4.感涙凍結
目を覚ましたのは午前九時だった。
ちゃんとスマホのアラームもセットしておいたはずなのに、昨日は早くベッドに入ったはずなのに!
時計を見た私は飛び起きた。やばいやばい。電車乗って、学校の最寄りも通り越して、降りた駅から徒歩五分!
楽しみすぎて眠れないタイプの私は昨晩ベッドに転がってからというもの、やはりなかなか眠れなかった。だいぶ長い時間、意識がはっきりしていたので、四十分くらいの長さのアルバムが一、二周したのを覚えている。
あとニ十分くらいで準備して家を出なきゃ遅れてしまう。
急げ急げー! と自分に言い聞かせながら、リビングに行ってトースターに食パンを入れて焼かせている間に、先に着替えをしてしまうことにした。
あー、もう何してるの私。昨日のうちに着る服決めておけばよかった。でも、その日の気分で着る服は変わってくるし、寝坊したのが全て悪いという答えに舞い戻ってくる。一度自室に戻った私はクローゼットを開いて迷いに迷っていた。
地味に涼しい日もあったので、まだ衣替えが終わっていない。何を着ていくか、まずは服探しから始まることになる。起きたときに天気を確認したけれど、夜のうちに雨は止んだので、今日はまたまた暑い一日になるとのことだった。
平日は制服を着ているから私服の衣替えが疎かになってしまっていた。ほんと、どうせ眠れなかったのなら、昨晩のうちに衣替えしといてよ、昨日の自分。
言っても仕方がないので、「わーわー」と小さく悲鳴を上げながら着る服を選んだ。なんとか今日の気分と天気に合った服を見つけたので、急いで身に纏う。
うん、デニムの気分だった。上はもう半袖じゃないと正直死ぬ。日焼けしたくないからと言って長袖を着ている人も多いらしい。でも流石に無理だ。風通しが良くて薄い生地の上着くらいなら着れるかもしれないけれど、生憎ちょうどいいのが見つからなかったので、日焼け止めと日傘で対策するしかない。おっけー、服はいい感じ。
鏡を見て、メイクもしなきゃ、となる。
特にセットしなくても寝ぐせの付きにくい私にとって、髪は一番後回しになることが多い。今日は特に弄れないかも。
以前身支度に時間がかかりすぎて遅れたことがある。家を出たのは十分ほど遅かっただけなのに、電車が遅延していたり、自転車がパンクしたりで散々な目に遭って、結局一時間以上友達を待たせてしまったことがあった。それがあってから、約束に遅れる方がよっぽど罪だと自覚したので、削れるところはやむなく削るようにしているのだ。
「んんー! すっごくナチュラルメイク! でもこれくらいがちょうどいい!」
声に出すと納得できる、気がする。ついでに「可愛い、最高、今日の自分めちゃ輝いてる!」と高らかに叫んでみたり。誰も居ない場所で焦っていると普段なら言わないようなことを平気で言えてしまう。ま、ちょっとは自信に繋がるからいいのだけれど。
時間を確認すると、あと五分で家を出ないと間に合わないくらいになっていた。財布や持ち運びやすい化粧品、手鏡、リップ、日焼け止めなどの入ったポーチなどを、学校に行くときに使っているリュックとは異なる鞄に入れ替えた。結局髪はほぼ手つかずのままだけれど、ポーチの中にちょっとくらい髪を弄れるものは入っているのでこのまま行くことを決意した。
準備を完了させ、靴を履いているとお母さんの声がした。
「千紋! パン焦げてる!」
「あ!」
パンをトースターに入れたままだったことを思い出した。うちのトースターはパンが焼き上がると飛び出してくるタイプではなく、自分でダイヤルみたいなのを回して起動させるタイプ。いつも適当に回しておいて、ちょくちょく様子を見ながらほんのりと焼き目が付いたら取り出すようにしている。まさか、時々勘に頼る癖がこんなところで裏目に出るとは。
お皿に乗った表面の黒く焦げたパンを見せながら、お母さんは続ける。
「これ表面を削ればまだ食べられそうよ。勿体ないし、家に帰ったらこの苦みをちゃんと味わって反省するのよ」
「うぇ…………わかった……」
家に帰ってきたら焦げたパンが待ち構えていると思うとちょっと憂鬱な気分にもなった。でも、それよりも、今日は休日。友達と約束してる。楽しい一日が始まると考えれば、焦げたパンなんて、帰宅後何枚でも食べられる気さえした。
「行ってきます」を言って、家を出た。まだ太陽が本気を出し切っていないのにも関わらず、この暑さ。朝スマホを確認したらこのちゃんから、「おはよ! 今日もめっちゃ暑いからエアコンで部屋めちゃめちゃ冷やしとく!」と連絡があったので、このちゃんの家に着くまでの辛抱だ。
自転車に乗って、最寄り駅へ。ちょうどいい時間の電車があったので、スムーズに乗車した。休日なので、いつもよりも学校方面への電車は空いている。席に座ってスマホを見ようとして手を止めた。危ない、忘れかけてたけれど、音が出るとまずいんだった。最悪自分から音が出ても、マスクをしていればバレないんじゃないかとも思ったのだけれど、この暑さでマスクは流石にきつい。冷感マスクってのもあるらしい。でも、やっぱり息苦しいことに変わりない。
学校の最寄りで一度乗り換える。後から来る電車の方が若干早いからだ。駅のホームで電車を待っていると、偶然見知った顔に出会った。
「あ、うみち! やっほー」
手を挙げて、ニコニコしながら近づいてきたのは紺ちゃんだった。昨日は突然出ていってしまって申し訳なかったなと思い、改めて謝ったけれど、彼女は「いいよいいよ! 皆それぞれ忙しいだろうし」といった調子で、心の広い対応をされてしまった。
「紺ちゃんは今日何か予定あるの?」
この時間に学校の最寄りに居るのだから大方部活関係で何かあるのかなと思った。でも、よく見ると私服だし、学校に用事がある感じではなさそうだった。
紺ちゃんは今日もポニテで、シースルーのブラウスを身に着けていて、なんだか涼しげだった。じりじりと焼かれるような暑さでも彼女を見れば幾分か涼しい気持ちになれそうだ。
ずっと笑顔の紺ちゃんはその表情を崩さずに今日の予定について答える。
「んー、適当に夏物の服買いに行こうかなーって思ってたんだけど」
「へぇー、いいねー!」
「やっぱやーめたっ」
「え? どうして?」
服を買いに行くのは凄く良い休日の使い方だと思ったのに、どうやらやめてしまうらしい。気分一つで予定変更できてしまうことにとても驚く。でも、紺ちゃんがその後に続けた言葉に私は更に驚かされた。
