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5.援助交錯

 水という水が即座に蒸発するように。

 今日は、違う、今日も暑い。涙がすぐに乾くのも、こんな暑さのせいだと私は思う。

 向かう先は、このちゃんの家でもよかった。私に勇気があるのなら、戻って直接、冷静に、紺ちゃんに対して訊けばいいだけの話だった。でも、飛び出してきてしまったのに、何事もなかったかのように戻るわけにもいかない。だから、目的地はよく知らない男の子の家なのだ。

 このちゃんの家の前を通らないように、少し遠回りして、話に聞いていた場所へ向かう。マップを確認すれば確実だったのだけれど、歩きスマホはしない主義なので、立ち止まりたくない私は聞いた情報だけを頼りにその家を探した。迷った。

 でもラッキーなことに、屋外で焼き肉をしていた彼らの家からは肉を焼く好い香りを乗せた煙が漂ってきて、「ここだよ」と言わんばかりに目的地の場所を伝えてくれた。おかげでなんとか辿り着く。

 広めの庭にキャンプ用の椅子や机、コンロなど。芝生が青々しているし、近くに停車している車はなんだか大きい。


「あ、さっきの。木乃香たちも来る?」


 スーパーで会った良大君の友達が私を見つけて声をかけてくれた。近くに良大君もいる。私の顔に涙の痕があることに気づいたのか、彼は少しだけ目を見開いた。


「…………えっと、とりあえず私だけ」


「後で来るとか言ってた? まだ肉あるし、よかったら残しておくけど」


 元気なお友達は気さくに話しかけてくれる。楽しそうに話す様子からして、既に友達と焼き肉を存分に楽しめているのだろう。私も友達と楽しく過ごすはずだった。それを思うと、今のこの人の様子を見るのはちょっと苦しかった。


「それは、わかんない」


「そっかー、じゃあ来そうだったら後で教えてほしい! それより、こいつに用事があって来たんだろ?」


「うん、そう」


 良大君を指して言う彼の質問に、私は迷わず頷いた。ニヤニヤしている彼を制して、椅子から立ち上がった良大君はこちらへと近づいてきた。数時間ぶりに見る彼は、案外友達との時間を楽しんでいたようで、普段教室で見るときよりも心なしか表情が柔らかい。

 私はすぐに本題に入ろうとしたけれども、新品の紙皿と割り箸を渡しながら彼は、「折角歩いてきたんだし、少しくらい食べていったら?」と言って、私を席に着かせた。その様子を見てまた、例のお友達は笑みを浮かべているので、少々面倒だなと思った。

 流れるように着席し、そのままの流れで紙皿に乗せられた焼き立てのお肉。熱いうちに食べた方がいいと言うので、甘辛いタレにくぐらせて、口に運んだ。あっつい。

 口の中で熱い肉が躍るせいで、話したいことが話せない。話せないようにしてるのか? これは何かの企みかと疑ってしまうほどだ。

 ようやく飲み込んで、良大君に問いかける。なるべく他の人たちに聞かれないように声を潜めて。


「良大君、スーパーで会ったとき……今日例の件について進展があるって言ってたけど」


「言ったよ。どうだった? 進展、あった?」


 淡々としている彼は、やっぱりどこかおかしい。楽しんでいるようにも見えてしまうのは気のせいだろうか。彼の友達はこちらの様子をチラチラ窺ってきたけれど、私が視線を送ると、視線を戻し、自分たちの話を再開させている。彼らのことはもう眼中にない。私の目は良大君だけを捉えている。

 ここまで来たんだ、訊かないわけにはいかない。


「なんで知ってたの? 紺ちゃんが私を動画に撮ったって」


「へぇ、そうなんだ。動画を解析するまでもなかったみたいだね」


「でも、色々辻褄が合わない。それにあの子は否定しなかったけど、肯定もしなかった。私が勝手に決めつけて飛び出してきちゃったのが悪いんだけど」


「喧嘩しちゃったのか。それは残念だな」


 さっきから何目線かわからない反応を見せる彼に、静まったはずの怒りや焦りが再び沸き起こって来るのを感じたけれど、なんとか抑える。冷静になるんだ。冷静に。

 一度呼吸を整え、一番言いたかったことをぶつけることにした。


「良大君、何か知ってるんでしょ?」


 彼は曲がりなりにも協力者だ。疑うのは心苦しい。でも、友達に比べれば、私の中での彼の重要度は低い。だから、自分勝手かもしれないけれど、いっそ、この人であってほしいと思ってしまった。

