1.接続不良
接続済み。
スマホの画面を見ると、ワイヤレスイヤホンと正常にBluetoothが繋がったことがわかる。今日も大好きな曲を聴き、見たい動画を見る。今年で通い始めて二年目になる高校へ通学中の電車の中で、私は自分だけの好きだという感情と向き合った。
ワイヤレスイヤホンっていうのは、本当に素晴らしい発明だと思う。耳元で、ストレスなく、私のためだけに、音を、感動を届けてくれる。一度使うとやめられない。もう有線のイヤホンには戻れない。首に纏わりついてくる線が私の好きへの雑音になってしまう。
ワイヤレススピーカーも好い。やっぱワイヤレスって大体ストレスフリーだし、今を生きる私たちって、とりあえずワイヤレスに繋がっていればいいよねってところは確かにある気がする。
「次はこの曲っと」
小さく呟きながら再生ボタンを押す。すぐに音楽が流れた。音楽系のサブスクに入っていない私、広告が入らずに曲を聴けたことに少し気分が上がる。アップテンポなイントロが今日も私の心を明るく染め上げてくれる。
でも、うーん…………今日はやけに音量が大きい気がする。ちらっと周りを見ると、私に視線が集まっている気がした。
わー、なんかめっちゃみんなこっち見てくる。
もしかして音漏れかな。だとしたら皆さんごめんなさい。自分の好きなもので周囲に迷惑をかけるというのは、地味に嫌。いや普通に嫌だ。周りから私だけでなく、その音楽までも鬱陶しく思われるというのは苦しい話だ。だから心の中で謝っておく。
一度曲を止めて、もう一度イヤホンを接続し直し、再び再生。すると再び周囲が私を凝視した。えっ、なになに? 何かついてる? やっぱ音漏れしてる?
不安になった私は、イヤホンを外してみた。
イヤホンを外したけれど、曲は流れている。しかも爆音だ。
急いでスマホの音量を下げたが、それでもまだ聞こえる。どこから音が…………
音漏れに気づいたときの焦り。周りへの迷惑がどうこうと言っていたけれど、結局のところ、恥ずかしさが申し訳なさよりも圧倒的に勝り、ぶわっと頭も顔も熱くなる。
音の出所を探すべく、少々あたふたしていると、小学生の男の子が一人、とことこと近づいてきて言った。その子の目は何故か輝いている。
「お姉ちゃん、歌上手だね! それに楽器の音まで出せちゃうなんて、有名なユーチューバーみたい!」
この子はいきなり何を言っているのだろう。私は更に混乱する。
「ええっ? 私歌ってないけど」
そう言いながらも、電車のドアに映った自分の顔を見てみる。すると、せわしなく口が動いていることに気づいた。え、まさか。
「ふぇわあああ!?」
スマホで再生している曲の音に、私の声が混ざる。なんだこれなんだこれなんだこれ!