「折角うみち見つけたし、くふふふふ…………君を尾行させてもらおう」
悪役のような笑いを添えて、とんでもないことを言いだした。今日の私の予定、それは、このちゃんの家で映画を見ること。このままついて来るとなると、紺ちゃんも一緒に映画を見ることになるのでは? それはどうなんだろう。皆で見た方が楽しいじゃん! って言えるような内容の映画ではない。軽い気持ちで一緒に見て、凄く悲しい気持ちにになる可能性だってある。
うーん、紺ちゃん自身のためにも、一旦やんわり断ってみるか。
「尾行するって言われても…………いきなりすぎて」
「あ、もしかして」
「それに服を買いに行くチャンスも休日くらいしかないだろうし、そっちを優先した方が」
「デート?」
「は」
思いがけない方向からボールが飛んできて顔面を強打する錯覚に襲われた。目の前が一瞬ぼんやりした。私の反応を見て、「きゃあー、誰? 誰と?」と迫って来る彼女を落ち着かせるには本当のことを言うしかない。
「デートじゃないし。このちゃんの家で映画見るだけだし」
「なんだー、彼氏でもできたのかと思って焦ったー。ん? でも、お家で映画…………映画デートって言えないこともないか」
「デートに拘りすぎ。あ、電車来たから行くね。じゃあ」
暑苦しい空気から、急激に寒いと感じるほどの涼しさへ。ちょうどホームへと到着した電車のドアが開いたので、そそくさと乗り込もうとした。強引に振り切ろうとしている。別に紺ちゃんが邪魔だとかそんなことは微塵も思っていないけれど、今日は紺ちゃんのためにもこのまま行かせてほしい。
「へぇー、酷いね。このまま振り切ろうとするなんて。らしくないねぇ」
私が電車に乗ると、ワンテンポ遅れながらも彼女もぴょんっと乗り込んできた。私の顔を覗き込みながら、普段よりもやや低めの声色で彼女は詰め寄ってきた。うわ、どうしよう。やっぱり今日に限ってはちょっと邪魔なのかもしれない。
車内はガラガラだった。おじいさんやおばあさんが数人、席と席に間をあけてポツンポツンと座っているくらいだ。それと小学生くらいの兄弟? が一組。街の中心部から離れていくので、当然と言えば当然なのだが。
電車の座席に座ると彼女も隣に座ってきた。なんだかずっと話しかけてくる。普段の彼女はもう少しだけ大人しいと思うのだけれど。やけにテンションが高い。
「うみち、今日はデニムなんだー。色好きー」
「ありがとー、そっちの服は見るからに涼しそう」
「ま、透けてるからね。ふふっ、透明感が溢れ出すよ」
その後もお互いの服についてなんとなく感想を述べあった後、紺ちゃんの趣味の話になった。と言っても、彼女が勝手に話し始めただけなので、私は相槌打つ係りに徹することにする。
「もうすぐ本格的に夏来るじゃん? 夏と言えば減量っていうイメージない?」
「んー、まあ」
「海とかプールとか行くときに太ってるのが嫌だみたいな感じの理由で、クラスの子たちもダイエット始めるー! とか言ってるけどさ」
「うん」
クラスの子たち、が指しているのがどんな人たちなのか、大方予想がつく。夢亜とその愉快な仲間達のことだろう。教室でいつでもうるさくしているから、私もそんな話題で笑い合っているのを聞いた。
紺ちゃんがその後に何を言うか、数秒の間に考えた。彼女たちへの皮肉も込めて、「どうせお腹ぷにぷにしたまま夏を迎えるよねー」かな。それとも、「痩せれば彼氏できるとでも思ってるのかなー」かな。うわ、どっちも皮肉じゃん。秒で二つも皮肉を思いついてしまった自分自身がちょっと嫌になった。
実際、紺ちゃんの言葉が、私の予想から遥かにかけ離れたものだったので、私は少なからず動揺した。でも、よく考えてみれば、彼女はそんな皮肉ばかり言うような子じゃない。
「ラーメン巡りはやめられないよね」
「ほぇ? 逆張り?」
ニヤリと笑みを浮かべた紺ちゃん。そういえばちょっと前に一緒にラーメンを食べに行ったことを思い出した。一人でも次々とラーメン屋を開拓しているという彼女だけれど、特におすすめだというお店に連れていってくれたんだった。
確か今週の火曜日、偶々部活がお休みだった彼女と一緒に、電車に乗って食べに行ったラーメン。チャーシューが分厚くて、スープもこってり。背徳感に溺れろ、太れ! と言わんばかりのボリュームに一瞬怯んだけれど、なんとか食べきったのを覚えている。お店の大将が食べきった私たちを褒め称えまくって、ニコニコしていたっけ。
「運動してるからかな。全然太らないし、皆が減量してる間もラーメン食べまくっちゃおー」
「やっぱ皮肉であってた……」
「ん? うみちも一緒にラーメン巡っちゃう? でも、最近はまぜそばにもハマってるから、まぜそば食べるかもしれないけど」
「時々だったら」
「やったー、早速なんだけど、来週どう? 部活ない日にさ、帰りに寄ってかない? 学校から近いのに意外と見落としてたお店があって」
私は「しょうがないなぁ」という演技をしながら、その提案を受け入れた。内心、誘ってくれること自体嬉しいし、ラーメンも彼女ほどではないけれど好きではある。なので、楽しみが一つ増えたと思えば万々歳だ。
それからも降車駅に着くまで、ひたすらにスマホで撮ったたくさんのラーメンの写真を見せつけてくる紺ちゃん。寝坊したせいで朝食を食べられず、こうして今、お腹が鳴るのを我慢しながら座っている私にとって、それは一種の拷問か何かかと思えた。
彼女には申し訳ないけれど、写真を見ているフリをしながら適当に「えーめっちゃ美味しそう」とか、「食べきれる気がしないよー」とか、とりあえず何パターンかの相槌をローテーションして発しながらも、窓の外を見て気分を紛らわしていた。うう、お腹空いた。
「でねー、このスープが、超こってりしてて、流石の私もギブ寸前だったんだけど! そこにご飯を投入したり、酢をかけたりしたら食べきれたんだよ」
「えーめっちゃ美味しそう」
「でっしょー、私は結構こってり派なんだけど、うみちはこってりとあっさりどっちが好きだっけ?」
「やっぱチャーシューが肉厚なのがいいねー」
「なるほど? スープよりもチャーシューに重きを置いてるタイプなんだ。じゃあこれとか好きなんじゃない? めちゃくちゃ肉厚で、ジューシーだよ。しかもお皿の端から端まであるサイズ感。めっちゃ長い!」
「食べきれる気がしないよー」
「あははは、確かにラーメン初心者には苦しいかも! でも、こんなに大きいのに飽きないんだよね、これが。きっとスープや麺と上手く合うように味付けされてるんだろうねー。ひゃあー、また食べたくなってきた」