 動画を拡散した犯人だって自白してくれないかな、と。

 私の考えをなんとなく察したのか、彼は眉をひそめた。腕を組んで、私から目を逸らす。「うーん」と一度だけ唸って、再び私の目を見る。真剣な眼差しだった。でも、ふっと柔らかい表情に戻って。


「僕は僕にできることをするだけだよ」


 それだけ。でも、これ以上私に何も質問させまい、というオーラを感じさせる。現に、彼は自分の皿に新たな肉を乗せ、いつの間にか頬張っていたのだから。

 呆気に取られていると、いつの間にか私のお皿にも肉が乗っていた。乗ってしまっては仕方ないので、静かに口に運ぶことにしたのだった。

 少なからず気まずさを感じていた私は、お皿に乗っていた物を食べ終わると席を立った。その場にいた全員に感謝だけ述べて、その場を後にする。

 正直私はどうしたらよいのか、途方に暮れていた。

 【ワイヤレススピーカー少女】について、紺ちゃんだけでなく、このちゃんにも相談しにくくなってしまった。

 多少時間が経ってもこのちゃんの家に戻る勇気がない私は、頑丈なメンタルを持っていないことに改めて気づくことができる。少し安心してしまった。なぜなら、自分が無神経な奴ってわけじゃないことがわかったから。小さなことは気にしないタイプの方が楽に生きられるとは思う。でも、気にしてしまう自分が心底嫌いかと聞かれると、不思議とそうは思わないのだ。

 良大君も何がしたいのか、相変わらずわからない。

 突然孤立してしまったことに内心怯えながらも、電車に乗って帰宅することにした。



 あの動画はどこまで広がったのか、私にはもう見当もつかない。もしかしたら、ほとぼりは冷めたのかもしれない。でも、依然として、私の口からはスマホの音声が流れてしまう。世間の目がどうかとか以前に、この現象が終わってくれないことには安心して生活できない。

 見つけたワイヤレスイヤホンは、回収すればよかったものの、このちゃんの家に置いてきてしまった。月曜になったら、このちゃんに訊いてみたい。でもあんな風に出てきちゃって、このちゃんや紺ちゃんといつものように話せるだろうか。いやいや絶対無理でしょ。


 …………ああ、誰かと話したい。

 この何とも言えない不安をただ聞いて欲しい。私もあなたの不安をただ聞く。それでウィンウィン。

 でも、できれば何か道を示してくれないだろうか。その方がきっと楽になる。

 都合が良すぎる。それくらいわかる。そうだとしても、願ってしまう。

 誰かが私を助けてくれないか、って。

 私もいつか助けるから。

 誰か、お願いします。


 目を閉じ、座って乗車している電車内。心の叫びは声にはならない。自分の中だけでぐるぐると回り続けるだけ。

 それなのに時々、閉じ込めたはずの思いが、不意に声帯に届いて、口から漏れ出すなんてこともある。


「助けて」


 目を閉じたまま、囁くように零れた。電車のガタゴト揺れる音に比べれば、小さすぎて、元々なかったものにされてもおかしくないような音だった。それなのに、小さい音の方が逆に聞こえてしまうということもあるようで、思いがけない相手の耳にまで届いていた。


「こっちの台詞だし」


 頭上から声がする。目を開き、顔を上げる。目の前で吊革に捕まって立っている人の顔を見て、先ほどの声もまた、予期せず零れ落ちてしまったものだということを知る。


「あ、夢亜の…………」


 今目の前にいる彼女とは、ほとんど話したことがない。関わりが少なすぎてすぐに名前が出てこない。彼女は私にとって、ナンバーツーの子、以外の何者でもないのだ。

 彼女はこちらを見ると、険しい顔をした。まだ、夢亜の一件を引きずっているのだろうか。因みに私は直接彼女に何かしたわけではない。だから、この子が私に怒りを覚えているのだとしたら、それはお門違いだと思う。

 まだ最寄り駅に到着するまで十分近くある。彼女がどこで降りるのか知らないけれど、このまま気まずい空気で居続けるのは耐え難い。私は、そんな気分じゃなかったくせに、彼女に話しかけてみた。


