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2.瞬時拡散

 木曜日になった。

 昨日の出来事は既に自分の中では終わった話として、新しい一日を迎えた。私は、何事も無かったかのように、制服に腕を通す。カーテンの隙間からは眩い光が差し込んで、希望に満ちた一日を祝福しているかのよう。

 トーストにバターが溶け染みていく様をほくほくしながら眺める余裕さえある。いつもと同じように、歯を磨き、鞄を持って、靴を履き、扉を開いて、自転車に乗って駅に向かって。

 昨日と同じ電車に乗って。

 また、平和な今日が訪れるんだ。

 なんて当然に思っているときこそ危うい。何も警戒していないときこそ、イレギュラーに打ちのめされるものだ。

 私が終わった話だと言っても、私以外にとっては、まだ始まったばかりのホットトピックだったようだ。教室へ入るや否や、誰もがジロジロとこちらを見てくる。私にそんなスター性は秘められていないはず。昨日、帰り際にすれ違った吹奏楽部の彼女も、私から目を背ける。一体どうしたんだろう。いまいち状況を掴めずにいた私だったけれども、すぐに昨日のことを思い出した。


 そうか、みんなもう知っちゃったんだ。


 リュックを背負ったまま、このちゃんの席へてくてくと歩いて行く。彼女は今日も本を読んでいた。昨日は「おはよう」って言うのも忘れるくらい焦っていたけれども、今日は一夜明けてだいぶ落ち着いている。たとえ、周囲がこちらを凝視してきても。


「このちゃん、お」


「ねえねえ千紋ちゃーん、アレ見たんだけどマジなやつー?」


 折角声をかけようとしていたところに邪魔が入った。クラスの中でも一際うるさい女子生徒が声をかけてきた。声が甲高く、きっとお年寄りには聞こえない音域。今日はいつにも増して高い。彼女から少し離れたところで、いつも彼女を囲んでいる女子生徒の面々がこちらの様子を窺っている。

 私は特に彼女との関係が良いわけでもなければ悪いわけでもないのだ。時々喋ることもあるし、別にマイナスな感情を向けられてきたこともない。私から彼女へも、ちょっと声がうるさい以外にマイナスなイメージはない。

 でも、今声をかけてきた彼女にはあからさまにちょっとした悪意があるように感じた。ほんのちょっとだけ。


「ん? アレって何?」


 何のことか想像はできていたけれども、敢えて直接的な表現は控える。もしかしたら、私の想像しているものとは違うのかもしれないし、違っていてくれとも思った。

 でも悲しいかな、思いはそう簡単には結ばれてくれない。やっぱり昨日の出来事のことのようだ。


「えー、とぼけないでよー。動画だよ動画。めっちゃ拡散されてるやつ」


「そんな動画あるんだ。えー見てみたいな」


「え? うそでしょ。この期に及んでまだ知らないフリするの? あーもうわかった。私がこの場で見せたげる」


 そう言うと彼女は制服のポケットからスマホを取り出した。勿論電源はついている。因みにこの学校は校内で許可の無いスマホの使用が禁じられている。

 画面を私の目の前に見せつけ、再生ボタンを押した。音量は教室中に聞こえるくらいの大音量。なるほど、今日の彼女はやっぱり私に対して悪意を持っていたみたいだ。ちょっとどころじゃない。これは流石に良くないと思う。だなんて、冷静に言っているけれど、実際の私はそんな冷静ではいられなかった。


「…………これは、確かに私に似てるけど、違う」


「は? これがあんたじゃなかったら誰だっていうの? うちの制服じゃん。ここまでそっくりな人見たことないんだけど」


「だとしても、それは私じゃ……」


 ふと、このちゃんの方を見た。彼女はきっと気づいている。私が今、非常にピンチな状況だって気づいているに違いない。でも、手に持った本で顔を隠しているようにしか見えないし、何か助け舟を出してくれる様子もなかった。

 私は少し悲しかった。でも、このちゃんがここで何か言ったところで、私にも彼女にも何も良いことはないとわかっていたから彼女を責めるつもりは全くない。

 ただこうしている間にも、私の背中にじわじわと汗が滲んで、顔面も恥ずかしさで赤らんでいく。限界が近づいているのはわかった。

 画面から目を逸らして、黙ってしまう。私は今堪えている。どうしてこうなったのか、何も理解できない不遇な現状に対して、嫌でも向き合わされている。目元が熱い。こんなところで流しちゃ駄目だ。よくわかってる。でも確実に溢れそうになっている。だから必死に堪えている。

 何も言わなくなった私に対して、うるさい彼女は追撃を与えようとしてきた。私は思う、「今までの関係は一体何だったのか」と。決して仲が良かったわけではないけれど、悪くもなかったはずなのに。どうして、動画一つでここまで変わってしまえるのか、不思議で仕方なかった。


「ほら、これ。スマホから流れてる曲があんたから流れてんの。知らない曲だけど有名なの? まあ、私が知らない時点で有名じゃないかー……って、そんなことより。ここ、ね。ここ見て」