「えーめっちゃ美味しそう」
意外とローテーションに含まれていた相槌のパターンが少なかった。しかし、奇跡的に話に噛みあっていて、暫くは違和感なく相手に喋らせておけた。ただ、とあるタイミングでどうやらラーメンのお皿の話をし始めたらしく、「この白くて洗練されたデザインのお皿に細い麺を乗せると映えるように工夫されてるんだって」に対して、「やっぱチャーシューが肉厚なのがいいねー」などと的外れなことを答えたらしく、そこでようやく「ねぇ話聞いてる?」とツッコミが入った。確かチャーシューという言葉を少なくとも五回くらい発した気がするけれど、よくそこまでバレなかったなと逆に感心してしまった。
本当は途中どころか、写真を見せられ始めてすぐに窓の外の景色で空腹を誤魔化し始めたのでほとんど見ていなかったけれど、正直に言ったら流石に彼女の機嫌を損ねてしまうと思い、「ごめん、途中からぼーっとしてた」ということにしておいた。彼女は頬をぷくーっと膨らませていた。
写真を見せながら話すことを止めた彼女は、まだラーメンについて熱弁したかったらしい。話のシメに、紺ちゃんにとってのラーメンとは何なのかについて聞かされることになった。
「いい? 私にとってラーメンは、ラーメン巡りは、リセットなんだよ。毎日色々なことがあるけど、良いことも悪いことも含めて、そこで一旦区切りをつける。一杯のラーメンが新しい日々への希望をくれるってことだよ」
「なんだか凄いね。情熱に満ちてる」
「ふふん、そうでしょ?」
彼女のラーメン好きにはそんな理由もあったのか。そこまで深い理由を持って何かを好きになることのない私にとって、彼女の考え方は少し不思議にも思えた。それと共に羨ましくも思えた。
言いたいことを全て言い尽くした彼女はようやく大人しくなる。もうすぐ到着だというのに、席に座ったまま目を閉じた。もしかして、このまま寝過ごすんじゃない? じゃあ、可哀想だけど置いていくか。なんて思っていたけれど、なるべく静かに席を立ち上がったはずなのに、ぱっちりと目を開いた紺ちゃんは私の腕を掴んで、「あ、置き去りにしようとした」と再び詰め寄るように言った。ちょっと怖いまである。
「本当について来るの?」
「当たり前じゃん。早く行こうよ」
当たり前ではないと思う。無人駅の改札を通って、私たちは再び灼熱の大地へと降り立った。折角冷えた体も、既に汗を放出し始めている。紺ちゃんも鞄からタオルを取り出して汗を拭っていた。
この駅からこのちゃんの家までは徒歩五分くらい。あとちょっとの辛抱だ。
「んー、暑いね……今年こそ夏越せない気がする」
本気でそう思っている顔で、紺ちゃんが呟く。夏越せない、にはかなり同意見だけれど、もし本当に越せなかったとしたら、それはつまり死を意味するので、結局今年も全力を尽くして、この暑さに抗っていく。私だけじゃない。人類全体で、だ。
道中、歩道にまだ解けたばかりのアイスが落ちていたのを見て、ここで誰かのアイスが悲しいことに地面へと不時着していしまったんだということを悟り、アイスを落としてしまったどこかの誰かと、誰かの口に入ることのできなかったアイスのことを想像して、少し心を痛めた。
暫く歩いていると、街路樹が立ち並んでいる通りに出た。この通りにはスーパーやコンビニ、ドラッグストアに小さな病院など、生活を支えるお店などが連なっている。
その通りを歩き続け、二つ目の信号で左折。近くに公園が見えたら、住宅街に入って行く。その住宅街の中にある建物の一つがこのちゃんの家だ。屋根の色は見えないけれど、クリーム色の壁に、控えめなサイズの窓がいくつか付いている。お洒落なことに英語で書かれた表札。これを見るのは何度目だろうか。意外と多くはない。因みに、このちゃんの親戚が私の家の近くで歯医者をやっていて、その歯科医院へ行った回数の方が多い。予防も兼ねて定期的に歯面清掃をしてもらっている。
インターホンの前に立つ私。指をインターホンの目の前まで近づけて、押す直前で動きは止まっている。ハンディファンを取り出して、それでもまだ暑そうにしている紺ちゃんは首を傾げた。
駅に着いてしまってからはある程度諦めてはいた。けれど、隣に今日は居るはずのなかった人物が立っている状況に改めて戸惑っていた。
紺ちゃんを振り切れなかったのは正直私の中では大問題だった。確かに紺ちゃんはとても大切な友達だ。でも、私が一緒に映画を見ると決心したのは彼女ではなく、このちゃんとなのだ。こんなことを言うと、心の狭い人間だと思われるかもしれない。そうだとしても、今の状況にどうにも納得できない。原因はわかっている。
このちゃんと仲良しである理由と、紺ちゃんと仲良しである理由は違うから。
普段なら皆で仲良くすればいいと思う。でも、今日は駄目なんだ。
このちゃんは私にとって、本や物語が好きな友達。彼女にも今日見る映画を見たことがあるとは言い出せていないけれど、そのことは置いておいても、私の中にある、ちょっとは物語が好き、という思いを共有できる友達。だから、私の好きな物語の話を彼女と共有するのは許せる。
でも、紺ちゃんは私にとって、音楽と食べ物が好きな友達。彼女とだけ共有している話だってある。中学生の頃は、私と同じで吹奏楽部に入っていたことからも、共通の話題があって仲良くなった。ラーメン巡りだって、私は紺ちゃん以外の人とはしていない。
友達の棲み分け、なんて言葉が思いついた。
私は友達との関係を勝手に都合よく使い分けているんだ。現に、今話題の【ワイヤレススピーカー少女】と呼ばれている動画に映った人物が私であることを、このちゃんには自ら明かし、紺ちゃんには未だ隠している。
好きなものも、嫌いなものも、秘密も。友達だったら誰にでも言えるわけじゃない。だから、今日は紺ちゃんについてきてほしくなかった。知られたくない。今日見る映画について、私は好きだけど、彼女は好きじゃないかもしれないし。感想は人それぞれだから無理に想いを押しつけるつもりもない。別に嫌いなら嫌いでもいい。そのはずなんだけど、そんな違いを受け止める覚悟をしてインターホンの前に立っていない。
「なにしてるの? 暑いし早く押しちゃおうよ」
こっちはまだモヤモヤしているというのに、私の手の上に彼女の手が乗ってきて、私の意思とは無縁にインターホンが押されてしまった。まだ心の準備できてないのに!
