3.感電未遂
昨晩、返信があった。
「りょーかい! 部活の場所覚えてる? 忘れてるよね? 一緒に行こー」
彼女の優しさに全私が涙した、心で。
家を出るとき、久々にラケットの入ったケースを肩に掛けているのをお母さんに見つかった。
「珍しいね。今日は部活行くの?」
「うん、帰り遅くなるー」
「わかった。いってらっしゃい。気をつけてね」
「はーい、行ってきまーす」
肩にリュック以外の物が掛かっているのが久々すぎて、自転車を走らせるときにちょっと邪魔だった。でも今更降ろすわけにもいかないので、そのまま走る。
満員電車に乗っているときも、普段は持たない荷物をどう持ったらいいか迷った。でも、なんとか学校へ辿り着いた。
なんだかんだ昨日もこのちゃんに朝の挨拶をできていなかった。今日こそはと試みる。
ターゲットは今日も本を読んでいる。顔はこちらを向かない。今更かもしれないけれど、彼女、物語に吸い込まれるタイプなんだ。近づいても無反応なのは、昨日は故意だったかもしれないけれど、彼女にとっては平常運転ってこと。じゃあ邪魔して悪いなとも思うけれど、気づいてもらうまでだ。それくらいは許されるはず。
「こーのちゃん! お」
「あ、おはよー、うみち。今日部活行くんだよね? ラケット持ってきた?」
教室に入って真っ先に声をかける相手は、「このちゃん」こと出尾木乃香だと私の中では決まっている。でも実際、そうそう思い通りにもいかないわけで。
今日に関しては、昨日私から連絡した友達の紺ちゃんが真っすぐに私の元へやって来た。彼女はいつだってポニテ。彼女ほどポニテが似合って可愛く見える人を私はすぐには思いつかない。
彼女から私は「うみち」と呼ばれている。海本の「うみ」と千紋の「ち」を取って名付けたんだとか。紺以外からそのあだ名で呼ばれることはないけれど、彼女だけはいつもそう呼ぶ。
このちゃんの座席まであと三歩ほどのところで、黒板の前に立っていた紺ちゃんに声をかけられた私は、内心ちょっと悔しかった。でもすぐにその悔しさは引っ込める。彼女は私の肩に掛かったケースを見て頷いた。
「ちゃんと持ってきてる! 偉いねー、ようやくやる気を取り戻したのかな?」
からかうように言ってくる彼女だが、どこか嬉しそうでもあった。そんな友達の様子を見て私も嬉しくなる。
それに昨日は体調不良でお休み、と思いきや朝から病院に行って大復活。お昼前には学校に遅刻して登校してきた彼女が今日は朝から元気そうだったことにも嬉しく思った。
それはそうとして、偉いも何も、私から行くっていたんだから持ってこないわけないじゃん、と心で思ったし、口でも言った。
イレギュラーな私の登校時間は結構ギリギリだったため、あまり友達と話す時間もなく、急いで席に着いた。今日もまた、担任の先生が教卓の前に立って、連絡事項を私たちに伝える。そういえば、私の映った動画が拡散されていることを思い出し、今日こそ話題に上がってしまうのではないかと内心怯えていたが、無事に時間は過ぎていった。
一時間目の準備をしていると、隣に座る例の男子がまたまた何か話しかけてくる。彼はきっとおしゃべりが好きなんだ。冷たい対応をする理由もないので、一応聞いてあげる。
「俺やっぱり眠れないんだよ。クマ酷くなってるだろ?」
どうやら今日もあの動画の話をしたいらしい。
そういえば、昨日の朝の一件があってから、大々的に私にあの動画のことを問い詰めてくるような人はいないし、そもそも、教室内は以前と同じような雰囲気に戻っている。もしかしたら皆の中でも過去のことになったのかなと思いもしたけれど、彼が私にその話題を出したとき、クラスメイトの視線のいくつかがこちらを向いたのを感じて、敢えて触れないようにしているだけだとすぐにわかった。その視線の中に、このちゃんも、良大君も入っていないことにも気づいた。彼は机に伏せている。何か眠くなるような理由があるのかもしれない。
「んー、ほんとだ。ちゃんと寝た方がいいよ」
何の解決策にもならない提案を返すと、彼は口をへの字に曲げた。ま、それはその反応で合ってる。
まだ話し足りないのか、彼はへの字をすぐに解除すると再び口を開いた。彼の口から出てきた質問に対して、ちょっとしつこいなとは思った。
「これだけ訊きたいんだけど、あれってマジで海本じゃないのか?」
「違うよ」
私はきっぱりとそう答えた。彼が今夜もぐっすり眠れないことは可哀想だとは思う。でも、こんなにも皆の注目が集まっている中、「実はあれ私」だなんて言えるわけないじゃん。昨日も、うるさいあの子に対して否定しちゃったので、今更認めるわけにはいかないというのもある。
私の堂々とした返答に対して彼は坊主頭を触りながら、「そうだよなぁ……」と呟いて、黒板の方を向いた。そろそろ一時間目の授業が始まる。
皆やっぱり真実を知りたがっている。いつ私が認めるか、心待ちにしている輩だっているのかも。「ラケット持ってきた?」と普段通りの調子で話しかけてきた紺ちゃんも、きっと例の動画を見ているんだろうし、訊きたいこともあったはずなのに訊かないでくれたんだ。
一時間目の授業は古典だった。
古典と言っても古文と漢文の二種類を取り扱うのだけれど、今日は古文の方。正直、現代語訳がないと読めない。古文で読む内容は結構奇想天外で面白いこともあるけれど、それは現代語訳あってこそだなと思っている。内容は面白いんだからわかりやすく伝えてくれよと思う。
昨年だったか、屏風を脇に挟んで高いところから飛び降りるとかいう意味不明な話を授業で聞いたときは、クラスメイトの多くが「古文面白え!」と叫んでいたのを思い出す。ただ、今授業でやってる内容はそこまで面白いとは思えない。知らないよ、昔の男の人が色んな女の人に手を出す話なんて。これは私だけの感想じゃない。勿論好きな人もいるんだろうけど、なんちゃらの宮とかなんとかの上とか。誰が誰だかわからない。
私が中学生のときにやって来た国語の教育実習生が、「古文正直むずい。現代文の方が好き」などと本音を言ってしまっていたことも思い出した。
授業中は案外皆必死に授業を受けている、と私の目には映っている。見えないところでさぼっている人もいるらしいけれど、少なくとも私に【ワイヤレススピーカー少女】の話を振ってくることはない。
だから、授業の時間は一時間ずつ、着実に安全に終わっていき、あっという間に部活動の時間、つまり、いつもなら帰宅する時間がやって来た。