「珍しいね、電車で会うなんて。今日は何してたの?」


「珍しい、ね…………私も電車通学だから。別に電車自体珍しくないんだけど」


 折角話題を振ったのに、それには答えてくれなかった。まるで、あなたに話すことは何もありませんって感じの、相手を突き放すような態度。

 そんな態度からでも、得られた情報もある。どうやら彼女「も」電車通学のようだ。つまり、私が電車通学だと知っている。であれば、朝、同じ電車に乗ってくることだってあるのかも。

 それなら、あの日、その場に居合わせた可能性だって。

 チャカチャカと脳内で組み立てられた名推理。しかし、すぐに捨てる。例え、相手から好意的な印象を持たれていなかったとしても、いきなり彼女を犯人に仕立て上げようとするなんて、それはいくらなんでも駄目でしょう。


「さっき助けてって言ってたけど、お腹でも痛い?」


 もう話は終わりで、再び気まずい空気に戻るものだとばかり思っていたのに、少しぶっきらぼうに彼女は訊いてきた。彼女の背後、私の座る席の向かい側の窓に映る私が目を丸くしたのを、自分自身でも確認できた。外はまだ明るいのにちょうど電車が橋の下を通るところで、陰ができて外が暗くなり、電車内の灯りで反射した姿がはっきり見えたからだ。

 表面上だけかもしれないけれど、一応相手を心配する素振りを見せるということは、彼女は私が思う程冷たいわけではないのか?


「ううん、大丈夫…………ちょっと疲れただけ」


「そうは見えなかったけど。もしかしてさ」


 嫌な予感がする。その予感が当たる予感もする。


「【ワイスピ少女】のことで悩んでる?」


 私は瞬時に動揺を殺した。危なかった。唐突で、何も対策していなかった。よく、動揺を見せなかったな、と自分自身を褒め称えたくもなる。多少は表情が引きつったかもしれないが、それくらいに収まったのならセーフ。

 ナンバーツーの彼女は相変わらず冷ややかな目でこちらを見下している。立ち位置的にそういう構図になってしまうので、本人に見下す意志がなくてもそうなってしまう。なので仕方ない、という謎のフォローを入れておく。

 勿論、頷くはずがない。「何の話?」という反応を絞り出して、相手が引き下がってくれたから良かったものの、そのまま追及され続けていたら絶対陥落していたと思う。

 代わりに相手の話を聞くことにした。彼女が「こっちの台詞だし」と言ったことを聞き逃してはいない。

 ナンバーツーの彼女は吊革を持たない方の手でツインテを弄っている。彼女にツインテのイメージはない。今日はいつもと違うってだけだと思う。服装は白を基調にしたワンピースだ。靴はサンダル、厚底の。こんな一見天使のような格好をしているくせに、冷ややかな態度だなんて怖い。これが私に対してだけの態度だと仮定したら、もっとゾッとした。


「こっちの台詞って言ってたし、何か、悩みがあるんだよね?」


 恐る恐る訊く。既に着火しているのなら、油は注がないに越したことはない。それでも、訊いてしまうのは、やはり沈黙が耐えられないからだ。

 ややあって、彼女が口を開いた。


「…………それはそう。私はあいつを許せない」


 あいつって誰のこと? なんて訊かなくても一人しかいないんだから訊くまでもない。日吉良大。謎に満ちた彼以外考えられない。


「全部知ってるような目をして…………偉そうに振舞うし。それに言動が無責任だから………」


「あ…………」


 偉そう、は置いておいても、確かにこの子が言うことも一理ある。彼は自分自身を平気で曝け出す。そのくせに弱みを握られたような顔は一切しないし、どこか達観しているような。私よりも精神的に上位に位置する存在のように思える点では、ある意味偉そうに見えるという表現も間違いではないのかもしれない。


「可愛くない、なんて、普通に面と向かって言うかな」


「そ、それはどうだろう…………あんまり、言わないかも」


 どうやら彼女にとってはそこが一番気に障ったようだ。仲間への侮辱。それは私も嫌だなと思う。普段はただうるさくて、多少の陰口は気にしない夢亜本人が、顔を赤らめて怒っていたくらいだ。それは、周りにいる彼女たちも怒るだろう。