私の方にスマホを向ける人がいる。盗撮だ。勝手に人の姿を動画に収めるなんて。こちらにスマホを向け続ける若い男は黒いフードを被っている。背格好からして恐らく男性だ。表情はよく見えないけれど、きっと笑っているに違いない。
他の乗客も、何か痛いものを見るような目で私を見る。逃れようのない恥ずかしさで爆発しそうだった。顔面が増々赤くなっていくのに対して一層パニックになって、スマホで流している曲を一時停止するという選択を取るまでに時間がかかってしまった。
ようやく音を止めたときには、額からは汗がだらだらと流れ、その場に立っているのがやっとだった。少しふらついている。学校の最寄り駅で下車した後もまだ恥ずかしさに苦しめられ、バクンバクン動く心音が聞こえ続けた。
人の波に乗って駅から出た。少し冷静になって初めて、私に降り掛かるであろう問題が脳裏に浮かんだ。私を映した動画は遅かれ早かれネット上に拡散されてしまうかもしれない。あのフードの男、絶対いつかぶん殴ってやる。でも、私にそんな力はないので、あくまでも今私の中にある感情の度合いが暴力的になるほどだというだけ。
幸いにも同じ車両に知り合いも、同じ学校の生徒も乗っていなかったようなので、まださっきの出来事が学校中に知れ渡るまで猶予があると思う。だから私はなんとかしてこのことを信頼できる友達などに相談しておかなくてはならないと考えた。何かしらの方法で私が自分から伝えるよりも前に知られてしまった場合、味方になってくれる人は減ってしまうかも。
時間を確認する暇もない。同じ制服を身に着けた人たちと同じ方向へ。蹴伸び程度のゆっくりペースで進んでいる人の流れを、一人全力バタフライで進むが如く、とにかく走って教室へ急いだ。
スマホから何かしら音が出ると、それが私から発せられてしまう気がしたので、一度電源を切っている。だから、友人にすぐに情報を伝えるには教室へ辿り着くほかに方法はなかったのだ。
「このちゃん。ちょっと聞いて欲しいことがあるんだけど! 今から言うこと、全部信じて! で、お願いだから私の味方して!」
教室に入るや否や、真っすぐに友人の座席へ向かい、机をバンッと手で叩いた。座って本を読んでいたこのちゃんは目を丸くして、こちらを見上げる。彼女の持つ子猫のようにつぶらな瞳は、いつも驚くとより一層丸くなるのだ。彼女の隣の席で伏せていた生徒も肩をビクッと震わせた。睡眠の邪魔をして申し訳なかったと思う。
私のとても大切な友達、出尾木乃香。私は彼女をこのちゃんと呼ぶ。
「どしたのいきなり。朝から元気すぎて普通に怖いよ?」
「事態は一刻を争うってやつなの! いいから聞いて!」
「わかった聞く聞く。聞くからさ、机トントンしないで」
無意識のうちに彼女の机を指でトントンしていたので、それをやめる。そして、まだ火照っている顔面の熱さを感じつつ、一度深呼吸してクールダウンを試みた。それから声を潜めて話した。うん、周りに聞かれるのはまずい。これは君と私だけの秘密ってこと。
「……なんか私、ワイヤレススピーカーみたいになってる」
「んんん?」
頬杖をついて私を見上げる彼女は首を傾げた。それに合わせて、肩まで伸びた彼女のさらさらとした髪が揺れる。
「あ、信じてない顔! だ、か、ら、スマホで再生した音が私から発せられるんだって!」
「ちょっと何言ってるのかわからないんだけど」
このちゃんが戸惑うのもわかる。私だって戸惑ってるんだから。とりあえず理解してくれなくてもいいのだ。ただ、この不安と恥ずかしさを信頼できる誰かに共有することで少し落ち着きたいだけなのだから。
「何言ってるのかわかんないけど、千紋がそう言うのなら信じるよ」
持っていた文庫本を閉じて席を立ったこのちゃんは、私よりも少し身長が低い。私から見て頭頂部が見えるくらいには低い。肩までくらいの長さの髪はさらさらで、柑橘系のいい香りもする。どんなシャンプーとか使ったらそんないい香りになるのか、いつも不思議に思っている。でも訊いたことはない。仲が良いからこそ、彼女の性格を知った上で、そういうことをずかずかと訊くのはあまり良くないかもしれないと勝手に思っているから。以前、といってもだいぶ前、何も考えずに「柔軟剤何使ってるの?」と訊いて赤面させてしまったことを私は反省している。あれはノンデリだった。
「ありがと。でも、このちゃんが想像してるよりもずっとまずい状況でね……きっとネット上に載せられちゃうと思うんだ私」
「一体何をしたっていうの……?」
心配そうな顔をして少しだけ私を見上げるようにして話す。友達を不安な気持ちにさせていることに対して後ろめたさを感じた。でも同時に真剣に心配してくれることをとても嬉しいとも思ってしまった。