休み時間にはこのちゃんと他愛もない話をしたり、紺ちゃんと部活の話をしたりもした。今も動画が誰かの目に触れていることなんて全然実感が湧かなかった。でも、授業後は嫌でも脳裏に蘇ってくる。
「このちゃーん、今日は部活行ってくるからまた明日ねー」
「うん。でも明日学校ないよー」
「あ、そうだった! ああ、映画!」
「あっという間に明日だよー。絶対感動するから楽しみにしといて。それとお昼前に来てほしい! 絶対絶対ご飯食べながら見たくなると思うから」
「おっけーい」
教室でこのちゃんと別れた。彼女は図書室で少し勉強してから帰宅するらしい。先に教室を出ていった彼女に手を振る。姿が見えなくなったところで、廊下側から二列目、前から三番目の座席に座る紺ちゃんの元へ歩み寄っていった。
「久々に一緒に部活できるの楽しみだよー」
ニコッと笑顔を見せる紺ちゃんに私もニコッ。教室の後方ではもう一人の協力者が朝と同様伏せてぐったりしているように見えた。彼からは何かわかり次第声をかけられることになっている。あの様子だとまだまだ先のことのように思えた。そんな彼を横目に荷物をまとめた私たちも教室を後にした。
「うみちー、何か月ぶり? 来てない間、自主練とかしてたの?」
「んー、イメトレなら電車の中で毎日してたよ」
つまり何もしていないということを正直に伝えると彼女は「あははっ」と声を出して笑った。それが私を嘲笑うものでないことを知っているし、正直笑ってくれるくらいがちょうどいい。
私たちに遠慮なんて言葉はない。但し、例の動画の件は除く。なので、彼女もどストレートに聞いてくる。私はそれが嫌じゃない。
「えー、じゃあなんで急に部活行こうと思ったの?」
「やっぱ紺ちゃんいるし? 部活モードの紺ちゃん久々に見たいなーと思って」
「はははっ、なにそれー、ほんとは?」
事実、友達が部活でどう活動してるのか気になったのは大きな理由の一つだ。でも、彼女が満足してくれなかったようなので、もう一つ正直に理由を話すことにした。
「ほんとのことねー。それもほんとだけど、強いて言うなら、そういう気分だから、かな」
私の回答はある意味誠実だけれど、非常に曖昧でもある。それでも彼女はまた笑いながら、「そっかー、なるほどね」と納得の素振りを見せた。
校舎を出て、グラウンドの横を通り、運動部の部室棟へ向かう。空は雲一つなくて灼熱の太陽がじりじりと殺しにかかってくる。なんで今日もこんなに暑いのか。全く嫌になってしまう。
あの暑苦しい建物へ向かうのも久々だ。部室に入る度に元々文化部育ちの私は自分が場違いだなと感じたことは多々あるけれど、今は関係ない。階段で部室棟の二階に上がり、鍵の開いている部室へと入った。紺ちゃんが扉を開くと部屋の中から熱気が漏れ出し、顔にかかる。もうそれだけでノックアウトされそうだった。なんとか耐えた。セーフセーフ。
今時扇風機一つしかない部室とか終わってるでしょ、と思うけれど、公立学校の財政状況を考えれば仕方ないことなのかもしれない。
久々に入った部室は以前よりも片付いていて、なんだか広々としていた。
「どう? 綺麗になってるでしょ。先輩たちが卒業前にめっちゃ綺麗にしてったんだー。それからは皆汚さないように気をつけてるってわけ」
「たしかにめちゃ綺麗になってるね。でもこの暑さは…………去年にも増して厳しい」
たぶんサウナだ。ここはサウナ。入った瞬間全身から汗が噴き出てくるなんてサウナくらいでしょ。タオルで汗を拭いながら荷物を降ろす。いつもここを使っているであろう彼女も汗を拭いながら鞄を降ろした。
「暑いよね。でもね、朗報だよ、うみち。なんと運動部の部室棟全部屋にエアコンの設置が決定しましたー」
「なんと! やるじゃん学校!」
「夏は涼しく、冬は暖かな部室が君を待ってる。さあさあ、部活に復帰する気になってきたかな?」
思わず「復帰する!」と宣言しそうになったけれど、もう少しで声になる前に疑問点が浮かんでしまったので、それを訊くことにした。それはそれは訊かなきゃいけないことだ。
「ねぇ、そのエアコンっていつ設置されるの?」
紺ちゃんは一瞬固まり、すぐに苦笑いへと表情を変える。なんだか悪役みたいな笑い声を添えて。
「くふふふ…………来年の夏までに設置完了だよ。んー、勢いで押し通せなかったかー」
どうやらこの機会に私を完全に部活へ復帰させようという企みがあったようだけれど、ひとまず今は成功しなかったということで。中学までは私と同じように文化部だった紺ちゃんは、どうして私とは違ってここまでこの環境に慣れることができたのか、とっても不思議に思った。でも、考える間もなく答えは出ていた。きっと彼女の適応能力が高いんだ。そうに違いない。
人間を溶かすための箱のような部室にいつまでもいられないので、さくっと動きやすい服装に着替えてラケットと水分とタオルだけ持って外に出た。紺ちゃんは試合に出るときにも着るユニホームを着ているけれど、私の家には見当たらなかったので、大人しく体操服に身を包んでいる。
外もかなり暑いけれど、風が吹いて汗が一瞬で冷える。二人とも「ひゃあっ」という間抜けな声を上げながら階段を下りた。
コートへ行ってみると、半分くらいは見慣れない顔だった。紺ちゃんを見るなり、後輩と思われる女子生徒達は「宮重先輩」とか「紺ちゃん先輩」とか口々に声をかけてきた。でも、恐らく初めましての私とは、ちょっと目が合ったら会釈をするくらい。めちゃくちゃよそよそしいので気まずく、今すぐこの場を離れようかしらとすら思った。けれど、ちらほら見知った顔が遠くから「千紋だー!」とか「幽霊部員が来た!」とか好き勝手言ってくるのを聞いてちょっと安心した。なので、「逃げる」は選択肢から外れた。
実は同じクラスの人にも部員がいる。例のうるさいクラスメイトのナンバーツーの子とか。部活中は意外と真面目にやってるみたい。私に好き勝手言ってくる部員の中に彼女はいなかった。隣のコートで一人でボールと向き合っている。教室の中と外では人が変わる場合もあるみたい。
でも、少し睨まれたような気もする。まだボスへの侮辱に腹を立てているのかな。
「じゃ、準備運動しっかりしたら久々にラリーしてみる? ってか、ほんとちゃんと準備運動してね。ひっさびさなんだから」
「おっけいです。よろしくお願いします、紺ちゃん先輩」
私がからかうように先輩呼びすると、彼女は少しだけ口角を上げた。嫌がってはいないみたいだ。
屈伸やら毛首足首やら、基本的な準備運動を済ませ、いざ!