心の準備が整ってから家に入れて貰えば、もっと冷静に対処できたこともあったかもしれない。
数秒待つと、家の中からガタガタと音がした後に、ガシャリと鍵の開く音がして、玄関からひょっこりとこのちゃんが顔を出した。こちらを見た彼女も驚いた顔を隠さなかったけれど、「おはよー、暑かったでしょ? 二人とも入ってー」とだけ言って、私たちを家の中へと招き入れた。
「おじゃましまーす!」
本来ここに居るはずのない人物が一番元気よく家の中に入って行くので、私はもう何がなんだかわからなくなって、一旦考えるのをやめた。状況を掴めていないのはこのちゃんも同じだったようで、ずっとそわそわした様子。でも、訊かないわけにはいかないと思ったのだろう。私たちを自室へと案内した後、このちゃんが紺ちゃんに言葉をかけた。
「宮重さん、どうして突然家に?」
ようやく覚悟を決めたのか、ストレートに質問した。このちゃんは紺ちゃんを苗字呼びしている。仲が悪いわけではない、でもそこまで深い繋がりもない。まさに友達の友達って感じだ。私にはそう見える。
それに対して、紺ちゃんはニコニコしながら言う。
「駅で偶然うみち……千紋と遭って! 木乃香ちゃんの家で映画見るっていうからさ、行けるところまでついていってみようって感じで歩いてきたら、家まで来れちゃった」
そんな適当な理由でいいのか? とヒヤヒヤしながらこのちゃんの方を見ると、案外穏やかな顔をしていた。
「あはははっ、行動力お化けだね」
「でしょ? 私、高校生になってから行動力だけは磨いてるつもりだよー。それに、今日会わなくたってそのうち会ってたって」
紺ちゃんは謎のウィンクをこのちゃんに送る。
「あはは…………それはそうかもー」
ちょっぴり困った顔をするこのちゃん。きっと紺ちゃんの強引さに圧倒されているのだろう。
二人が楽しそうに話しているのを見て、私はひとまず安心した。今までこの二人が一緒に居るのをあまり見たことがなかったし、もし険悪なムードになってしまったらどうしよう…………と心配していたけれど、全くもってそんなことはないみたいで良かった。そう思っておく。
「私の部屋で見てもいいんだけど、ちょうど家族が一日お出かけ中だからさ、リビングで見た方がもう少し大きな画面で見られるかも。それでもいい?」
「うん、どこでも大丈夫だよ」
私がそう答えると、彼女は紺ちゃんにも確認した。「私もどこでも大丈夫」という返答を聞いたこのちゃんは、私たちを連れて、一階のリビングへとやって来た。
私は内心思った。紺ちゃんも一緒に見るの? と。
でも、ここまで来たら見るのだろう。今更帰れだなんて、私には言う権利も勇気もなかった。
「涼しー」
部屋に入ると紺ちゃんと声を合わせて、涼しさを噛みしめた。
リビングも既に冷やされていて、このちゃんの完璧な準備に恐れ入る。それに比べて私は寝坊した、なんて言えるはずもないので、絶対に言わない。
「私の部屋で見たとしても、結局キッチンは使うし、エアコンはこの部屋もつけておいたんだ」
このちゃんの言葉で思い出す。そうだった、今から謎の買い出しタイムのためにまた外へ出なくちゃいけないということを。
買い出しは楽しそう。紺ちゃんもいるし、よりワイワイしながら買い物できそうだし。でも、あの蒸し暑い空気の中へもう一度足を踏み出す気力が…………
というわけで、もう暫く涼しい室内で休憩することにした。
このちゃんは何やら準備したいことがあるとのことで、一度自分の部屋へと戻っていった。なので、リビングには私と紺ちゃんの二人が残された。
テレビに向かって置かれたふかふかのソファーに座って、室内を見回してみる。このちゃんの家はとてもスッキリとしている。清潔感がある、というか。無駄なものがない、というか。
同じくソファーに座ってふやけている紺ちゃんは、スマホを弄っていた。チラッと画面を覗いてみると、何か動画を見ていたようだ。覗こうとしているのに気づいた彼女は、すぐに画面を隠し、「勝手に画面覗き込むなんて、変態だっ」と言い放った。勿論、私を傷つけるような意図はない。そういう遊びだろう。
リビングのドアが開いて、主が帰ってきた。手には何やら平たい直方体の段ボール箱を持っている。
「今日のお昼にこれ食べようと思ってたんだけど、六人前あったから良かったー」
「それ何?」
私が訊くと、箱の表面を見せてくれた。そこに書かれた言葉に、私よりも先に紺ちゃんが食いついた。
「博多ラーメン!」
目を輝かせる彼女には、このラーメンがどうして今日のお昼ご飯になるのか、その理由を説明しなければならない。しなくても後々わかるから必須級ではないけれど。見事箱の中身を当てた彼女に、このちゃんが何かを言おうとしたけれどやめていた。
「ところで、何の映画見るのー?」
今更だけど、と付け加えて、私たちに訊いてきた紺ちゃんに、映画の題名を告げると、「へー、名前は知ってるけど見たことない」とのことだった。もう八年も前の映画だ。知らなくても当然。逆になんで私は知っているのかって? それは偶然。数年前に金曜ロードショーで見たのが最初だったと思う。その事実は誰にも言わないけど。
「映画の中で福岡でラーメンを食べるシーンがあるんだよ。他にも色々食べてたなぁ……というわけで、そろそろ買い出しに行くんだけど、ずばりテーマは?」
ちょっとノってきたこのちゃん。答えが私にはわかった。でも、ここで即答は危ない。映画を見たことがあるとバレる可能性がある。なので、紺ちゃんの顔色を窺う。あ、わからないって顔してる。
一応考えたフリを挟んでから、「映画に出てくる食べ物」と私は答えた。このちゃんは「大正解!」と言いながら、楽しそうに笑った。
「ちなみにこのラーメン、実写映画で主人公たちが食べてたお店のラーメンなんだよ~、ネット販売してたから買ってみちゃった。福岡まで行くのは遠いしね」
「凄いねこのちゃん、そこまでするとは」
「折角なら、口も映画の世界と同じ口にしておきたいでしょ?」
このちゃん。流石に用意周到すぎでしょ。
好きで何度もこの映画を見ている私でさえ、そこまでの準備をしたことはない。新たな試みに胸が躍るのもあるけれど、同時に私よりもこの映画が好きなのかも、と思って少し悔しかった。
自分の複雑な思いは胸に押し込め、私たちは遂に、太陽がギラギラと輝く空の下に姿を現す決心をした。エアコンの効いた部屋から出るだけでも、ぐったりしてしまうというのに、ここからまだ暑くなるなんて。