 目を逸らしている私の視界にわざわざ画面を押し付けてくる。動画のタイトルを指して、笑いながら彼女は言った。


「電車内で歌いだす【ワイヤレススピーカー少女】だってぇー。あははは……めっちゃ有名人じゃん」


 そんなので有名になりたくなかった。それに何なの? 【ワイヤレススピーカー少女】って。

 私の精神を抉ってきたのは、その呼称でも、動画が拡散されたことでも、うるさい同級生がかなりウザかったことでもなく、聞いていた曲に対して彼女の判断基準で適当なことを言って侮辱されたことだった。

 確かに、老若男女問わず受け入れられている国民的アーティストではないのかもしれない。私たち世代全体に滅茶苦茶人気、ってわけでもないのかもしれない。でも、その人の曲が私は好きだ。有名か有名じゃないかなんて、私が個人的に聞いている分には関係ないじゃない。

 そう言ってやりたかったのに、口から声は出なかった。勿論、手も出なかった。手を出したら、理由はともあれ絶対に私の方が悪者になってしまう。それにそこまでの力もない。

 だから絶対殴ったりなんかしないけど、もしそんなことをしたならば、動画に映っているのが私だと最悪の形でお伝えすることになって、もう後戻りできなくなってしまう。

 彼女は他の人にも言いふらして回っているのだろう。なんだかめちゃくちゃ生き生きしてるように見える。調子に乗っている彼女をそのまま野放しにしたくなかったけれど、私にはどうすることもできずにいた。

 でも、思わぬところから助け舟はやって来た。


「おい、海本さんは違うって言ってるじゃないか。それ以上言ったところで何になるんだよ」


 顔を上げると、一人の青年が私の味方をしてくれている。顔をよく見ると、昨日いきなり話しかけてきた彼だった。朝に弱いのか、眠そうな目をしている。加えて、普段からクラスで特別目立つわけでもない彼には、私が言うのもおかしな話だけれど、不相応な台詞に思えた。でも、その言葉や態度は間違いなく、私の味方で、救世主で、ヒーローみたいなものだった。

 私は何を堪えていたのかも忘れるほど、ただただ不思議に思う気持ちに心が支配された。


「日吉、急に何? いきなり可愛い女子の味方をしだすとかマジで何?」


「少なくとも君よりは可愛いかもね。進んで人を困らせたりしないから」


 日吉君の言葉に彼女は顔を真っ赤にして逆ギレした。もう彼女にとって私のことなんてどうでもいいみたいだった。ただ、自分自身を侮辱されたように感じてキレている。私にはそう見えた。なんとも馬鹿馬鹿しい状況だ。

 あ、待ってほしい。今サラッと流しそうになったけれど、彼、今なんて言った?

 私が呆気に取られているうちに、いつの間にか、うるさい彼女の子分的存在が四、五人彼女を囲むようにして立っている。周りにいるその子たちの目に、彼はどう映っているのだろうか。ボスの敵は私たちの敵、って感じなのかな。特に、ナンバーツーっぽい子はうるさいあの子と同じくらい顔を真っ赤にして彼を睨みつけている。


「可愛くないわけないじゃん! ふざけんな」


 正直もうよくわからない。朝から何してるんだろ自分。気持ちを切り替えて自分の席へを戻った頃には、教室に担任の先生が入って来てホームルームを始めた。結局どんな言い合いをしたのかは聞いていなかったのでわからないけれど、既に教室内は落ち着いていた。

 うるさかった彼女の頬は涙に濡れてぐしゃぐしゃだし、彼女の仲間たちの中にも何故か涙を流している人が。さっきのナンバーツーの子。どうしてその子が? って目で見ているクラスメイトがいる中で、私にはなんとなくその彼女の気持ちがわかった。自分にとって大切な人が傷つけられるのは、どんな人間でも嫌だろう。

 ところで、日吉君は何事も無かったかのように真っすぐ前を向いているし。改めて、教師には見えないところで私たちって色々やってるんだなーと実感した。

 先生の話を聞いているとき、私は正直ヒヤヒヤしていた。あんなにもクラスに例の動画が広まっているんだから、学校側にも届いていてもおかしくない。だから、動画について何か話されるのではないかと焦っていたのだ。でも、実際は何事もなく、無事に話は終わった。呼び出されたりするかな、とも思っていたけれど、それもなさそう。とりあえず助かった。表向きには。

 私が一限目の準備をしていると、隣の席の男子が声をかけてきた。この人は人当たりのいい生徒で、確か野球部に入っていた。彼を嫌う人間は少ない。但し、ちょっとズレた発言が多いのもあって面倒くさがられることはしばしばあるとか。内容はやっぱり例の動画のことのようだった。デリカシーはないみたい。