手に持ったラケットは軽いような、重いような。
今ここで明かしておく。私が幽霊部員として入っている部活、それはバドミントン部だ。文化部で生きてきた私が運動部を始めるにあたって、あまりにも過酷なのは避けたいと思った。走りまくるとか筋トレ三昧とか。そうして削っていったら残ったのが卓球かバドミントンだったのだけれど、うちの県は中学にバドミントン部があるところが少なく、卓球よりも皆と同じ位置からスタートを切れると思ったので入部した。因みにテニスはラケットが重くてやめた。
で、実際やってみたら、思っていたより普通にハードだった。正直舐めていた。実は、どんな運動部に入るにせよ、基礎的な体力を向上させるためにトレーニングは欠かせなかったのだ。きっと誰もが知っていることなんだろうけれど、私は甘く見すぎていたから、そのギャップに打ちのめされそうになった。でも、すぐに幽霊になるのではなく、二学期くらいまではそれなりに来ていた。
それが、冬が近づいたら、もう駄目だった。私の運動部人生は早々に冬眠に入ってしまったのだ。
そして今、春が来たと思って冬眠から目を覚ました運動部人生。もう春終わってた。これは夏。死ぬ。
色々と思いは脳を巡り、後輩たちには珍しいものを見る目で見られる中、私と紺ちゃん先輩のラリーがスタートした。隣のコートでも練習している人はいるのに、なんかこっち見てる子が多い。
「うみちー行くよー、はいっ!」
紺ちゃんからサーブ。スピード感のあるサーブが私側のコートに入る。本当に久々に見たこの羽。
私は最後にいつ打ったかすら思い出せないそれを、すくうように打ち返し、相手側のコートへ入れる。
「ないすー」
外で私たちのラリーを見ている同級生が私に向かって声をかける。ふん、流石に舐めすぎだよ。それくらい今の私でも打てるし。なんて調子に乗ったせいで、再び自分側に入ってきたシャトルを空振った。ラリー成功回数、まさかの一回。
流石に恥ずかしくて顔も赤くなっている気がした。でも、気温が暑すぎて、たぶんこの恥ずかしがっている様子はバレなかったと思う。
気を取り直して、今度は私からサーブ。サーブをミスったら恥ずかしいなぁとドキドキしながら打ったけれど、ちゃんと相手側のコートに入ったので一安心。と思いきや、すぐさま自分側に戻ってきたシャトルに対し、心の中で「もうちょっと落ち着こう?」と声をかけながら打ち返す。それはそれは優しく打ち返す。ラリーは続けることが大切。相手のコートにスマッシュを打つためにやっているわけではない、ということは覚えていたので、優しく返すように心がけた。
その後もラリーは続く。えへへ、私結構素質あるかも? と脳内でにんまりしながら、コートの向こう側でポニテを揺らす友達を見た。かなり長くラリーが続くので、徐々に冷静になってくる。そして、改めて彼女の動きを見ていると、あることに気がついた。
私は相手コートの右へ左へ、故意ではないのだけれど紺ちゃんを揺さぶるように打ち返してしまっていた。でも、素早く動く彼女は、私が明後日の方向へ飛ばしそうになったシャトルも完璧に拾い、私の打ちやすい位置へと返してくれていたのだ。それに気づいてしまった私は、彼女への感謝と共に、一瞬でも素質があるだなんて勘違いを引き起こしたことを恥じた。
ある程度ラリーが続いたところで、完全に油断しきっていた私のラケットをすり抜け、勢いよくシャトルが地面に叩きつけられた。シャトルを追って下を向いた目は、すぐさま前を向き直る。コートの向こうにニヤリと笑う友達の姿が見えた。彼女のニヤリは、あのうるさいクラスメイトの笑いとは違う。悪意のない、悪戯っぽさを秘めたニヤリ。ラリーを突如終了させたスマッシュは、私の隙を突いた見事なものだったと、バドミントンのことを未だよくわかっていない私が勝手に賞賛させてもらう。シャトルが地面とぶつかったときの音を聞いて、私はなんだか目が覚めたような気がした。
「久々にしては上出来だったよ、うみち」
「ありがとー、でもやっぱ、ちゃんと部活来てる紺ちゃんは流石だったなー。めちゃかっこよかったよ」
「んふふ、うみちにそう言ってもらえるの、すっごく嬉しいな」
タオルを手に、私の方へと駆け寄ってきた紺ちゃんの笑顔はとてもとても眩しかった。彼女の頬を伝う雫は、陽光を反射し煌めいている。私は嫌でもわかってしまった。彼女は今、高校生として輝いているんだ、と。
その輝きを中心に、これから輝き始めていくであろう後輩たちの目もキラキラとしていた。なるほど、こうして輝きの輪は広がっていくんだなぁ。
友達が物凄く輝いて見える。太陽はそこにあるかのように。光源は目の前に。物に光が当たれば影ができる。私は、何もできていない私は、彼女や後輩たちの輝きに埋もれた影の中にいるかのような気持ちになった。私だって、輝けると、信じてはいるけれど。でも、なんだか私には届かない場所のように思えてしまった。
コートの数は限られているので、私たちがベンチに座る頃にはもう他の部員が使っていた。私たちが先ほどまで行っていたラリーよりも、もっと高次元な、激しい打ち合いが繰り広げられている。それを見ると、やはり紺ちゃんは手加減してくれていたのだとわかる。やっぱりこの子は優しい。隣に座って、ポカリに口を付けた少女を見て、私は思わず「ふふっ」と笑ってしまった。
私も水分補給をしながら、タオルで顔を拭いていると、隣から話しかけられた。タオルから目だけ出して、彼女の方を見る。