「このちゃんになら見せてもいいか……うーん、わかった、じゃあ放課後に図書室で見せる!」
教室に担任の先生が入ってきたところで一度話はおしまいにする。動揺していたこともあって気づかなかったけれど、今日の私はいつもより少し遅めに登校していたようだ。なるほど、だからホームルーム前の時間が短く感じられたのか。
先生が出席確認をした。うちのクラスは基本的に休む生徒が他クラスと比べて少ない。継続的に学校に来ない生徒がいないのは、それだけこのクラスの環境に各々が順応できているということなのだろうか。
とはいえ、誰しも体調を崩すことはある。ついでに季節の変わり目である今、うちのクラスでさえ何人か体調不良で休んでいる。
もしかしたら、この体調不良ビッグウェーブに乗らないわけにはいかない! というノリで健康体でも自主的に休んでいる人もいるのかもしれないし、精神的に休みたい人だっているのかもしれない。理由なんて本人たち以外知り得ないのだから、友達が休めばちょっと寂しいなと思うくらいだ。今日は友達が一人お休みのようだ。ちょっと残念。最近はあまり話していない彼女、早く元気になってくれると嬉しいな、なんて思いながらも、一時限目の授業の準備をした。
私は情報が世に出回るスピードを見誤っていた。
放課後に図書室へ向かう頃には、学校内のネット大好き人間のうち何人かには既に例の映像が目に入っていたようだ。また、その中でも鋭い観察眼を持っている人が数人、うちの学校の制服だと気づいた。そして、さらにその中でも探求心の強い数人が動画に映る人物が私なのではないかと勘づいた。そしてそして、その中でも一人、勇気のある人が、私の後をつけてきていることに私は気づかず、このちゃんと共に図書室へ入って行った。
カウンターから離れた席に教科書やら何やらたくさん荷物の入ったリュックを下す。正直地味に重かった。高校生ってもっと荷物軽そうなイメージで、重いとしたらバッグに付けた大きなぬいぐるみやキーホルダーなどの装飾品のせいだとばかり思っていたのは入学前まで。実際は授業で使う教科書や資料集が束になってのしかかってくる。それは私が入学した学校がそれなりに学業にも力を入れているからなのか、一般的にそうなのか。どうせ答えはわからないけれど、街で見かける同年代の高校生には、意外と入学前の私のイメージ通りの人もいる。うん、たぶん答えは一つじゃないってことだ。
それはさておき、図書室の長いテーブルに向かい合うようにして私たちは座った。テーブルも椅子も決して新しくはないけれど、大きな傷も見当たらない辺りが、この学校の落ち着き具合を表しているようだ。
「驚かないでね」
陳腐な決まり文句を前置きとして、私はスマホの電源を入れ、動画サイトを開く。Bluetoothをイヤホンと接続し、スマホの音量が限りなく小さいことを確認した後、再生ボタンを押した。
「んな……!?」
目を見開いて驚いた顔を見せるこのちゃんの反応に私はどこか満足していた。ワイヤレススピーカーになってしまう状況、これは今すぐにでも終わってほしい。けれど、仲の良い友人のびっくりしている顔を見られるのは単純に嬉しいし、楽しい。
正直、電車内で暴発してしまわなければ、それと誰かに拡散されることがなければ、私は最悪このままでもいいんじゃないかとすら思った。
でも実際は暴発したし、まだ確認はできていないけど拡散される可能性が高い。
動画の音を止めると、私の口からも音が止まった。
「ね、驚いた? これ、どうしよう」
「どうしよう、って言われても……どうしよう」
「うー、だよねー。今見てもらって分かったと思うんだけどかなり不便だよ」
「Bluetooth切ったら解決しないの?」
「あ、確かに」
「え、試してないの?」
私はBluetoothとの接続を解除したことを画面上で確認して、再び動画を再生してみた。流石このちゃん、私の抜けていた部分をちょうどよく補ってくれた。唸って現状をお伝えするので精一杯の私とは違って、余裕がある。
さて。
「楽天カードマァーン!」
動画を再生しようと思ったのに広告が流れたせいで、一瞬心臓がドキッとした。まあ適当におすすめに出てきた何十万回も再生されているような動画を流そうとしていただけなので、広告が流れたところで何も変わりはないのだけれども。今日何度目かわからない冷や汗が流れる。春なのか夏なのか不明瞭な天気がもたらしたじめじめとした暑さのせいではない。
でも、目の前に座って真剣な顔をしていたはずの少女から思わず笑顔がはじけていたのを見て、「まあいいか」と思いかけた。全然まあよくないよ私。
Bluetooth切ったのに音出るじゃん! どうしろっていうのこれ!