「海本、あれって本当にお前じゃないのか? 【ワイヤレススピーカー少女】、通称【ワイスピ少女】ってやつ」


「違うって言ってるじゃん」


「そうなのか?」


「そ、う、な、の。もし映ってるのが私だったとしても、誰かのいたずらでCGとかAIとかで作ったものだよ絶対」


 一夜にして通称までついてしまっていることに驚きを隠せないけれど、ひとまずこのちゃん以外には、「あれは私じゃない」で押し通すことにしている。

 そういえば、このちゃん以外から例の動画について指摘されたのは、日吉君が最初だったけれど、どうして「あの動画に映ってるのは海本さんじゃない」なんて嘘をついたんだろう。どう見たって私なのに。

 でも、そのおかげで私は助かった。後で「ありがと」くらい言っておかなきゃ。


「海本じゃないってのはわかったんだけどさ、もうちょい【ワイスピ少女】の話してもいい?」


 坊主頭で野球部の彼は、まだ何か話したいことがあるらしい。私じゃないという前提なら話を聞いてあげないこともない。………聞いてあげる。私はゆっくり頷いた。


「ああ、サンキュ。でさ、あの人まじでスマホで流してる動画の音をまんま出してんの。その仕組みが知りたくて」


「はい?」


 思わぬ視点。そこ、なのか?


「いや、だってさ。歌声だけじゃなくて楽器音も同時に出してんだぜ? それにどうにも合成された映像には見えねえ。このことに気づいちゃったら夜も眠れねーんだよ。昨日まじで眠れなかったんだ。ほら、見てくれよ、このクマ」


 確かに目元にクマができている。当事者である私でさえ、ぐっすり眠れたのに。うーん、なんだかこの人は珍しいタイプかもしれない。まさか今回の件について原因究明したい系クラスメイトも存在していたとは。

 彼はまだ何か言っている。


「あーそれに、スマホと人間がどうやって接続されてるのかも気になって仕方ないんだよなぁ! スマホの画面にはちゃんとその人の名前がBluetoothのペアリング先として表示されてるのかとか、本人のスマホとしか接続されないのかとか!」


「ええ?」


 スマホの画面にどう表示されるかについての答えは、私のワイヤレスイヤホンがペアリング先として表示されていた。勿論答えるわけにはいかない。申し訳ないけれど彼には今日も安眠は訪れないんだろう。

 それよりも怖いことをサラッと口にしたのだけは聞き逃さなかった。


「他の人のスマホと接続される…………? そんなこと知って何になるの?」


 彼は急にもじもじしながら言った。髪の無い頭部をポリポリ掻いている。


「えぇー、だってもし接続できたらさ、この子に面白いこと言わせられるんだぜー」


 うわ、それは流石にひく。ただの変態。なんて口には出さなかったけれど、だいぶ彼のことは軽蔑した。勿論心の中だけで。顔にも少し表れていたのかもしれない。私の顔を見るなり、慌てたように付け足した。


「えっと、ほら例えば動画と動画の間に流れる広告とかさ! 楽天カードマーンとか言い出したら面白くね?」


 何を付け足してるんだこの人。口に出さずとも「は?」って顔をしていたに違いない。もうこれについては確実。あと少しで「はい?」って苛立ちを込めて口から出そうだった。ついでに「楽天カードマーン」は既に一回やってるからもういい。

 どうでもいい話をしていると、あっという間に授業開始のチャイムが鳴った。授業中は動画について誰も何も言わなかった。休み時間になっても、朝のことがあってか、誰も動画について触れない。逆に不自然だと感じるほど、誰も触れない。ついでに私に話しかけてくる人もいつもよりも少ない気がした。

 授業を何時間か終え、お昼になった。食堂のない高校なので、多くの生徒は教室で昼食をとる。私はいつも、このちゃんと一緒に食べている。なので今日も彼女の席へ向かったのだけれど、そこに彼女はいなかった。少し待っても帰って来る気配がなかったので、私は渋々一人でお昼にした。

 午後からの授業が始まるとちゃんと教室にこのちゃんもいて、もしかして私のことを避けているんじゃないかと胸がざわついた。




「ねえ、後でちょっと図書室来てよ」


 今日の授業が全て終わり、帰りの準備をしているときになってようやく私はこのちゃんに話しかけることができた。彼女は私を見るなり目を逸らそうとしたけれど、一応私の方を見て、「うん……」と元気のない声で答えた。

 絶対朝のことを引きずってるな。私は無理にでも笑顔を作って見せ、安心させようとした。私の顔を見たこのちゃんも、薄っすらと微笑んだ。

 図書室に来てもらうように彼女に伝え、私は先に日吉君の元へ向かった。彼は私の助けになれると言った。このちゃんには悪いけど、今朝のことについて少しでも感謝したいし、一度彼の話を聞きに行くことにする。

 荷物をまとめて教室を出ていく彼の後を追う。歩幅が違うのはわかるけど、それにしても歩くの早くない? 気を抜くと見失ってしまいそうだ。

 彼はどこへ向かっているのか。私は彼のことを何も知らないので推測もままならない。部活に入っているのかについても知らないし、何を好むのかも知らない。そんな彼を追いかけている自分自身もよくわからなくなってきた。