「ふぁー、うみちとラリーできて楽しかったー! やっぱ、うみちと一緒だと楽しいわけですよーう」
笑顔で感想を伝えてくれる彼女に、私も嬉しくなった。同時に、いつの間にか私たちの間にこんなにも大きな実力差が生まれてしまった、という事実について再び痛感した。それはバドミントンの技術においても、高校生としての生き方についても。
「私も紺ちゃんとバドミントンできてよかった。きっと忘れない。いい思い出になったよ」
少々彼女の眩しさに無意識のうちに怖気づいていた私は、自分でもよくわからないことを口にしていた。若しくは、ただ暑さで脳がバグっていただけか。どっちが原因かなんて知り得ないけれど、本心には変わりない言葉だった。
勿論、自分で何を言っているかわからないようなことが、相手に理解されるはずもない。でも、紺ちゃんは首を傾げ、不思議そうな顔をした後、何かに気づいたかのように驚いた顔を一瞬見せ、その後、私から目を逸らし、俯いて悲しそうな表情になった。
「……辞めるの?」
たった一言だったけれど、その言葉からは、一言で言い表せるはずもない寂しさや悲しみが滲んでいた。先ほどまで笑顔を輝かせていた彼女が突然暗い顔になってしまったのを見た私は、「しまった」と思った。すぐに「辞めるわけないじゃん」と、上辺だけでも取り繕っておけたらよかったのだけれど、私は黙ってしまった。これでは、彼女からの質問の答えは言わなくてもわかってしまうようなものだ。
少し経ってからようやく口を開いた私は、図々しくも。
「…………そんな、辞めるわけないじゃん!」
「じゃあ、また来週も、毎日とは言わないけど……来てくれる?」
そうか、紺ちゃんは本当に、私と一緒に部活をやりたいと思ってくれていたんだ。とても嬉しかった。「復帰する」と今度こそ言ってしまいそうになった。でも、私は先ほどのラリー中の彼女の姿を思い出して、素直に「うん」とは言えなかった。言えるはずもなかった。
それなのにずるいんだ、私は。
「……んーそうだねぇ、紺ちゃんの姿見てたら、それもいいかもって今は思えてるよ」
私の言葉を聞いた彼女は、パッと表情を明るくして、「楽しみにしてるね!」と言った。私はその笑顔を真っすぐ受け止められず、目を逸らしながら、でも声だけは明るく「うん!」と発していた。
こんなにも暑いのに、実はまだ梅雨明けしていないなんて誰が信じるのだろうか。そう、今は梅雨というじめじめとした季節の真っ最中なのだ。春か夏か。ずっと迷っていた問いの答えは初めから出てはいたのだ。ただ、この暑さを受け入れられないだけ。だから、あんなに晴れていた空が埃のような雲で濁り始めても、天気予報を見ていた私は納得してしまう。今日の夕方頃から天気は下り坂。嫌なことに予報は当たってしまった。
紺ちゃんとのラリーから暫くして、他の部員とも少し練習をした後から再びベンチに座っている。紺ちゃんの軽やかな動きを眺めていると、額にポツリと冷たい水滴が落ちてきた。数分も経たないうちにポツポツと雨粒が増えてきて、それでもまだ練習を続ける部員もいる。そんな中、紺ちゃんが私の元へ走って来て言った。
「雨降ってきたし、私たちは先に部室戻ろ。片付けはもうちょっと練習したい人たちがやっておいてくれるって」
「わかったー。今日はほんとにありがとね」
「いえいえー。こちらこそ、お世辞抜きに嬉しかったよ」
私たちは二人、横並びで部室棟の階段を上る。脚を上げてみて、そんなに動いていないはずなのに既にちょっと脚やら腕が疲れていることに気づいた。これは、運動しなきゃ流石にまずいなと思う。
バドミントン部に割り当てられた部室のドアが目に入った。どうやらドアは開いている。
二人でてくてくと歩いて行くと、急にドアが勢いよく開かれ、中から一人、全身真っ黒の服に身を包んだ人が飛び出てきた。黒いパーカーを深々と被っているせいで顔がわからない。身長は私たちよりも高い。
あまりに一瞬のことだったため、私も紺ちゃんもその人を止めることはできなかったけれど、確かにその人は手に何か白いケースを持っていた。手のひらに収まるサイズで、開いたらワイヤレスイヤホンが入っていそうな。
「ああっ!」
私が突然大声を出して部室へ駆けこんでいくのを見て、紺ちゃんは困惑しながらもすぐに後を追ってきた。
室内に入ると、私のリュックが開いているのが確認できた。
嫌な予感は当たる。
すぐにリュックの中を確認してみるも、見当たらない。荷物をその場に出して、リュックの奥まで調べるも、ここにある気配はない。
私の焦りを感じ取ったのか、紺ちゃんが、「どうしたの? 何か失くした?」と心配してくれたけれども、真実を話していない彼女に対して失くした物が何か伝えるのは危険だと思い、適当にはぐらかす。
「えっと、ちょっとね!」
下手すぎた。あまりにも隠し事をしていることが見え見えな応答をしてしまったため、視界の端で紺ちゃんが頬を膨らませたのが見える。「絶対何か隠してるじゃん」って声が聞こえたような。
そんなことよりも。
「ない………………ないない……ない!」
心配そうに私の様子を見守る紺ちゃん。私は彼女のことはお構いなしに焦り続けていた。
だって、ワイヤレスイヤホンが見当たらないから。昨日、それが私とスマホを繋ぐ鍵だとわかって、絶対に人の手に渡らないようにするって決めていたのに。不注意にも程があった。全く、何をしているんだ私は!
