼんやり思う。

 それにしても、一人で歩くときとは違うものが目に入って面白いな。自然とそう感じた私はようやく理解する。

 なるほどなるほど。

 些細かもしれない発見や関心が、近くにいる人まで楽しくしてくれる。

 明日には忘れているかもしれない話でも、一瞬でも楽しかったという思いは積み重なって今の私たちの関係を作っているんだ。

 場が冷めるようなことを言ってしまうかも、とか、そんなの相手は興味ないよ、とか。共通の話題以外は自分の中で完結してしまっていたけれど、少しは恐れず解放してもいいのかもしれない。

 駅までの道のりでちょっとポジティブになれた。なんて素敵なことだろう。


「またねー、うみち」


 先に電車に乗っていった彼女を見送る。私は次の電車を待つ。

 数分後、到着した電車に乗り込み、空いていた席に座る。

 やっと落ち着いた。やっぱりどんなイレギュラーも疲れる。でも、やっとこのイレギュラーに終わりが見えた。これが終わっても、またすぐに次のイレギュラーが待っているのかもしれない。それでもいい。

 スマホの電源をつける。久々に電車内で弄るスマホは、どこか安心感すらある。音さえ出なければこっちのもんなので。

 本当はまだ終わっていないってことを、ここでようやく思い出す。

 解決したのは、あくまでも動画がどう流出していったのか、それだけ。根本的に解決したのではない。まだ動画は出回ったままだし、私は今も【ワイヤレススピーカー少女】だし。

 それに結局部活のときに現れた黒ずくめの人物が誰だったかについてもわかっていない。

 終わっていないとわかった途端に、疲れがどっと押し寄せた。

 はぁ…………まだ今日、火曜日なんだけど。

 家に着いた私は、知らないうちに制服のままベッドで眠っていた。

 次の日、早朝に目覚めて、急いでシャワーを浴びた。起きたらすぐまた学校だなんて、全然休んだ気がしない。特に心がまだ休みたいと言っている。

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