 校舎内を歩き続けていると、徐々に人は減っていき、ある教室の前で彼は立ち止まった。そして、振り返ってこちらを見る。


「何か用でも?」


 昨日私の力になるって言ってたくらいだし、「やっぱり来たんだ。見せたいものがある」みたいな反応をされるものだとばかり思っていたのに、予想外にもあっさりとした反応をされて困惑しかけた。


「えっと、今朝はありがとうって伝えたくて」


「ああ、気にしなくていいよ。海本さん色々大変そうだし」


「まあね……それと、昨日は友達に引っ張られて話聞けなかったんだけど、力になれるってどういうことなのか聞いておきたくて」


「なるほど。隣にいた彼女と同じで、君も僕の話を聞きたくないのかと思ったよ。でもそういうことなら。ちょっと待ってて」


 彼はそう言うと、目の前の教室のドアに鍵を差し込んで回した。ドアが開くと、中には段ボールがたくさん積まれた物置部屋みたいな場所が現れた。少し埃っぽくて、空気が淀んでいる。教室の札を見て納得。ふーん、「準備室」か。道理で物置になってるわけだ。


「日吉君はここで何してるの? 部活とかはやってない?」


「ん、部活には入ってるよ。一応卓球だったかテニスだったか、なんかそんな感じのとこに籍を置いてたと思う」


 適当すぎる受け答えに不信感を抱かずにはいられなかったが、それよりもここで何をしているかが気になった。迷わず三、四畳ほどの部屋の中へ足を踏み入れる。段ボールだらけだし、窓は一つしかないし、勿論空調設備もないわけで。単純に暑い。廊下とは別世界。少し埃っぽいのに加えて、蒸されているような。


「日吉君ここで何してるの?」


「良大でいい。それと焦らなくてもすぐに見せるから安心してほしい」


 この部屋に唯一置かれた机と椅子は普段教室で見る物と同じだ。けれど、塗装が剥げていて、年季が入っている。席に座った彼は、段ボールの山の中から一台のノートパソコンを取り出して机に置いた。


「そのパソコン…………」


「学校の備品だろうね。でも今は使われてない。数年前に学校のパソコンが一新されたらしいんだけど、これは以前使われていた物だよ」


 何も悪びれること無くさらりと言う。清々しいまでに。当然のように。


「………ねぇ、聞きたいことは色々あるんだけどさ、そもそも一人でこんなところに居ていいの? 先生に鍵借りてるの?」


「うーん、良いか悪いかで言ったら、悪いね。鍵は先生に借りたときに複製した」


「え、めっちゃ悪いじゃん……」


「まあまあ、鍵複製してこの教室に勝手に入っている以外、特に悪いことしてないし」


 苦笑いしながらもそれは本心のようだった。これは…………このちゃんの言った通り、信用してはならない人間だったかも。今更ながら部屋から出ようと後退りしたけれど、強引にも腕を掴まれた。息を呑む。見た目からはそこまで筋肉のついた感じはしないのに、腕を掴んだ彼の力は私とは比べ物にならないほど強く感じた。


「待って。まだ何してるか教えてない。聞いてきたのは君の方なんだから、最後まで人の話は聞いた方がいいと思うよ」


 正論ではあるけど、ただただ怖い。しっかりとこちらの目を見て話しかけてくる。私はこの場から離れる気力を失い、大人しく段ボールの山の中へ戻った。


「友達と図書室で会う約束してるから、簡潔に教えて」


「わかった。出尾(でお)木乃香(このか)、さんだね?」


「そう。あの子は日吉君がこの件に関わるのをあまりよく思ってない。だから、何か勘違いされる前にこの場から離れたいの」


「了解、簡潔に話すよ。でもその前に一つだけ…………僕、苗字で呼ばれるのが得意じゃないんだ。なんだか気が張ってしまうというか。だからできれば良大って呼んでほしい」


 さっきも下の名前を勧めてきたのはそういうことか。人それぞれ、何かしら拘りは持っているんだろう。私にその辺りの拘りはない。ないなら相手に従っておこう。私は、彼を下の名前で呼んであげることにした。


「じゃあ良大君、早めでお願いします」


 改めてお願いすると、彼はパソコンの画面を見せながら言った。


「これがまず君の映ってる動画。へぇー随分拡散されたね…………正直これには僕も驚いている」


 何かを知っているような口ぶりに違和感を覚えたが、とりあえず聞き流した。彼は段ボールの山から今度はUSBメモリを取り出し、パソコンに挿す。何でも出てくる段ボール、その中には四次元空間でも広がっているのだろうか。一つのファイルをクリックすると、英語と数字だらけのシステム画面のようなものが現れた。それを指して話を続ける。


「これは僕が作っているシステム。なんでもワイヤレススピーカーにできる機能を目指している」


 この人は私を何度でも驚かせる。心臓に悪い、悪すぎる。


「え? 聞き間違いじゃない?」


「ワイヤレススピーカーにする。聞き間違いじゃないよ」


「なんでそんなもの……っていうか、もしかして全部良大君が……」


 全てを仕組んだのは彼で、問題は全て解決かと思われた。


「それは僕じゃない。見て貰えばわかるように、このシステムはまだまだ完成する気配もない。それに、僕はこれを人に使う気は更々ないし、正直できるとも思ってない。ただ、実際君のようにワイヤレススピーカーになっている人間がいるわけだし、どこかに同じようなシステムを作っている人がいるんじゃないかと思って」