灯台下暗しってこともなく、どこにもない。記憶の新しいところで、私の物とみられるワイヤレスイヤホンの入ったケースを見ている。
あのフードを被った人が、手に持っていた。
フード? 黒い、フード。
「あああ!」
私は脳内で繋がった二つの物事に対して、声を上げずにはいられなかった。フードを被った人間。それも、私の比較的新しい記憶の中に焼き付いている。
偶然かもしれない。でも、偶然じゃない可能性も。
もし偶然じゃないのだとしたら、その人の目的はなんだろう。わからない。でも、手に渡ってはいけない人に渡ってしまったということだけは確実なんだ。
部室内の暑さが原因の汗に、焦りからの冷や汗が混ざった。どちらも成分的には同じでしょう。でも、全く違う物に思える。そんな二つが混ざる想像をして気持ち悪くなった。
私は今すぐこのことを誰かに相談したくてたまらない。さっきからずっと私の焦りの理由を理解できずにいる紺ちゃんに、全て話してしまおうかとも思った。でも堪えて、急いで制服に着替えた。
まだその場で固まっている紺ちゃんに、改めて感謝を伝えた後、私はすぐさま部室を飛び出し、階段を駆け下りた。
部室棟から出ると、既に雨はポツポツからパラパラへと移り変わっていた。実は折りたたみ傘を家に忘れてきた私は、雨が強くなる前に帰らなきゃとも思った。でも、それより、今はさっきの人を追うことが先だと判断した。
結果から言おう。例のフードを被った人は見つかるはずもなかった。すぐに追いかけなかったのだから、見失って当然なのだ。部室棟の近くにいた生徒に聞いてみたけれど、全く目撃情報がない。私の想像上の人物なのかとも思ったけれど、そんなはずはない。だって、隣にいた紺ちゃんだって見ていたんだもん。
髪と制服を濡らしながらも私は校舎の方へと走っていた。昇降口で靴を履き替える。既に汗を吸っているタオルで髪を拭きながら、私は階段を駆け上がった。
二階にあるあの部屋へ向かう。「準備室」と書かれたその部屋のドアに手を掛ける。鍵は、開いているみたいだ。
ノックも無しに私は段ボールだらけのその場所へ押しかけた。
突然開いた扉に流石にその場でパソコンと向き合っていた彼もビクッと飛び上がった。目を見開いてこちらを見てきた。
「あ、あぶねっ……心臓に悪すぎる。ノックくらいしてほしい」
「ごめん! でもそれより聞いてよ!」
私は少々興奮気味だった。連絡先を知らない彼にはここでしか情報を共有できない。フードを被った人を追っているうちにどんどん焦りと共に増していた胸の高鳴りをようやく解放できる。
良大君がちゃんとここにいて良かった。
「あの動画を撮った人を見つけたかも! 逃げられたけどすれ違った!」
電車内でスマホを私に向けてきた人の特徴が黒いフードを被った人物だったことをちゃんと伝えていなかったので、それを伝えた上で先ほど目にした人物の特徴を伝えた。
「まじか! どんな顔をしてた?」
私の話を聞いた彼もまた少し興奮しているように見えた。
「それはわかんなかった…………それにイヤホンも取られたし」
「イヤホン?」
そういえば、ワイヤレスイヤホンが私とスマホを繋ぐ鍵になっているということを彼には話せていなかった。すぐさま、昨日の検証結果について伝えると、彼は腕を組んで「うーむ」と唸る。
「まずいな。それ絶対に君を標的にした行動だよ。きっとそいつは何か知ってる。その人物が誰なのかわかれば、僕も君も目的達成に大きく近づけると思うよ。それにしても、動画を撮った人物がフードを被っていた、というのは初耳だった。うーん、なんというか…………特定が難しくなったね」
「そういえば動画の解析を頼んでるって言ってたけど、進捗はどんな感じなの?」
私はパソコンを覗き込みながら訊いた。画面には例の動画が映っている。彼は、こちらを見たまま言った。
「正直動画自体から探すのは難航しているって言ってたけど、君が今教えてくれた服装の特徴を伝えればより絞って探せるかも。それに、駅のカメラとか、別の映像から同一人物を探して、後を追うこともできるかもしれない」
「へぇ…………すご。良大君、一体誰にそんな仕事頼んだの?」
「姉に頼んだ」
「お姉ちゃん!? えっ?」
驚きを隠すのはやはり苦手だ。良大君のお姉さん、何者なんだ。てっきり、凄腕ハッカーみたいなのを想像していたけれど、まさか実のお姉さんにそんな技術があるなんて。でも、今こうして「準備室」に不法侵入している彼の様子を見れば、姉の方も型破りなことをしてもおかしくないなどと、勝手な想像をしてしまっていた。
「年の離れた姉がいるんだ。趣味で動画解析やってるからちょっとヤバい奴だよ。ちょうど僕たちの学校の最寄り駅で駅員としても働いてるから、防犯カメラとか見張ってたりするわけ。昨日、君の力になれるかもって言ったのにはこういう理由もある」
「なるほど……女性駅員さんって珍しー。なんだか良大君も良大君のお姉さんも凄いね……」
型破りなこと、とまではいかないかもしれないけれど、人がやらないことをやっている感じはした。とにかく、都合よく力になってくれる人がいたのは本当に助かるなと思った。
「もう用は済んだ?」
私がしみじみとした気分に浸っていると、あっさりとした態度で彼が聞いてきた。彼の態度は大体塩レモンよりもさっぱりしている。「うん」と答えて、出ていくことにした。ちゃんと話してくれるけれど、良大君はどこかドライな人間だなぁと、ここ二日間見ていて思った。教室では一切話さないし。まあ、それは私からも話しかけていないからお互い様ってことで。
きっとこの場所は彼が学校内で唯一手に入れられた静かな作業場なのだ。私がいると邪魔なのかも。
廊下に出ると、窓の外で雨が強まっているのが目に入って、ちょっと気分が落ち込んだ。
まじか、傘なしで駅まで歩くのだるすぎる。
最終下校完了時刻までまだ三十分ほどあるけれど、学校の中で雨が止むのを待っていたところで、たぶん止むことはない。寧ろ更に雨が強まる可能性の方が高い。
でもすぐに動き出す気分にはなれなくて、肩を落としてその場に立っていると、偶然にも上の階から見知った人物が降りて来た。彼女を見て私の背中にビリビリと緊張感が走った。