歩いてきた道を戻り、道中に見かけたスーパーに入った。
「す、涼しいいいい」
思わず、三人揃って声を上げた。勿論、他のお客さんの迷惑になるほど大きな声は出さない。でも、心の中では飛び跳ねて喜んだ。スーパーの涼しさは尋常じゃない。ずっとここに居れば熱中症とは無縁です、と言われれば、軽く信じてしまいそうなものだ。
「卵買おう。それとネギと海苔。チャーシューはとっておきのがあるし、きくらげも買ってあるから大丈夫」
「木乃香ちゃん、しごできすぎる!」
残りの私たち二人は、このちゃんの完璧な準備に頼り切ってしまい、ほとんど後ろに着いて歩いているだけだった。
これでは流石にまずい、何のために皆で買い出ししてるんだ? と思えてきたので、紺ちゃんの肩をポンポンと軽く叩き、「ラーメンはこのちゃんに任せて他の食材探しに行こうよ」と言ったところ、「ごめん、ラーメンの具材をじっくり観察したいから、うみち探してきてー、お願い!」と返されてしまった。
そういえばこの子、ラーメン大好きだった。電車での話をなんとなーくで聞いていたので忘れていた。それなら仕方ない。あの映画には他にも食べ物は色々出てくる。一人なら逆に行動しやすいかも。
「じゃあ他の食材探してくるねー」
調味料コーナーにいた二人に声をかけ、私はその場を離れた。
スイーツコーナーは他の場所に比べて更に涼しい。特に、アイスが置かれた巨大な冷凍庫の近くはオアシスだ。
吸い寄せられるようにそこへ向かった私の脳裏には、主人公たちが多種多様なスイーツを美味しそうに食べるシーンが蘇ってくる。どうせスイーツを買うのなら、ちゃんとケーキ屋さんとかで買った方が、もっと美味しいものが食べられるに違いない。しかし、今回の買い出しのテーマはあくまでも、「映画に出てくる食べ物」だ。全く同じは無理だとしても、似たような味を再現するのなら、お手頃価格でいつでも食べられそうな、言ってしまえば美味しすぎない商品がちょうどいい。感動的な美味さは求めていないという、やや失礼な選択理由。
かごを手にした私は、適当に小さめのケーキをいくつか入れた。それから、お菓子コーナーへ移動し、ポテチも入れる。味はコンソメ。私はうすしお味の方がシンプルで好き。でも、劇中でコンソメ味だったから。流石にこれは攻めすぎか? バレるかな? とも思ったけれど、偶然を装ってコンソメ味を机に広げたときに、このちゃんが喜んでくれる顔が容易に想像できた。多少のリスクよりも友達が喜んでくれる方が得られるものは大きいと思う。
さて、他にも何かないかなーと一人で散策を続けていると、後ろから肩をトントンと叩かれた。いけない、集中しすぎて周りの声が聞こえてなかったのかも。
急いで振り返ると、知ってる顔が無表情でこちらを覗いている。今日は眠そうじゃない。
「えっ、どうしてここに?」
「それはこっちの台詞。海本さん、家こっちの方じゃないよね」
手に提げたかごの中にスナック菓子を山盛りにしているこの人は。いるはずのない人物を前にして、たどたどしい反応しかできない。
「えっと、友達の家で映画を見るんだー。良大君はそんなにお菓子を買ってどうするの?」
「あーこれか。これはー」
「おーい良大、その子誰? 高校の友達?」
彼が何か答えようとしたのを遮るように、彼の後ろからひょっこりと見知らぬ顔が現れた。きっと彼の友達なんだろう。髪を刈り上げていて、腕の筋肉は盛り上がっている。加えて少し日焼けしている。いかにも運動してそうな人だ。持っていたかごをその人に渡しながら、良大君は言う。
「同じクラスの知り合いだよ。こんなところで会うなんて珍しいなと思って声かけてみた」
「へぇ、やるじゃん」
からかうように良大君を肘で小突く。彼にこんな感じの友達がいるのは意外だなーと思った。私は商品の陳列棚に視線を戻し、お菓子ハントに戻ろうとした。しかし、いつの間にか手ぶらになっていた良大君はまだそこに居て、自ら声をかけてきた。
「海本さん、今日は誰と映画を見るの?」
訊く場所とタイミング、表情や声のトーンをミスれば、なんだか質問以上の意味を含んでしまいそうな質問。でも、彼からは言葉以上の意味は伝わってこない。
「同じクラスだから知ってると思うけど、このちゃんと紺ちゃん」
「木乃香と宮重さんね」
私は何気ない彼の相槌に違和感を覚えた。この一瞬で、私の脳はフル回転。あれ、もしかしてだけど。
「……このちゃんと知り合い?」
彼はあからさまに「口が滑った」という顔をした。今更否定するのは無理だと悟ったのだろう。すぐに「中学まで学校同じだった」と答える。え、何それ。今まで知らなかったんだけど。以前は出尾木乃香さん、なんて言ってたくせに。
どうして黙っていたのか訊くと、言うタイミングがなかったからだと言った。このちゃんにとって高校からの友達である私よりも、このちゃんの色々な姿を知っているんだと思うと、素直に羨ましいなと思った。
かごを失った彼はまだお菓子を手に取っている。あとでかごに入れに行くのかな。なんて思いながら、一番訊きたかったことをまだ訊けていなかったことを思い出す。
「良大君はどうしてここに?」
「買い出し。今日、さっきの友達の家で焼き肉やるんだ。幼馴染ってやつ。僕や木乃香とも知り合いだし、よかったら食べに来なよ。どうせ肉買いすぎて食べきれないだろうし。クソ暑いのに庭でやるって言って聞かないから参っちゃうよ。それはそうと、いつでも来ていいよ、ほんとに」
友達の許可なく勝手にそんなこと言っていいのだろうか、とは思ったけれど、もし余裕があったら行くねとだけ伝えて、お菓子コーナーから離れることにした。
良大君に背を向けて歩き出したところで彼がかけてきた言葉の意味を、私はすぐには呑み込めなかった。
「動画の件、進展がありそうだよ」
「…………何かわかったの?」
「うん。今日海本さん自身の目で確かめられるはず。でも、決して動揺を誰にも悟られないように」
それだけ言い残して、彼は私とは反対方向へと足早に去って行ってしまった。私も二人の元へ戻ると、何やらカゴ一杯に食材が詰め込まれている。
「ええっ、これ全部? 流石に多すぎない?」
「うん、折角だしもつ鍋もやろうって話になってさー」
「まじか」
ふと思い出す。あああ! もつ、鍋…………それも劇中再現。実写映画かアニメ映画、どっちか忘れたけれど、確かにそんな描写があったような。まさか、このちゃん…………物語に出てきた料理、全部やろうとしてる?