 クラスメイトの中に、ここまで独創的なことをしようとしている人がいたという事実に驚きを隠せない。正直、画面を見ても全く何も伝わってこない。ただ、なんか凄い、くらい。

 反射的に彼を疑ってしまったけれど、いまいち私の力になれると言った真意がわからなかった。でも、それも隠さずに話してくれる彼の態度には好感が持てた。


「僕は高校生のうちにやり遂げたいんだ。このシステムを大々的じゃないにせよ、何かしらの方法で発表して、みんなから凄いって思われたい」


「承認欲求の塊?」


「そうだよ。自己完結してもいいんだけどさ、やっぱり誰かに認められたい。ついでに高校生が作りました、なんて言ったら、みんな口を揃えて凄いって言うでしょ」


 彼は凄く正直だった。私には堂々とそんな夢を語ることはできない。自分がいいなと思っているものさえ正直に伝えられないのだから。


「で、それが私にどう関係するの?」


「密接に関係しているよ。君をワイヤレススピーカーにした人間がいるのだとしたら、その人にすぐにでも君にしていることをやめさせる。ついでにそのシステムを作ることも止めさせるね。こうすることで、第一人者を僕にできる」


「随分と強引だね」


 堂々と話す彼の言っていることは、大半が良くないことのように聞こえた。でも、協力者はある程度いてくれた方が私にとってはありがたい。正直、このちゃんのことは信頼しているし、大好きな友達だとは思っているけれど、彼女一人に私の秘密を背負わせるのはなんか違うと思っていた。

 良大君は具体的にどう力になってくれるのか、そのプランをざっと教えてくれた。


「幾つか明らかにしたいことがあるんだ。一つは君を【ワイヤレススピーカー少女】にした張本人が誰なのかを知ること。これについては僕が独自に調査を始めてるよ。まだ何も掴めていないけど。それともう一つが動画を拡散したのが誰か知ること。これは動画を解析して電車内、例えば窓とかポールとかに反射して顔がわかっていないかどうか調べる。この二つが判明すれば自ずと事態は収束へと向かうと思う」


「なるほど」


 私は理解していなくても「なるほど」と言ってしまうときがある。今のがまさにそれだ。私が本当に理解したかどうかなんてお構いなしに彼は話を続けた。


「動画を解析するために知り合いに協力してもらってるんだけど、解析結果が出たらまた声をかけさせてもらってもいいかな?」


「わかった。あの……改めてありがとう、協力してくれて。あの子待たせてるかもだからもう行くね」


 不思議な協力者を得た私はこのちゃんと約束した場所へ急いだ。意外と時間が経過している。なんだかんだ三十分くらい経ってるし、これは待たせちゃってるかも。

 階段を一段飛ばしで駆け上がり、図書室のある階へ向かう。途中、上から降りてくる生徒とぶつかりそうになって「ごめん!」と謝った。


「このちゃん、遅くなってごめん!」


 図書室に入るとすぐに彼女の姿を見つけ、後ろから声をかけた。椅子に座って昨日借りた本を読んでいた彼女はくるりとこちらを向いた。


「んーん、大丈夫だよ。借りた本読んでたし。それより今朝は……」


「あー、そのことは気にしなくていいよ! 私がこのちゃんの立場でも何も言えなかったと思うし。過ぎたことをぐちぐち言っても仕方ないでしょ? ほら、作戦会議しよっ!」


 私は普段よりも明るく振舞っていた。彼女に不安な思いをさせたくなかったから。それに、実際今後のことの方が大事だから。私は新たな協力者を得たことは伏せつつ、このちゃんと現状について話し合うことにした。


「知っての通り、動画がめちゃくちゃ拡散されてる。このままだと、マスクなしで外出できなくなる日も近いかも」


「それどころか住所とか名前とかも特定されて、もっとやばいことになるかもしれないよ」


「ぎゃあー。そんな怖いこと言わないでよ! っていうか、そうならないためにこれから話し合うんでしょ!」


 私たちはいつものように戯れてから本題に入る。私たちが考えなくてはいけないこと。それは、この騒動を収めることと、【ワイヤレススピーカー少女】から脱却すること。どっちかだけでは駄目だ。両方やらなくちゃならない。

 向かい側の席に着いた私は、テーブルに肘をついて、手にほっぺたを乗せながら「うー」と唸った。その様子を見たこのちゃんはクスクス笑う。こんな平和がずっと続けばいいのにな、なんて思っても、実際今は平和じゃない。私は絶賛大ピンチなのだから。


「あ、そういえば一つ試したかったことがあるんだけど」


「なになに?」


「このちゃんのスマホと私もペアリングできちゃうのかなーって」


「ふぇっ!? 千紋、何言ってるの? そんなことできちゃったら、私…………きゃあー!」


 このちゃんが何を考えているのか、時々読めなくなる。そんなときは直接聞いてしまえばいい。柔軟剤やシャンプーは訊けなくても、こういうときの私は結構ズカズカと突っ込んでいける。