目が合ってしまったので逸らすわけにもいかず、じっと彼女を見ていると、なんと近づいてきた。内心気が気じゃなかったけれど、それを悟られないように振る舞うつもりだ。
「千紋……ここで何してんの」
心なしか元気のない彼女もまた、この雨の中帰宅しなければならない状況に対して、「だるいな」と感じているのかもしれない。同じ気持ちでいる今なら話が合うと思った私は、何も答えないのも不自然なので口を開く。私も彼女も、昨日の朝のことは忘れていないはずだけれど、たった一度の衝突で全てが変わってしまうとは思いたくない私がいる。だから敢えて何も気にしていないフリ。
「んー、外、雨めっちゃ降ってて帰るのだるいなーって思って」
「確かにだるい。今みたいな季節の雨の日って、ジメジメしててほんと嫌いだな」
彼女ほど嫌ってはいないなと思いつつも、とりあえず、私と彼女の心情は大方同じってことで安心した。それにしてもわざわざ話しかけてきたのはなんでだろ。私がじっと見つめたからかな。
今はうるさくない彼女は、制服のリボンを弄りながら、じっと私の方を見てくる。次に何を言われるのか、またあの話題を出してくるのか、とドキドキしながら、相手が話し出すのを待ったけれど、中々彼女が話し出す気配はない。
おかげさまで雨の音だけが聴こえるほど、静まり返ってしまった。
仲の良い友達との会話なら、沈黙を破るのも容易いものだけれど、そこまで仲の良いわけではない相手との間に一度生まれてしまった沈黙を破るのは思っていた以上にハードなものだ。
もういっそ、このまま窓の外をボーっと眺めておくから、その間に回れ右して階段を降りていってくれないかなーなんて思い始めていると、ようやく彼女の方から口を開いた。
「帰らないの? 雨強くなるでしょ。帰った方がいいと思うけど」
「帰るよ。でももうちょっと…………」
まさか昨日の一件があったのに、私に気を遣うようなことを言ってくるとは思っていなかったので、正直驚いた。「もうちょっと」って何? と自問自答したくなっていたところを彼女に突っ込まれた。
「なにそれ。もしかして傘ないの?」
「うっ、まさかそんな」
「図星かよ。今日雨降るって天気予報で言ってた。それで、んー…………傘いる?」
雨なのに傘持ってこないとか馬鹿じゃん、みたいなノリでからかってくるかなーと思いきや、全く想像もしていなかった返答が帰って来て、思わず目を丸くしてしまった。え?
戸惑っていると、リボンを弄っていた手で髪を弄り始めた彼女はゆらゆら揺れながら続けた。
「……折りたたみ傘持ってたから。来週壊さず返してくれるんなら貸してもいいけど」
私はより一層戸惑ってしまった。え、なんで優しくしてくれるの? 何か裏があるんじゃないか。
しかし、どうやら私の思っていた「裏」とは異なる「裏」があることに気づいた。彼女の表情をよく見ると、私に対して敵意をむき出しにしているわけではなく、からかおうとしているわけでもなく、ただ何かを埋め合わせようとしているように見えた。こちらの様子を伺いながら彼女の体は左右に揺れている。
そういえば、いつもなら取り巻きっぽい人たちが彼女を囲んでいるのに、今日はどうして一人なんだろう。上の階にある教室で、今の時間も開いているのは音楽室と図書室くらいだと思う。でも、彼女は吹奏楽部員じゃないし、図書室を使っているところなんて見たこともない。
明らかなイレギュラーに違和感を覚えずにいられなかった。でも、彼女の少し困った顔を見て、本当に善意で貸してくれようとしていることにやっと気づいた。ワイヤレススピーカーのことがあってから、私は以前よりも一層色々と慎重になりすぎている。三日前の私だったら笑顔で「ありがと!」と言ってすぐさま借りていただろうに。
「……めちゃ困ってた。借りてもいい?」
昨日のことがなければ悩む必要なんて微塵もなく、ただ善意を善意として受け取ればよかったものを。でも、実際は私たちの間には大きさのわからない溝ができてしまった。それを埋める第一歩なんだと思う。どこまであるのか、深さのわからない溝。意外と深くないのかもしれないし、深くても折りたたみ傘が一気に埋めてくれるのかもしれない。
私の返事を聞くと、口角をほんの少しだけ上げた後、背負っていた鞄の中から水色の折りたたみ傘を取り出して渡してくれた。
昨日の彼女の行動は何度思い出しても気分のいいものではなかったし、このままなんとなくギスギスしたまま、完全に疎遠になっていくのかなとぼんやりと思っていた。それなのに、相手の方から関係修復に動こうとしたことに対して、私は本心で尊敬してしまっていた。
彼女の性格からして、今後も人をたくさん傷つけるんだろうなと思う反面、たとえ素直じゃなくても反省して行動として示すことができてしまう姿には、ある種の憧れさえ感じた。
感謝を述べる。それに加え、今なら不自然じゃないと思った私は、彼女が何をしていたのかについても訊くことにした。
「本当にありがとう。夢亜、さっきまで何してたの? 一人でいるの、珍しい………」
「んー。図書室行ってた。他のクラスの図書委員の子に呼ばれたから。でも図書室っで静かすぎて私には向いてないって思った」
「そっか。まあ人それぞれって感じかな」
「そーだねー。私は本棚と本棚の間の通路とか狭苦しいから全然好きじゃないんだけど、あれがいいって言う変態もいるらしいから」
変態ってどんな言い方だよ! サイテーだ! と私の意見を述べようとしたけれど、今相手を否定したところで、折角埋まりつつある溝を再び深くするだけだからやめようと思い直し、踏み止まった。
嫌いなものを嫌いと言える。それが、「うるさいクラスメイト」夢亜の良いところなのかもしれない。
「…………あのさ千紋」
「ぇ、何?」
これ以上何か話しかけられると思っていなくて、少々動揺している。窓の外を眺めながら彼女はため息を漏らす。
「…………色々大変だなーって」
文脈的には、私の現状に対して感想を述べている、ように思える。でも、どういうわけか、私に向けられた言葉には思えなかった。