このちゃんの顔を見ると、ちょっと照れながらこっちに目を合わせない。あー絶対確信犯じゃんこんなの。加えて彼女は嬉しそうに続ける。
「さっきうちのクラスにいる幼馴染に会って…………もしよかったら焼き肉食べに来てって」
「あああああ!」
「どうしたのうみち? さっきからあたふたしちゃって」
「え、あう、なんでもないよ……」
なんでもなくないけど! このちゃん、私はあなたを舐めてました。作中再現、ここまで来るとそれはもう狂気の沙汰だよ。勿論言えないけれど、流石にやりすぎだ。
ゆったり楽しく、胸をキュンキュンさせながら、そして感動的なシーンはしんみりと。そんな感じで映画を見るかと思っていたけれど、これ違う。めちゃくちゃハードなフードファイトがメインになっちゃうやつだ。
何度も見た映画だし、そういう楽しみ方もアリかもしれない。でも、フードファイトする気分で来てないからなぁ…………うーん。感想を直接共有できるのを楽しみにしてたところが大きいのに、これじゃそんな状況にもならないだろう。
ほんの少し残念な気持ちになりながらも、レジで精算を終え、思っていたよりも高くついた購入金額に三人とも驚愕しながらも割り勘して、買ったものはマイバッグに詰め込んだ。私と紺ちゃんで荷物を持ち、歩いて家へと戻った。相変わらず焼き殺されそうな暑さだけれども、スーパーから家までの距離が近い。それがせめてもの救いだった。
到着すると、流れるように冷房の効いた部屋に入り、荷物をその場に降ろした。先ほどまで座っていたふかふかのソファの上に三人揃って倒れこんだ。
「あ、あづがっだああああ」
今にも息絶えそうな声の紺ちゃん。頷いて激しく同意するこのちゃん。もう同意する気力すら残っていない私。時計を見るともうすぐ正午だけれど、結局私たちが動き出せたのは三十分後くらい。忘れていた空腹が急に蘇ってきたので、昼食の準備をすることにした。ちなみに取り寄せたラーメンはインスタントなので、映画を見始めたら麺を茹でる。
映画の順番的に、まずは焼き肉かスイーツ。この場に焼き肉はないので、とりあえず買ってきたデザート類を食べることにする。
食器棚からデザートスプーンとお皿を人数分取り出してソファの前に置かれたローテーブルに置いてくれたので、ケーキの入った容器の蓋を開けて、机の上に並べた。そこまで種類が多いわけでもないけれど、多少のビュッフェ気分は味わえる。というか、本日一食目がケーキになってしまった。まあいいや、美味しいし。美味しさは正義。
「普通に美味しい」
「ねー」
映画を見ながら会話は弾まない。喋りながら見ると映画の内容が入ってこないし、映画に集中すると人の声は聞こえなくなるし。というわけで、映画を見終わるまではほぼ無言になった。
特に集中して見ていたのはこのちゃんで、ケーキをパクパクと口に入れつつ、一番真剣に画面を見ていた。私も画面に集中しながら食べていたけれど、集中すればするほどケーキの味がよくわからなくなっていく。わざわざ高いケーキ買わなくて良かったな、と後から思った。
主人公とヒロインがなんとも甘酸っぱいやり取りをするので、私たちはもれなく「きゃあー」と声を上げた。現実にはこんなこと滅多に起きない。だからこそ心置きなく「きゃあきゃあ」言える。
そんな青春の日々も徐々に雲行きが怪しくなっていくのだが、悲しみに向かう前に、もうちょっとだけ楽しい話をしよう。ってことで、主人公たちの旅先でラーメンが登場するシーンへ。
事前に行われたじゃんけんで負けた私が麺を茹でる係に任命されていた。なのでソファから立ち上がり、キッチンへ行った。既に準備しておいた鍋に麺を投入。火には気をつけて、でも、しっかりと画面も見る。誤算だったのは、ラーメンが茹で上がる頃にはそのシーンが終わっているということだった。
ラーメン用の器に麺を入れ、事前準備の賜物である具材を乗せる。
チャーシューは昨日専門店で買ってきたという、かなり良いやつ。スライスして乗せると一気に華やかになった。きくらげやネギも乗せ、本格的なラーメンが完成する。これが、劇中で食べてたものかぁ…………なんとも感慨深い。本場の味がお家で楽しめるというアイデアの考案者を称えたい。
「んー、んま! やっぱラーメンだよねぇー」
「美味しい……買ってよかった」
「これ食べてたんだ、いいなぁ」
口々に感想を述べている。でも言いたいことは同じで、つまり凄く美味しいということだけなのだ。味わっている間にも映画は進む。置いて行かれないように必死に見たいところだけれど、何度も見ているので多少見なくても大丈夫だろうという甘えが生まれていた。実際、私やこのちゃんよりも、本当に初見の紺ちゃんの方が画面をちゃんと見ようとしていたように見えた。ラーメンの方が好きなはずなのに、意外だなと思った。
冷蔵庫にもつ鍋の食材を入れていたのは覚えていたけれど、タイミングを見失って結局映画の途中で食べようと言い出す人は誰一人現れなかった。
結局、段々と仲の深まった二人だったけれど、突然訪れた死によってあっけなく引き裂かれてしまう。次の日も当然のように会えるものだと思っていたのに、衝撃的すぎる展開。何度見ても心がモヤモヤするし、当分の間悲しい気持ちにもなる。
私たちは皆、静かにその結末とタイトルの言葉の伏線回収に涙を堪えていた。特に紺ちゃんは堪えきれずに泣いていた。こんな状況じゃ、人の家まで焼き肉を食べに行く気にもなれない。一応、焼き肉の会場は教えてもらったけれど、たぶん暫くはこのままソファに座って余韻に浸っている。
ティッシュで目元を拭くせいで、紺ちゃんの化粧がちょっと落ちてしまっていた。でも、化粧が落ちたところで、彼女の顔は元々良いのでそうそう変わらない。
余韻に浸ることニ十分。部屋の壁に設置された時計は午後三時を指している。ちょうどいい。さっき買ってきたコンソメ味のポテチを開封することにした。
「わぁー、コンソメ味って、映画で出てきたのと同じだ! ね、もしかして千紋、この映画見たことあったの?」
袋を開けてすぐにこのちゃんに鋭いツッコミを入れられ、内心ドキッとした。でも、予想していた反応なので、事前に対策済みなのだ。
「そんなわけないじゃん、偶然だよー。今日はコンソメの気分だったの」
「私コンソメ味が一番好きー。うみちは?」
「シンプルにうすしお味かなぁ」
「シンプルだねー。でもシンプルイズベストとも言うし。木乃香ちゃんは?」
「んー、バター醤油系とか好きかも。あと酸っぱかったり辛かったりするやつ」
「いいね! 私も好きー。結局ポテチってどんな味でも大体美味しいよねー」
先ほどまで涙を浮かべていた顔は、ポテチのパリッという音と共にどんどん明るくなっていく。ポテチマジック、あるかもしれない。
私とこのちゃんもパリパリ。劇中ではお酒を飲んでいたけれど、未成年なのでジュースにしておく。まあ、主人公たちも未成年だったけれど。フィクションと現実はそこのところ、厳しさが違う。ほら、自転車の二人乗りだって、なんとなく青春ってイメージあるくせに現実でやったら怒られるし、裁かれるじゃん。
「そうだ。二人とも、映画どうだった?」
このちゃんがようやく切り出した。皆それぞれ余韻に浸っていたから、いつ切り出そうかタイミングを見計らっていたに違いない。今日の私は徹底して、この映画は初見ですムーブをしているので、ここでもその姿勢を貫かせてもらう。