「んー? もしペアリングできたらどうするのー、こーのちゃーん?」


 ニヤニヤしながら問いかけると、彼女は口元を押さえて照れながら教えてくれた。


「…………やっぱり、もう一回、楽天カードマンって」


「それは却下」


「じゃあめっちゃ愛を叫ばせる」


「え、突然すぎる。何に対しての愛?」


 といった調子でまたもやふざけつつも、検証は進めなくてはならない。もし他の人のスマホから流れる音声も私から出せてしまうとなると、より一層注意が必要になりそうなので、確認しておくに越したことはないという大義名分がある。

 私と私のスマホの間については、ペアリングなしでも私がスピーカーとしての機能を果たせる。けれど、一応初めはワイヤレスイヤホンとスマホがペアリングされていたのが、突然ワイヤレスイヤホンからは音が流れず、私から流れるようになった。このことから考えて、私とこのちゃんのスマホをペアリングするならワイヤレスイヤホンとスマホをペアリングすればいけそうだ。うん、自分でも何言ってるんだろ。


「これ私のイヤホン。ペアリングしてみよう」


「わかった」


 そう言ってスマホを取り出したこのちゃん。何度でも言おう。この学校は許可なく校内でスマホを使用することは禁止されている。全く、いつまでそんな校則があるんだろう、と疑問に思うことも少なくなかったけれど、やっぱり堂々と破るわけにもいかないので、みんなコソコソと使っている。

 とりわけこの時間の図書室には基本的に司書の方が一人、図書室の奥の部屋で作業をしているくらいで、貸し出しの際にチャイムを鳴らせば出てくるだけなので、人目を気にせずにスマホを取り出せる。

 それに、司書の方も特に先生たちに伝えるわけでもないので、校内で安全に実験するにはここが最適なのだ。但し、大きな音を出すのは図書室のマナー的に駄目なので、なるべく小さな音で。結局、コソコソとしなくちゃいけないことには変わりない。それが、私たちのように至って真面目な生徒たちの生きる術なのだ。教室で堂々と爆音で動画を再生できるようなあの子とは違う。


「あ、ペアリング先が表示された。接続するね」


「おっけー、お願い」


 まず接続自体は上手く行った。確実に彼女のスマホには私のイヤホンがペアリング先として表示されている。問題はここから。

 音量を小さくして、万が一、私から音が出てもいいように備える。


「じゃあ、この動画を再生するね。準備はいい?」


「勿論だよ、いつでもかかってこーい!」


 私は耳にイヤホンを装着すると、このちゃんに笑顔を見せた。この笑顔の裏に、緊張が隠れていることはたぶん気づかれなかったと思う。

 このちゃんは再生ボタンを押した。


「一個買うと一個もらえる!」


 あ、広告流れた。サングラスをかけた肉付きのいい男の人がワクワクさせるような声で、コンビニで商品を一つ買うともう一つ貰えるキャンペーンについて宣伝している広告だ。家の近くに昔からあるコンビニがファミマだということもあって、このキャンペーンには何度かお世話になった。しかも、宣伝している男の人は、私たちの住む地域でラジオ番組をやっているDJなのだ。ラジオにハマっていたことがあったので、彼の声には聞き覚えがあった。なんとも身近な物と人。こんなところで偶然出会えて、なんだかちょっと嬉しかった。

 って、そんなことは一旦置いておこう。今はこの音がどこから流れたかの方が重要だから。

 既に動画を一時停止しているこのちゃんに検証結果を訊くことにする。私はイヤホンを耳から外した。


「どう? 聞こえた?」


 今回もこのちゃんの顔を見れば答えは歴然としていた。笑いを必死に堪えている姿を見て、私も笑いそうになった。


「…………うん、めっちゃ……いきなりノリのいいおじさん? お兄さん? の声がして……あはははは」


 堪えきれなかった笑いが爆発する。相当ツボったっぽい。当然だよ。女子高生から急にノリのいいDJボイスが流れたら私だって笑っちゃう。

 とりあえず、今の実験を通してわかったことがある。あまり喜ばしくないことだけれど、どうやら私は私以外の人のスマホとも繋がってしまう。

 それに、私の持っているワイヤレスイヤホンの機能が私に移っているということも。音を出すのがワイヤレスイヤホンの役目だとしたら、このイヤホン、完全に存在意義を失っちゃってるよ。

 ただのアクセサリーと化したイヤホンを、私はそっとケースにしまった。


「他の人のスマホとも繋がるってことは、私もしかして、他の人からペアリングされないように気をつける必要もあるってこと?」


「そうかも。今のところはそのイヤホンと接続することがトリガーっぽいね。絶対そのイヤホンなくさないようにしなきゃ」


「ちょ、怖いこと言わないでよー! というか、なんでペアリングする機能だけはこれに残ってるんだか。めちゃくちゃ中途半端じゃん」


「でも、ペアリング機能まで千紋に移ってたら、それこそ誰からでもペアリングされやすくなっちゃいそうだし、私はその方が嫌だな。イヤホンの方に残ってて良かったと思うよ」