彼女にも彼女なりの苦労がある。そう物語っているような、どこか疲れを滲ませた口調だった。
…………思い出した。そうだ、この人は元々、あんなにうるさい人じゃなかったと思う。昨年も同じクラスだった。でも、二年生になってクラスが変わった当初までは今のように、他人に危害を加えるような人じゃなかった。確かにクラスの中心的存在には変わりなかったけれど、もっと優しかった。
とてもじゃないけれど、今の夢亜が本性だったと信じることはできない。そう思いたくないだけ、では済まされない。今ここで外を眺める彼女の横顔は以前の親切さをも持ち合わせたあの強くて優しい顔をしている。
他人に優しくできる人は、どうしたら相手を傷つけられるのかについても知っている。それで、必要に応じて、隠した凶器で相手を攻撃するのでは? という勝手な推測さえ脳内を飛び交った。
「そうだね…………毎日が少しずつ違っていて、適度に疲れたりもするよ、私も」
少しの沈黙、雨音だけが耳に届く中、私は答えた。全く同じ毎日は面白くない。でも、少しでも違っていると心が擦り減ると思う。
現在の私は、「少し違う」とも「適度な疲れ」とも思えないほどの大事に巻き込まれているけれども、きっとそれもずっと続くわけじゃない、と信じたい。いつか、今のような良くないイレギュラーは終わるはずだ。代わりに楽しいイレギュラーが訪れるかも。どっちにしろ、心が揺れ動かされるのだから疲れることには変わりない。
昨日の敵は今日の友、とまではいかなくても、不思議と私は彼女に本心を打ち明けていた気がする。それは、【ワイヤレススピーカー少女】が私であると、どこか肯定しているような危うさも含んだ返答だったけれど、彼女は特に追及することなく、「そう思う」とだけ同意してくれた。
窓にも降りつけた雨水は、静かに重力に逆らわず流れ落ちる。水滴が増えて、外の景色が増々見えにくくなっていく。
この雨は私たちの間にできた溝に川を作った。深い溝にそのまま落ちれば死は免れない。でも、そこに水があるならば、落ちても向こう岸へと渡ることができる可能性を残している。橋を作れば、もっと安全に渡れるかもしれない。
「雨、強くなってきたから帰るわ」
「じゃあね」と一言だけ言葉を交わし、軽く手を振る。彼女も何事もなく無事に帰れることを祈る。先に階段を降りていく彼女の背中を見ながらそんなことを思った。
時間はいつもよりも遅くて、天気も悪い。どう足掻いても外は暗くて、廊下に差し込む光も少ない。気づくと、廊下の電気がつけられていた。静かな校舎に雨の音。蛍光灯の明るすぎない仄かな灯り。雨の日の学校って感じだ。
「私もそろそろ帰ろっと」
結局、彼女が去ってから少しの間、まだまだ窓に増えていく水滴を見つめてから、昇降口へと向かった。靴を履き替え、傘を開く。水色にストライプ柄と水玉模様のミックスされた柄の傘を両手で握ってから気づいた。
「あ、部室にラケット置いてきちゃった」
既に鍵は閉まっているだろう。きっとまた参加するから今日のところは置きっぱなしでもいいやと結論付けて、校門の方へ歩いて行くことにした。
傘をさしていても、手や顔に水が飛んでくる。靴にも雨が降り注いでいる。門のすぐ前に大きな水溜まりができていたのに気づかず、思いっきり踏みしめてしまった。そのせいで、濡れにくいはずの靴の中に水が入り込んで靴下を濡らした。顔を顰めたこと間違いなし。家に帰って靴下を脱ぐときが大変そう。水分を吸ったせいで、絶対に足に張り付いてくる。確実に訪れるやや暗い未来に悲しみを抱いた。
歩き心地が最悪な状態のまま、雨への苛立ちを募らせながら駅へと歩いた。ちゃぴちゃぴと靴と地面が触れ合う度に音が出る。それはいい。問題は靴。もしかしたらムスッとした表情が顔に出ていたかもしれない。すれ違ったおばあさんに顔を二度見された。
駅の構内へ入ると同時に、傘を折り畳み、水気をできる限り払ってから袋の中に戻した。ひとまずリュックに入れる。
久々に部活後の時間帯の電車に乗ってみて思う。
やっぱり暑苦しくて死ぬよ、こんなの。
普段なら快適に座って最寄り駅まで帰ることができるのに、今日はもう、それはそれは紛うことなき満員電車。雨が降っているから乗客の荷物も増え、余計に圧迫された。
駅に着いて、なんとか電車から脱出した私はきっと目に見えてぐったりしていたことだろう。でも、私の心はもう一段階ぐったりの進化を残していた。
再び折りたたみ傘を開いて自転車置き場へ。自転車の鍵を解除して、よし、レインコートに身を包もう! と思いきや、雨の日ならいつも前かごに入れているはずのレインコートの入った袋がない。なんと傘に続いて、こっちも忘れてしまったとは。
傘を貸してもらったから、あまり濡れずに帰れる、ハッピー! なんて少しは気楽に思っていたのに、びしょ濡れ確定で再び軽く絶望している。あーもう! 泣きそうだ。
渋々雨の中、自転車のペダルを漕ぎ出した。
スピードを出せば、家に着くまでの時間が短くなる。勿論スリップしたり、事故ったりしなければの話だが。
時間は短縮できたとして、雨に濡れる程度は少なくなるわけではない。それがわかっていながらも、どうせ濡れるなら今すぐに帰宅して着替えてしまいたいと思った私は、自転車のギアを上げた。いつもなら六段階の中間くらいに設定しているのに、一番重いギアに変えてしまった。慣れない重さに屈して、すぐに元のギアに戻した。うん、やっぱり雨の日は安全第一。
変速に頼らずとも、回転数を増やせば自ずとそれなりのスピードは出せる。ぐちょぐちょで気持ち悪い靴を早く脱ぐためにも、まだまだ強まっていく雨の中、自宅までの道のりを駆けた。肩まである髪の毛は四方八方に吹き荒れて、顔にくっついてくるものもあったけれど、できるだけ無視して走った。
家に着いた私は、すぐさま靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、制服の上からタオルに身を包んだ。リュックも拭いて、除湿器の置かれた室内で乾燥させる。外では雷も鳴っていた。さっきまで鳴っていなかったのに。思っていた以上にこの季節にお似合いな大雨だ。