 しかし、彼も人を進んで傷つける人ではない。少なくとも私から見たら。


「でも、良大君はそんな酷い人じゃないと思う…………いつも眠そうだし、たぶん寝ぼけてて口を滑らせたとか」


 この一言は余計だった。彼女の顔はみるみるうちに変わっていく。元々機嫌が悪かったのはあるだろうけれど、それよりもっと、私の言葉で悪化したような。


「あいつに甘えてるからそんな言葉が出るんだよ」


 吐き捨てるように彼女は言う。甘えてる? 私にそんなつもりはない。頼りにしているところはあっても、私は私の頭で考えることを放棄していない。この子は何を言っているんだろう。


「あいつもあいつだし。いつも勝手に首突っ込んで、勝手にいい顔して」


 怒りの矛先は私を通り越して、私がこの電車に乗った駅の方角を向いている。その方角には、このちゃんの家や良大君の友達の家、そして良大君自身の家もある。

 彼女はこの場にいない彼に対して、ただ静かに怒っていた。

 私が下車する前に、途中で彼女は降りていった。私には目もくれず、他の乗客たちより少し足早に出ていく。ドアが開いて、外の熱気が侵入してきたはずなのに、私の目の前にできた空間は冷たさを残していた。

 私はいつもの最寄り駅で下車し、自転車に乗った。

 生温い風を感じながら、ペダルを漕ぐ。いつもの風景。太陽は沈んでいない。でも、私の中ではとっくに陽が落ち、暗い夜道を自転車のライト一つで走っているようだ。

 まだ見えない。終着点が見えない。

 普段通り走っていたはずなのに、いつの間にか知らない道に迷い込んでいたような。

 知らない通りの道路は、舗装されていない箇所が多くて、不安定に車体が揺れ、バランスを崩し、転びそうになるような。

 突然向こうからやってきた自転車と衝突しそうになるような。

 ペダルを踏み外しそうになるような。

 それでも、再び知っている通りに出られて、ほっとするような。

 気づくと、もう家の前にいた。毎日体に刻み続けている行動が勝手に今日も再生されて、私を家に帰してくれた。

 明日は、日曜日。少しは課題に手を着けないといよいよまずくなってくる。徹夜でどうにかなる量じゃない。大人しくしていよう、明日は。

 頬に残っていた水の跡も、いつの間にか綺麗に消えている。

 体だけは、ちゃんと前に進んでいるんだ。

 家のドアを開ける。

 いつもと同じように、私は「ただいま」と呟いた。





 月曜はやって来た。容赦ない。全てをリセットして迎えた月曜、というわけにもいかない。新たな一週間の始まりとはいえ、休日の件がチャラになるはずもない。

 先週末、借りていた折りたたみ傘を忘れずに持って家を出た。

 学校に到着し、教室に入って真っ先に向かったのは、傘の持ち主の元だ。彼女を囲む子たちに不審な目で見られた気はする。貸してくれた彼女に改めてお礼を言って、傘を渡す。彼女は、「あー、そういえば貸してた」とか言いつつ、ちょっと照れながら受け取った。周りの子たちが鬱陶しいことに変わりはないけれど、そんな彼女の様子を見て、本当はこの人も良い人なんだろうなと改めて思った。

 それから真っ直ぐ自分の席へ向かった。前の方の席に座るこのちゃんは今日もいつもと同じように本に顔を埋めていたし、バドミントン部のこのちゃんは同じ部活の人と何か話していた。謎多き良大君は後ろの方の席で今日もうつ伏せだ。

 私は必要なものを机に出して準備をする。隣から声をかけられたので、顔を上げると、ムズムズした表情を浮かべる奴が。あ、奴とか言っちゃった。


「海本…………見てくれよ」


 どうせまたクマのことだろう、いつまでこの人は動画のことを引きずるんだろうと思いながらも顔を見てあげると、特にクマはない。あれ? 流石にぐっすり眠れたのだろうか。


「クマはもうないぜ。モヤモヤしてたことが解決したからさ。最高の気分だぜ! えっと、それよりこれ」


「解決したって? …………え?」


 野球部の彼が見せてくれた物を見て、私は言葉を失った。


「これ、ワイヤレスイヤホン。どうやら、これとペアリングすると【ワイスピ少女】とスマホを接続できるらしいんだよ。凄いよなー」


 それはこのちゃんしか知らないはずの情報。どうして彼が?