 確かに。このちゃんの言う通り。イヤホンさえ人の手に渡らなければ、私はこれ以上心配事を増やさなくて済むというわけだ。イヤホンは音を出す機能を失ったけれど、完全に存在意義を失ったわけではなかった。ペアリングするためだけに存在するイヤホン。なんだそれ。


「それと私のスマホと一度ペアリングしちゃったけど、ペアリング先消したら繋がらないかとかも確認しといた方がいいと思う」


「それは確かに! よく考えたら私と私のスマホ、ペアリング解除しても繋がっちゃうし」


 このちゃんのスマホとペアリングを解除して、ペアリング先の履歴情報も彼女のスマホから消した。私は再びドキドキしながら、このちゃんが再生ボタンを押すのを待ったけれど、今度はちゃんとスマホ本体から音が出る。「一個買うと一個もらえる!」とDJの顔から声を発した。


「理由はわかんないけど、一応私のスマホとのペアリングは完全に解除できたみたい」


「よかった。それだけでもすごくよかった」


「でも、いつまた繋がるかわかんないし、千紋の近くで再生する動画とか音楽はちょっと気をつけるようにするね」


「あ、うん…………」


 なんだか非常に申し訳なかった。私の都合で、大好きな友達の自由を制限してしまうことになるなんて。でも大丈夫。きっと私は【ワイヤレススピーカー少女】から解き放たれて、再びこのちゃんの自由も取り戻すんだから。

 私は、今日の実験でわかったことをメモした。最初はスマホのメモ機能を使おうと思ったけれど、よく考えたら自由にスマホの使えない今、メモはアナログじゃないと見たいときにすぐに見られないことに気づく。シャーペンをペンケースから取り出し、ほとんど使っていない手のひらサイズのメモ帳のページを捲った。



 Rが動画を解析。

 Rが犯人も追ってる。

 私とスマホは、ペアリング設定なしでも接続される。

 私と他人のスマホは、イヤホンとのペアリング設定を行ったときだけ接続される。

 動画を再生すると、高頻度で広告が入る。



 以上のことをメモに書き記した。Rというのは、日吉良大君のことだ。良大のRを取って自分にだけわかるようにしている。もし、このちゃんにこのメモが見られたときにも、彼女以外の協力者の存在を曖昧にできるようにした小細工だ。

 メモをリュックにしまう。スマホはリュックから制服のポケットへ移動させ、電源が切れていることを確認。下校の準備を済ませると、同じく準備を完了させたこのちゃんと共に図書室を出た。

 廊下の窓からもグラウンドを駆ける生徒が見える。

 彼らが汗を流して自分自身を輝かせている中、私は一体何と戦っているんだろう。

 図書室のある階の一つ下の階に例の準備室がある。階段を下る際に、少しだけ大回りして、その階の廊下を通ってみた。準備室が視界に入ったけれど、部屋の中にまだ彼はいるのか、いないのか、それは遠くから見ても全く判別できなかった。

 校門の前まで、今日もこのちゃんと歩いてきた。校外に出れば、数分も経たないうちに別の方向へ歩き出す私たち。


「じゃあね、また明日ー!」


「うん、千紋。また明日」


 少しだけ雑談した後に、別れの挨拶を告げた。普段なら私たちは各々の進む方向へすぐにでも歩き出すのだけれど。今日はなんとなく、歩き出した足を止めて、一度振り返ってみることにした。


「えっ?」


 振り返ってみると、このちゃんはまだ自転車に乗らず、こちらをじっと見つめていた。スマホでも見ていたのかな。私は偶然彼女がこちらを見ているのだと考えた。

 でも、どうやら違ったみたいだ。


「あ、珍しい」


 彼女はそう言った。私はどういう意味かわかりかねたので質問した。私は仲の良い友達に対しては遠慮なく質問できてしまうタイプ。但し、使っているシャンプーは以下略。だから訊いた。


「珍しいってどういうこと?」


 でも、このちゃんは明確な答えはくれない。ただ、こちらに向かってにっこり笑って、手を振りながら言った。


「んーん、なんでもないよ! また明日ね、千紋!」


 笑顔で手を振る彼女に、私も遅れて手を振り返す。彼女の背景になっている空はまだまだ明るい。


「じゃあねー、このちゃん! 今度こそまた明日ー!」


 もう一度別れの挨拶をすると、ようやく彼女は自転車に乗って走っていった。私はその後ろ姿を眺めてぼんやりと思った。


「なんか嬉しそうだったな」



 電車に乗って無事に家に帰った私はここでようやくスマホの電源を入れられる。全く、スマホの使えない電車内はすることがない。電車の中で人間観察をする人がいるという話を時々聞くけれど、あまりジロジロと他人を見るのも良くないなぁと思うので自分にはできない。そういう理由もあって本当に何もすることがなくて、ただただ目を瞑って眠ったふりをしながら最寄り駅まで帰ってきたのだ。