風邪をひく前に、お風呂に入ってしまうことにした。明日の約束もあるし、体調不良になるわけにはいかない。制服のスカートやリボンも同様に除湿器で乾燥させ、シャツは洗濯機へ突っ込んでから、浴室へと入った。
「んんー…………」
浴室の天井を見ながら、あれこれ考え事をしていた。一人になるといつも、私に降り掛かっているありとあらゆる問題が嫌でも自分一人のものであるように思える。それは【ワイヤレススピーカー少女】の件に限らず、他の人たちの凄さを知ることでわかる私の足りない部分なども。
どんな難題もいつかは解決する、と前向きな誰かが言っていた。時間が解決するとか、価値観が変わるから問題じゃなくなるとか。私も今のイレギュラーがずっと続くとは思っていない、と改めて言っておく。
でも、そんなことを聞いたところで、今の私自身にとっては苦しいことには変わりないし、解決される感じも全くしない。一人で自分自身を見つめていると、どうにも自分の中にある暗い部分が浮き上がってくる。次々と湧いてくる小さな不安の数々が、浴室にもくもくと立ち込める湯気のように私を覆った。
私を悩ませることは多々あるけれど、私を幸せな気持ちにすることもないわけでもない。例えば、明日は友達の家で一緒に映画を見るし。いいことだってある。間違いない。
私は浴槽から立ち上がる。思っていたよりもすぐに体は温まった。
バスタオルで湯冷めしないように体を拭いてから、室内着に着替える。髪は自然乾燥したら絶対に痛むので、なるべく早く乾かしてしまおう。
でもその前に水分だけ補給したい。バスタオルを頭に被りながら、てこてこ歩いて冷蔵庫の前にやって来る。中からアクエリアスを取り出してコップに適量注いだ。ポカリも、グリーンダカラも好きだけど、偶然居合わせたのはアクエリだった。喉から冷たさがゆっくり体へ浸透していく。
水分補給を終えたら、再び脱衣所に戻る。そこにドライヤーがあるからだ。
さらさらとした髪がドライヤーからの風で靡く。髪を乾かしている時間が私は好きだ。浴室と同じように一人でいるという状況でも、心の持ち様が全く違う。
自分と向き合って不安な気持ちも湧いてくる浴室と、それを全て吹き飛ばすかのように穏やかなドライヤーを使っている時間。ドライヤーから出る風の音が、その大きな音が、どんな不安もぶっ飛ばせてしまうのだ。
風の音で自分の声と風以外は何も聞こえなくなるのをいいことに、流行りの曲を口ずさんでみる。いつの間にか、カラオケでもしているのかと思うほど大きな声で歌っていることもあるけれど。
お風呂からあがって、家族と夕食も終えた私は自室へと戻った。
電気を点けて、カーテンを閉めて。外では暗闇の中、まだ雷が鳴り響いている。こういう荒れた天気に遭うと時々思い出す話がある。窓際に立っていた女性が、家の近くに雷が落ちた際に、室内に居たにもかかわらず感電したっていう話。小さい頃にテレビでそんなのを見てから、私は怖くて雷の鳴る日はできるだけ窓に近づかないようにしていた。今もこの話を思い出したときは、しれっと窓際を避けている。
自室の学習デスクの椅子をひく。くるくると回る椅子に座ってスマホを弄った。家の中であればスマホは自由に、そして安全に触り放題だ。いつもと同じようにSNS各種をチェックして、適当に面白い投稿にいいねをつけた。
【ワイヤレススピーカー少女】の話題はまだ盛り上がりを見せているようで、コメント欄などによると、どうやら動画に映っている場所の特定やら学校の特定を済ませた人が既にたくさんいるようだった。そこまで特定されてしまうと、今度こそ学校から何か言われそうだなと思って、胸がズキズキと痛む。まだ動画に映るのが私だというところまで辿り着いていなくても、学校側には問い合わせが殺到するのかもしれないし。そうなってくるといよいよまずい。
再び現れた不安を押し込めるかのように、【ワイヤレススピーカー少女】の動画や関連投稿からは一度目を逸らし、明日の楽しいことを考えることにした。
このちゃんから連絡が来ていた。
『明日、十時までに家に来てほしい! 千紋が来たら一緒に買い出しに出かけるよ~!』
映画を見るだけなのに、買い出しとは? とも思ったけれど、それはそれで楽しそうなので、明日は十時までにこのちゃんの家に行くことにする。何か作るのかな。お昼ご飯とか?
正直、何度も見た映画とはいえ、人と一緒に見たら、また別格の良さがあるのかもしれない。ついでに仲の良いこのちゃんと一緒に見られるんだ、楽しくないわけがない。
問題は一つも解決していないどころか、イヤホンが盗まれるとかいう新たな問題も増えてしまったけれど、とにかく明日は友達と楽しい一日を過ごす。そう心に決めた。
休日の朝十時集合は、まあまあ早め。夜更かししたら余裕で寝坊しそうなので、今日は早めに眠ろうと思う。ジメジメとして湿度も高いので、気温は夜だから多少落ち着いていても蒸し暑い。エアコンをつけて快眠と安眠を手に入れる。ノンレム睡眠とレム睡眠。普段から意識しているわけでもないので、詳しいことは忘れた。とにかく、今日の疲れを癒したい。
そういえば、好きなアーティストが新曲のMVを出していたのを見かけた。それだけ見てから寝よう、うん、それがいい。
新曲を聴く。うわー、かっこいい。柔らかい声なのに、ロックな曲調にめちゃくちゃ合っている。この人の声はバラード系も凄く合うけど、激しい曲調にも合う。凄い。
何もかもぶち破れと言わんばかりの疾走感ある曲調が今も耳に残っている。
寝るときにかける音楽はクラシックとか、ピアノの音のように優しいものの方がいいって昔どこかで聞いたけれど、そんなことは無視して好きなアルバムを一晩中ループ再生して眠る。
部屋は完全に真っ暗にせず、オレンジ色の小さな灯りだけは残しておく。
無音で真っ暗の中眠るのは苦手だ。
少しでも私を見守ってくれる音と光。それらがあるだけで、私は明日も強く生きていける気がした。
天井をぼーっと眺めながら、んふふっと笑う。
何はともあれ、私は明日が楽しみだ。