 好奇心に満ち溢れているだけ。無邪気なだけ。全く悪意がない様子の彼が、次に何をするのか。何故か想像できてしまった私は、急いで彼の行動を止めに入っていた。

 イヤホンをケースごと奪い返す。突然のことに驚きを隠せずにいる彼をよそに、私は自分のイヤホンだと確認し、すぐにリュックにしまった。


「おい、なんでいきなり奪うんだよ! これは俺の」


「違う、私のだよ。ねぇ、なんで君が持ってるの? それにしつこいくらい毎日のように【ワイスピ少女】のことばっかり。いい加減にしてよ」


「海本…………やっぱりお前が」


 ふと周囲を見回すと、多くのクラスメイトの視線が私の方を向いていたことに気づいた。まさか、はめられた?


 …………はめられたって何?


 どうしてこんなことになっているのだろう。改めて考えを巡らせる。なんで私が。よりによって私がこんな目にあわなくちゃいけないの?

 じわりと浮かんだ涙を堪え、口をきゅっと結んで、前を向く。今、隣の席の彼を見ることも、こちらを見ている他の誰かの顔を見ることも嫌だった。だから、ただ真っすぐに黒板を見つめた。

 教室の前方、扉が開いて担任の先生が入ってきた。それに合わせて、こちらを向いていた視線は一つずつ、黒板の方へと向いていく。

 今日こそ、先生の話の中で動画の件が触れられるのではないかと思っていたけれども、そんなことはなくホームルームは終わる。そのまま、一限目の授業へと流れるように進んで行った。


 休み時間、私は誰とも喋らなかった。お昼も。あれほど仲の良かったこのちゃんとも。

 何かしら誰かに絡まれるかなとも思っていたけれど、そんなこともなく、今日の授業が終わる。誰とも喋らなかった代償として、次に声を出そうとしたときには、少し喉に何かがつっかえて、上手く発声できなかった。


「りょ…………良大君」


 教室を出て、自身の基地へと向かう彼に声をかけた。階段を上る脚を止め、彼は振り返る。相変わらず、教室にいるときと同じで眠そうな顔をしている彼だけれども、今の私が頼れるのはその彼だけなのだ。


「どうした?」


 私はその場で起こったことを全て話しそうになった。でも、それは彼が私の顔の前に差し出した人差し指によって止められた。彼は頷き、私について来るように合図する。私は彼の後を追い、またあの準備室へと入って行く。そこで、ようやく起きたことを話すことができた。

 話を聞いた彼はただ「なるほどね」と言うだけで、何も解決策を提示してくれない。第一に、いつの間にか他者に解決策を求めていた自分が間違っている。それでは、あの子が言っていた通り、「甘えてる」のと違わない。ただ、そんなことにも気づかずに私は不安を募らせた。


「何か…………この現状を変える方法は無いの?」


 すがるように訊く。彼はいつもの椅子に座り、パソコンを開いている。顔だけこちらに向けて、やや深刻そうな表情をしていた。


「君は現状を変える、って言ったけれども、それならまずは現状を正しく理解し直した方がいい」


 そう言って今度は体ごとこちらに向け、パソコンの画面が見えるところまで私に近づくよう指示した。言われた通り近づいて、画面を見ると、例の動画の、一部分だけが拡大し表示されている。どうやら、動画の解析が終わったようだった。


「動画に映ってる盗撮犯、男じゃないぞ」


「え?」


「いや、断言はできないか。女性ものの靴を履き、女性ものの服を着る男性も結構いるからな。ただ、仮に男だったとして……いやなんでもない。何より骨格からは女性に見える」


 あの動画から盗撮犯の服装を特定したというのか。それに骨格って。日吉良大という青年は今、私にとって最も頼りがいがあることは間違いない。しかし、この観察眼がもしも悪事に利用されたりなんかした暁には恐ろしいことになりそうだなとやんわり感じたことも見過ごせない。何はともあれ、彼の力には驚かされるばかりだ。

 私がただただ圧倒されている間にも彼は話を進める。どうやって特定して行ったか、その過程をつらつらと説明してくれているようだったけれども、私は画面に釘付けになっていて、話が入ってこない。