 知らない土地へ向かう電車だったら窓の外を見るのも一興だったかもしれないけれど、もう一年以上通っているわけだし…………


「ただいまー」


 玄関のドアを開けるのと同時に、数えきれないほど口にしてきた言葉を今日も発する。返事がない。どうやら家族は出かけているみたいだ。

 リビングに入るとすぐに荷物を降ろし、手洗いうがいをする。冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出し、コップに注いだ。少しお腹が空いたので、お菓子も食べる。スナック菓子でも生菓子でも、なんでも好きだ。今日は誰かから貰ったらしいお饅頭があったので、麦茶と共に頂いた。甘々の餡子は麦茶のおかげで程よい甘さに調整される。んー、んまー。

 満たされた気持ちのまま、リュックを持って自室のある二階へ。部屋に入って再びリュックを降ろし、流れるように制服のままベッドへダイブした。左手に握っていたスマホを目の前に持ってきて、SNSを見た。

 偶然ノンレム睡眠とレム睡眠についての投稿が目に入って、良い眠りってなんだろうなんていう、今の私にはどうでもいい話題が脳裏に浮かんだけれど、画面をスクロールしていたら例の動画が目に入ってきて、すぐさま消滅した。


「現実なんだ…………」


 【ワイスピ少女】の話題はどのSNSを見ても何かしら目に入ってくる。その度に恥ずかしさが蘇ってきた。私は枕に顔を埋め、「うぐわあああ」と悶える。ベッドの上なので、脚もジタバタさせながら。

 私は思う。女子高生がベッドの上でスマホ見て悶えるのって、気になってる人から自分にとって都合のいい言葉かけられたときとか、恋とか、恋愛とか、恋とか。そういうときなんじゃないの? って。

 でも私はそんな理想的な状況からはかけ離れた内容に対して悩まされている。ほんと、なんなんだよ!

 暫くベッドの上でゴロゴロ転がっていた。窓のカーテンを閉め切っていないので、家の外が今もなお明るいことがわかる。

 真っ白な天井を見ていると、色々と考えてしまう。ワイヤレススピーカーのことだけじゃなくて、今の私について全般。ボヤボヤと浮かんでは消えるのを繰り返しながら、脳内を小さな不安が常に覆い、焦燥感に駆られる。

 天井を見つめる時間。これはある意味、これは自分自身を見つめている時間なのかもしれない。

 部活には入っているけれど幽霊部員みたいなものだし、折角早く学校を出ても特に寄り道もせずに家に帰ってしまうし、特別仲の良い友達は何人かいるけど彼女たちほど何かに対して好きだって正直に言えたことはないし。

 表向きには明るく振舞っているつもりだし、周りからは「いつも優しくしてくれるー」とか「一緒に居て楽しい」とか、ポジティブに捉えられていることの多い私だけれど、こうして自分を見ていると今しかないはずの高校生という時間を意味もなく無駄にしているように思えてくる。

 部活が全てじゃないし、帰り道に友達とわちゃわちゃするのが全てじゃないし、好きなものに対する本音を晒すことが全てじゃない。そう思いたくても、その「全てじゃない」はずのことが全てのように思えてくる。

 だったらそれらを全部ちゃんとやればいいじゃない、って言われても、心のどこかでいつもブレーキを踏んでしまう。

 皆は知らない。私がこんなにもグズグズしていて何もできていないということを。他の人たちから見た私は皆と同じようにキラキラとした高校生活を送っているものだと思われているのだろうか。

 天井を見るのをやめて、ベッドから起き上がり、机の横に立て掛けられたラケットに目をやった。昨年の一学期か二学期まではそこそこちゃんと行っていた部活で使っていたものだ。使ってなさすぎてラケットの入ったケースに少し埃が被っている。

 なんとなく私はケースからラケットを取り出し、一振りしてみる。懐かしい感触だった。高校入学と共に始めた運動部。中学までは吹奏楽部をやっていたけれど、運動部もやってみた方がいいという周りからの声を聞いて始めた。このラケットは部活を始めるにあたってお父さんに買ってもらった物。色だってわざわざ選んだ。あまり使っていないラケットとはいえ、何かしらの思い出はある。見ていると全然使っていないのが申し訳なく思えてきた。

 私はケースに付いていた埃を払い、リュックに立て掛けるようにラケットの入ったケースを置く。

 ワイヤレススピーカーの問題については忘れていない。でも、ずっとあの動画とこの現状のことばかり気にしていても仕方がないようにも思えた。

 今の私に必要なのは気分転換。

 久々すぎて少し緊張する。後輩として入ってきた一年生の顔はほとんど知らない。

 それでも。


「…………明日久々に行ってみようかな」


 クラスに同じ部活の子がいる。その子も私にとって大切な友達の一人だ。彼女がその部活に入るって言ったから私も入部を決心したくらい。

 たぶん今も部活中。終わった後に気づいてくれればいい。

 私は彼女にメッセージを送った。


『明日部活行くー』

『何か必要なものあったら教えてー(ハイタッチの絵文字)』

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