「段々仲が深まっていくところにドキドキしたけど、まさかヒロインがあんなにもあっけなく亡くなっちゃうとは思ってなくて、言葉にできないくらい悲しい気持ち。でも、それ以上に凄く見てよかったなって」
「私は初めて見たんだけど、大体うみちと同じ感想かな。なんというか、この悲しい気持ちを心のどこに置けばいいのかわかんなくて。あー殺人とか許せない。ほんと人を巻き込むなよって思う」
多くの観客をモヤモヤさせるのは、この殺人鬼の存在だろう。後から思えば伏線はあったものの、まさかどこの誰とも知らない人にヒロインが急に殺されるなんて誰も思わないでしょ。
私たちの感想を「ふむふむ、なるほどね」と真剣に聞いていたこのちゃん自身の感想も大方私たちと同じで、違うところがあるとすれば、主人公の大人しい性格に自分自身の内面を重ねて感想を述べた点くらいだろう。
「やっぱり言いたいことを全部言うのって難しいなって思ったんだ。伝えたいことだけでもできるときに伝えなきゃって凄く思わされるんだよね、この映画見ると。でも、実際にそれを全て口にできるかと言われるとそうじゃない。勇気がいることだと思う。思ってることをちゃんと言うっていうのは」
「確かに、言いたいことを言えないうちにいなくなっちゃうっていうのがよーくわかる話だったかも」
紺ちゃんがこのちゃんの意見に同意した。私もそうだなと思ったので頷く。
「でしょ? ちなみに私、今、勇気を出して思ってることちゃんと言ってるよ」
このちゃんは何気なく言ったのだとはわかっていた。けれど、なんだか私が事実や本心を隠して話していることを見透かされているように思えた。
それからもポテチを食べながら話していたのだけれど、映画の話から徐々に私たちそれぞれについての話へとシフトしていった。一つのことについて話していたかと思いきや、いつの間にか次の話題へ。高校生の会話って流動的だから。
引き続き、冷房のよく効いた部屋で、ソファに座って喋る。外は酷暑だというのに、室内はここまで快適だなんて。このギャップに対応するのは至難の業だ。
「え! 木乃香ちゃんもあの人好きなの? え、ええっ、一番好きな曲は?」
このちゃんが答えると、「私も! 私もその曲! うわっ、今めっちゃ鳥肌立ってる」と紺ちゃんが即座に返す。「あの人」が指しているのは、私たちの世代に人気のアーティストだ。恋バナじゃない。私も、名前は勿論聞いたことあるけれど、彼らが作った曲をちゃんと向き合って聞いたことはない。いつもどこかで流れているから耳にするくらいなのだ。紺ちゃんはともかく、このちゃんもそのアーティストが好きだったとは。初耳だった。
「今度ツアーで近くに来るらしいよ。ちょうど一緒に行く人探してたんだー。チケット私が取るし、木乃香ちゃんどう?」
「いいの? じゃあ、お願い!」
二人が楽しそうに話している。きっと昨日までそこまで接点のなかった二人が、私のよく知らない話題で盛り上がっている。友達同士で仲良くしてくれるのはとても嬉しい。でも、ちょっと嫌だなと思ってしまった醜い私もいた。
口を挟む隙もないので、一人スマホに目を落とした。二人が話題にしているアーティストを調べてみると、曲名とサビくらいなら知っている曲が検索結果として現れる。歌詞に目を通し、脳内で曲を再生してみたけれど、どうにも私にはそこまで良いもののようには思えなかった。
きっとつまらなそうな顔をしていた。でも、悟られないように真剣にスマホで調べものをするフリをした。その間も二人は歓談している。
ようやく話が一段落着いて、私にもわかる話題へと移った。そういえば来週末から期末試験だっていう話。試験の一週間前は部活がなくなることが多く、ちょうど昨日までで一度部活は終わり。来週からは部活の休み期間に入ることをすっかり忘れていた。つまり、試験が終わるまでは忘れ物のラケットを部室に取りに行くこともできないということ。
「来週から部活ないの忘れてたー。あるものだと思って、うみちにまた部活来るように誘ってたよ」
「私もラケット忘れちゃったから取りに行こうとしてた」
「二人とも、試験大丈夫そう? あと一週間だけど、課題とかって」
「終わってないよ! そんなの前日までに頑張って終わらせるんだよ…………え、まさか木乃香ちゃん、私たちを裏切るの?」
紺ちゃんがわざと深刻そうな顔で言うので、思わず笑ってしまう。勝手に「私たち」なんて言って、私も課題が終わっていない前提なのはツッコミたいところだが。
このちゃんは、少し困った顔をしながらも、「私部活やってないからー」と返した。私も部活にはほとんど行っていないし、勉強はそこそこ頑張る方なので、普段なら半分以上の課題は試験一週間前くらいに終わるくらいなのだけれど、今回はそうもいかなかった。だって、今もなお私を悩ませ続ける問題と対峙しているわけだし。今回に限っては「私たち」に含められてしまっても仕方ない。
正直、今の私は試験どころではなかった。うーん、今回の試験はちょっとまずいかも。
「ねぇ、月曜から一緒に勉強しない? 課題もやらなきゃだし」
「紺ちゃん、流石に課題は自分でやってね?」
「それは勿論だよっ、別に木乃香ちゃんの力を借りまくろうとかしてないしー…………ねぇ、木乃香ちゃん?」
目論見がバレバレなのに、このちゃんに同意まで求めちゃって。このちゃんはいいのだろうか。チラリ。ポテチの最後の一枚を手に取っていた彼女の方を見る。
「んん、私はいいよ」
ポテチの入った口元を隠しながら頷くこのちゃん。目元が細くなり、顔の半分が見えなくとも笑顔だとわかる。私は、このちゃんのこういった所作が気に入っている。丁寧なところは丁寧。上手く言い表せないけれど、育ちの良さというか、本人の程よい気品みたいなところに好感が持てる。うちのクラスのうるさいガールズとはここが違う。特にボスの周りにいる子達の何人か。何か口に入れて租借しながら口元を隠さずに話しちゃうところには好感が持てない。そういえば、その点、夢亜とナンバーツーの子はそこそこ行儀良かったっけ。
私も一緒に勉強しないかと紺ちゃんに訊かれ、ちょっと迷ったけれど、「いいよ」と答えた。迷ったのには二つ理由があった。一つは単純に私が一人でやった方が捗るタイプだから。もう一つは、例の問題についてこのちゃんと二人で直接共有する場がなくなってしまうから。それに、三人でいるときについ口を滑らせたら紺ちゃんにも知られてしまうし。あ、これ三つ目だった。
空になったポテチの袋を片付けるためにこのちゃんが立ち上がって、ゴミ箱のあるキッチンの方へと向かった。残った二人は相変わらずソファでくつろいでいる。映画とは関係なく買っていたポテチのうすしお味を開封しながら紺ちゃんがため息をついた。
「はぁー、テストって何のためにやってるんだろー。あんなので何がわかるって言うの」
「理解度?」
「ちょ、うみち! そういう真面目な答えじゃなくて! なんかさ、せっかく勉強したことがテストになると忘れちゃうとかあるよね? 緊張とかプレッシャーとかで。だから、私たちの真の力を知ることはできてないと思うんだよね」
「確かに宮重さんの言ってることも正しいかも?」
「このちゃん、フォローしなくていいよ。こんなこと言ってるけど、この子はちゃんと勉強してないだけだから」
「バレたか」
ニヤッと笑った紺ちゃんの歯が輝く。カーテンから差し込んだ光が偶然歯に当たるとか、どんなところで奇跡発動しちゃってるの?