 それでも、彼が発した言葉の中でも重要そうなところだけは聞き逃さなかった。

 画面から目を離し、彼の方を瞬時に振り向くことになったのは、ちょうど彼の説明が一段落したところ。


「そうだ、こんな説明している場合じゃない。一番伝えないといけないことを伝え忘れてた。…………もうすぐ海本さんは少なくとも学校内で平穏に過ごせなくなると思う」


「ええ?」


 突然何を言われるかと思いきや、そんな受け入れがたいことを流れるように言われても困る。

 言葉は理解できる。でも、どういうことなのか…………についてもなんとなくわかってしまったのが、悔しいのか、悲しいのか。ただ、焦りは覚えた。静かに背中を一筋の水滴が流れたような気がする。

 私が心でどう思っていようが彼には関係ないようだった。そのまま続ける。


「言葉の通り、君を取り巻く環境は一変するかもしれないってこと。だから、明日からは僕が海本さんを守るよ」


「ふぇんっ?」


 変な音が出た。え、何でそんな、急に、ちょっといきなり告白ですか!

 脳内でツッコミを入れた。でも言葉にはならない。混乱する私を置き去りにして、また彼は続ける。パソコンを閉じながら。


「自分から乗ってしまった船だからね、沈むなら僕も沈むよ。まあ、そんなことはさせない。必ず真相を突き止めるし、平穏な日常を取り戻して見せる。きっと騒ぎに乗じて犯人も動くと思うから、こっちから引っ掛けてやろう」


「良大君楽しそう……」


 気づいたら口から出ていた噓偽りのない本音。正直、彼がこう見えたのは今日が初めてじゃない。おかしい。彼はどうしてこうも楽しそうなんだ。人の不幸は蜜の味だと思うタイプの人間なのだろうか、なんて一瞬思いもしたけれど、違うということにすぐに気づく。彼には悪意がない。それに、一応心配だってしてくれている。なんだ、やっぱり良い人じゃん。

 それはまだわからないよ。でも一つ、彼に役割を与えるとしたら、それは。


「探偵?」


 何言ってるんだろう。そんな、馬鹿げた役割を負いたい人間なんているのか。でも、この人の発言や態度からして、探偵ごっこがしたいだけの子どもみたいだし、もしかしてあながち間違っていないのでは。今まで、味方とか救世主とかヒーローとか、そういうイメージが浮かんだこともあったけれど、今の彼は、それらよりも探偵?

 ちらりと彼の顔を見た。


「え??」


 思わず疑問符を並べる。彼は手で口元を隠し、何故か恥ずかしそうに視線を逸らした。まさか本当にそうなのか?

 少し間があって、ようやく口を開いた彼はやはり照れている。でも、恥ずかしさで誤魔化そうとはせず、私の目を直視して正直に言うのだった。


「……そう、間違ってない。探偵ごっこがしたいんだ、僕は。別に人が死ぬ事件をドキドキハラハラしながら、もしくは冷静に解決したいとか、そういう希望は全くもって持ってないけど、でも命にかかわらない範囲のことで、証拠を集めて真相を得るっていうのにたまらなく憧れていて…………だからさ、クラスメイトが厄介ごとに巻き込まれたと知って、正直最初は喜んでいる自分もいた。それについてはここで謝らせてほしい。ごめん」


 私は、何も言えず、ただ頷くことしかできなかった。どうして彼はこうも、正直なんだ。

 いや、それが信用に値する所以ではある。でも、彼の望みが理解できるかは置いておいて、一つだけ引っかかっていた。

 それは、彼の正直さが彼自身を傷つけない保証があるのかどうかについて。

 私にはできないことだ。

 彼の一風変わった望みを、私は今、笑わない。でも、もしこんなことになっていなければ、彼からその自白を聞いて笑う自分もいたかもしれない。否定しきれない。同様に、私以外の人からすれば、彼の思いは嘲笑の対象になりうるのではないか。

 それでも、彼は本心を言う。

 相手が私だから言ったのだろうか。それは恐らく違うだろう。彼はそういう人間なんだ。自分の考え、望みが全て正しいと信じているわけではないにせよ、それを口にできてしまう。馬鹿げていると言われる可能性や笑われる可能性を自分の中で否定しようがしまいが、自分が好きな物事を正直に、言える。