突然、紺ちゃんが手をパンッと叩いたので、軽く驚きながら彼女を見る。満面の笑みで一つの提案をしてきた。
「試験終わったら三人で遊びに行こうよ! 行き先はまた決める感じで」
私もこのちゃんも賛成した。何か楽しみがあれば、ちょっと辛いことだって頑張れる。心置きなく楽しむために、試験頑張らなきゃなと思えた私偉い。紺ちゃんも成績は悪くないはずだし、きっと皆無事試験は終えられる。その頃には、【ワイヤレススピーカー少女】の件も解決していると嬉しいんだけどな。
一旦自分の部屋に戻るというこのちゃんと、涙が乾いて顔がパキパキになっているから洗面所で顔を洗ってくるいう紺ちゃん。二人が席を立ったので、私は「うん、わかった」とだけ返事をして、その場で一人、何度見ても胸を締め付けてくる映画の余韻に再び浸ることにした。
二人とも部屋を出ていって、ふと足元に目をやると落とし物があった。紺ちゃんの座っていたところのちょうど真下に。後で渡してあげようと思って、それを拾い上げた私は思わず息を吞む。
急に息ができなくなった気がした。呼吸を忘れて苦しくなったような。完全に何かが止まってしまったような。呼び戻した余韻はどこかへ飛んでいき、急に現実に戻されたような感覚。部屋は涼しいのに突然頬を伝った汗。心臓にチクチクと針が刺さったような錯覚。私は手の中にある物を見て、目を疑った。
白くて、手のひらサイズのケース。中に入っている物が何か、容易に想像できてしまう。でも、理解は追いつかない。できるはずもない。
「どうして………………どうしてここに」
ケースを開くと、想像通りの物が入っている。両耳に取り付けるので、二つ。
私はその場に座り込んでしまった。
どうすればいいのか。隠した方がいいの? それとも直接訊いてしまった方がいいの?
答えを出せずにいると、後ろから声をかけられた。
「そんなところに座り込んで…………うみち、どうしたの?」
私は即座に手に持っている物を隠した。私の選んだ答えは「隠す」だった。正直、彼女の顔を見ることもできない。でも、恐る恐る表情を窺ってみると、彼女は平然とした顔をしているのだ。ただ不思議そうにこちらを見つめている。
私にはこのまま隠し通す、という選択もあったはずだ。でも、今日はそれができなかった。一度隠した物を取り出し、彼女にも見えるように、無言で掲げて見せた。怒っていて喋らないわけじゃない。ただ、口から声が出なかっただけ。
「それは」
私の手にある物を見て、彼女の表情が急に険しくなった。すぐにこちらから目を逸らす。目を逸らす、ということは、彼女は何か事情を知っているってこと。私だって、そうであってほしくないと願うばかりだ。否定してほしかった。それは私が盗んだんじゃないって。
でも彼女は一向に口を開かなくなってしまった。先ほどまで、あんなに楽しそうに話していたのに。いや、そんな彼女の様子を見ていたからこそ、私の声は震えた。それでも訊いていた。私の問題を終わらせるには、たとえ友達であっても、訊かないわけにはいかなかったからだ。
「なんで…………紺ちゃんが…………私のイヤホン、持ってるの?」
「それは…………」
彼女には否定ができたはずだ。なぜならアリバイがあるから。部室に向かっているとき、常に私の隣にいたのだから。それに、黒いフードを被った人物が部室から出てくるのを見た。あれは明らかに紺ちゃんじゃない。それなのに、どうして。
…………どうして、否定しないの?
沈黙が流れた。エアコンの作動音だけが部屋の中に響く。気まずそうに俯いている彼女に、どんな言葉をかければいいのかもわからない。ただ、そんな無の時間が流れた。
段々私の中で、疑問よりも、不安よりも、私に真実を話してくれない彼女への怒りが湧いて来るのを感じた。この怒りをぶつける先は、本当に彼女で間違いないのか、それすらわからず、煮え滾っていく。
泣ける青春映画でさえ、涙を堪えられたのに。今、私の目元は熱い。視界が段々とぼやけていく。駄目だ…………こんなはずじゃなかったのに。今日は、楽しい一日で終わるはずだった、のに。
気づくと私は荷物をまとめて玄関で靴を履いていた。リビングでは紺ちゃんがその場に立ち尽くしている。
玄関で音がすることに気づいてか、このちゃんが階段を急いで降りてきて、私に声をかけた。
「千紋! なんで何も言わずに帰ろうとしてるの? 何か悪いこと、したかな………」
「違う…………このちゃんは」
リビングに一瞬目をやり、俯いている紺ちゃんを目にしたこのちゃんは何かを察したのだろう。私にかける言葉を失ってしまったみたいだった。
私は二人の顔を見ずに、ドアを開けて家の外へ出た。「待って! 誤解だよ」とだけ、このちゃんが私に声をかけたけれど、それも無視して。
最初は歩いていたのだけれど、段々と速度を増していき、ついには走り出した。このちゃんの家から一刻も早く離れたかった。じゃないと、私の声が、泣きじゃくっている声が聞こえてしまうと思ったから。
「なんで…………なんで紺ちゃんが…………」
目から溢れる水分を手で拭いながら走る。拭っても拭っても零れ落ちる。近くにある公園のベンチに座り、タオルに顔を埋める。涙も汗も、水分の全てがそのタオルに吸収されていくようだった。
視界がぼやけていたけれど、公園には暑すぎて子ども一人さえもいなかったのだけは確認して、周りの目を気にせず泣いた。
紺ちゃんは否定しなかった。つまり、そういうことなんだろう。彼女は、私が【ワイヤレススピーカー少女】だと知っている。しかも、フードを被った人物からイヤホンを受け取っている。
裏切られたという感覚が強すぎて、ただ悲しくて。
ずっと近くにいたのに。信頼していたのに。あんなに楽しい時間を過ごせていたのに。なんで。
こんなことで泣くなんて、私はどうかしている。泣くようなことじゃない。だって、ただ友達が私のイヤホン持ってただけ。それだけなのに。
弱すぎた自分にも怒りの矛先が向く。
衝撃に耐えられず、逃げた。その場から逃げ出した。
まだ、紺ちゃんが黒だって決まったわけでもないのに。証拠がそこに存在するからって、それが全てだと決めつけるのはどう考えても早すぎるのに。話を聞かないとわからないことだってたくさんあるはずなのに。
衝動的に逃げるなんて、何してるんだ私。
泣けば何かが変わるとでも思ってるの?
悲しいってことさえ、伝えられないの?
悲しみから怒りへと変わった感情は、自分自身を責め始める。私が私に怒っているはずなのに、どうしてか、自分ではない誰かに言われているような感覚に陥った。
そのまま、悲しみと怒りと後悔と焦りが混じった涙が枯れるまでタオルに顔を埋め続けた。大声は上げない。ただ、自分と向き合わされている。
そんな時間がいくらか続いた。そのため、違和感に気づくまでに時間がかかってしまった。
一通り涙を流した後、呼吸を整えて冷静になっていく過程で、見落としていることがあるとわかる。改めて、勢いでこのちゃんの家を飛び出てきてしまったことを後悔した。
はっきりさせたいことがある。
ベンチから立ち上がった私は、駅ではなく、再び住宅街の方へ歩き出した。
涙は暑さですぐさま乾いていき、ただ痕として顔に微かに残る。目は充血していた。でも、それも徐々に引いていく。
私には勇気が足りない。
でも、自分にとって最大の味方は自分以外いない。
だから私は、少しだけ勇気を出せばいい方を選んだ。
弱い私が一人きりで迷った結果だ。自信を持って、歩くしかない。