 一種の眩しささえ感じた私は、また彼から目を逸らしてしまった。

 犯人を引っ掛けるとか方法は回りくどいくせに、こうも真っすぐ。今まで言う機会がなかっただけで、訊いたら教えてくれたはずだ。凄いよ、良大君は。

 眩しさを避けてばかりもいられない。私は再び彼の顔を見た。やや火照っているが、既に真剣な表情に戻っている。


「とにかくクラスの雰囲気的にも明日は覚悟した方がいい。僕は周囲が何と言おうと、海本さんが【ワイスピ少女】だと認めない派を演じる。演技力に自信があるわけじゃないけど、そこは上手くやるから安心してくれ」


「ありがとう」


「それと、なるべくいつも通り動いてほしい。朝、教室に入ったら真っすぐに木乃香のところへ向かうだろう? 明日もそうして。犯人を引っ掛ける計画の詳細は後で送るから、家に帰った後にでも確認して」


「うん」


 この狭い空間に長居するのは良くない。どこで、誰が見ているかもわからない。彼の言う通り、私は覚悟だけ決めて、準備室から出る。ドアの前で振り返り、一度だけ頷き合った。なんだか私もなんとかできる気がしてきた。

 階段をだだだだだだだだだだっと駆け下りて、廊下を小走りし、昇降口へ。部活休止期間のグラウンドは活気のかけらもなく、校舎内も静かだ。昇降口から出たら、すぐに駆け出す。気持ちが軽いうちに走って、学校から出てしまおう。


「千紋」


 走り出そうとしたのに、名前を呼ばれて振り返る。勿論走るのは一旦中止だ。静かに名前を呼ばれたので、このちゃんに声をかけられたような感覚だった。でも、実際に視界に入ってきたのは、彼女とはある意味反対のクラスメイトだった。


「夢亜…………どうしたの?」


 相手の静かなトーンに、私の声も自然と合わさる。よく見ると、彼女は少し元気がないようにも思える。私は気づいた。それは私にも最近流れた物の痕。やや赤い瞳。彼女は花粉症じゃないはず、教室で大きな声で言っていたのだから知っている。

 「どうしたの?」は私に声をかけた理由に対して、それから彼女の様子に対して。でも、どちらに対する答えを聞くのもどこか躊躇われた。だから彼女の方へ歩いて行くことはせず、その場で立ち止まったままだ。

 天気は快晴とまではいかないが、普通に晴れている。太陽に照らされて木々が影を落とす。その日陰の中に彼女は立っていた。


「…………千紋なら、きっとわかってくれる」


 それだけ言い残して、彼女は私に背を向けた。木陰と同化していた彼女の影は木から分離し、校舎の方へと動いて行った。正直何のことか、私にはわからなかった。訊いたら教えてくれたのだろうか。思ったことは何でも口にする、少しうるさいクラスメイト。そんな彼女が本心をぶつけてこなかったことに少なからずもやっとした。でも、無理に追及したところで仕方ない。今は家に帰って、良大君の計画に目を通さなくては。

 私は再び動き始め、足早に校門をくぐり抜けた。



 帰宅し、自室でスマホを見た。計画を送ってもらうために彼と連絡先を交換した。既に通知が何件か付いている。見てみると、案外要点だけに絞られた簡素なメッセージが綴られていた。


『明日、盗撮犯の正体を暴く。海本さんは放課後図書室へ。誰か連れてくるといいかも。隣の席の人でも誰でも可』


「…………何がしたいんだろう」


 ベッドの上で一人呟く。良大君の考えていることもいまいちわかっていないのだ。思い返すと、何か私が他者についてわかったと感じたことなんてあったのだろうかという不安さえ感じる。

 それでも、彼が信用できる人だということだけは間違いない。彼は本心を話す人間だから。指示と言えるのか疑問の残るメッセージであっても、私は脳内で明日をイメトレしながら、対策を練る。今の私にできるのは、そんなことと普段通りの一日の終え方をすることだけなのだ。

 対策しても全く外れることだって多い。それでも、後に来る後悔を少しでも減らすためには、対策することは無駄じゃない。

 結局、私はこの日、一人の時間に何を考えていたのか。

 朝になったら忘れていた。対策なんてそんなもんなのかもしれない。

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