誤ってBluetoothが接続されていた可能性を考えて、今一度スマホの画面を見たのに、やっぱり接続されていないという表示だった。
口元を押さえながら笑いを堪えているこのちゃんだったが、全然堪えられていない。笑いが収まるまでじっと待ってあげた。呼吸を整えて、ようやくまともに話せる状態になったこのちゃんが言った。
「私、ちゃんと信じるよ……千紋が言ってたこと。でも」
「でも?」
「これは絶対拡散されるね……」
「いやあああ、このちゃんが笑ってるくらいならいいけど。うん、寧ろ笑ってほしい。全然仲間内なら許されるよ。でもこれが全国展開されるのは絶対まずいって!」
私は頭を抱えた。何がきっかけだったのか全く分からない。心当たりが無さすぎる。でも、解除方法の心当たりも無さすぎる!
私はこれから、「人間ワイヤレススピーカー」として生きていかなくてはならないのだろうか。そんなのは嫌だ。私だって、ワイヤレスイヤホンで音楽聞きたい! 聴く側でいたい! 自分の為だけに音楽を囁かせたいのに!
とりあえず何もできそうにない。
空しくも私は大人しくスマホの電源を切った。思い返すとスマホの電源をそう頻繁に切ることのない人生だった。終わってないけど。まだまだこれから生きていくけど。
せっかく図書室に来たので、このちゃんの後ろに付いて、適当に本棚を見て回ることにした。脳内が絶対に脱出できそうにない迷路のようにぐるぐるしていても、まだ思考の主導権は私自身に残されていただけ助かった。
古くて色褪せている本たちについては手に取ろうという気すら起きない。でもずっとそこにあり続けるのはどうしてなんだろう。誰かが手に取って開いてくれるときを待っているんだろうけど、周りにある新しそうな本たちの鮮やかな色にかき消されて、結局誰の手にも触れられないんだろうな、なんて思いながら本棚を見た。
「この本面白かったよ。なんと作者は今年でデビュー十周年」
「へぇー…………この人の代表作って私たちが小学生くらいのときに実写映画化されたんだっけ」
「そうそう。私も家で見たんだけど、あれは感動作だった」
「ふーん、映画なら見てもいいかも。今も活躍してる有名な女優さんが女子高生だったときにこの作品で注目を集めたってのは知ってる」
「そうなんだ、私はそれ知らなかった。意外と詳しいね、千紋」
「あ、うん……まあ、ねー」
私はその映画を見たことがあった。いや、そんな生温い事実では収まらない。録画してあったそれを何度も見るほど私にとって少々特別なものだった。ただ、ざっくり言うと、内容が恋愛要素ありの青春感動ストーリーって感じで、私のような自称「表向き真面目系てきとーガール」が堂々とその作品への思いを語るのは私のキャラにそぐわないと思い、話題に出るといつも「へぇ、それ名前くらいは知ってる」と偽っているのだ。仲の良いこのちゃんに対しても。
そういえばこのちゃんが読む本も結構新しいものが多い。この世の中にはデビュー十周年どころじゃない作家がたくさんいそうだけど、このちゃんが読むのは基本的に今も生きている作家の本らしいのだ。
本好き少女にすら見向きもされない古書たちは、本当に一体何のために学校の図書室に置かれ続けるのか、謎は深まるばかりだ。
「私この人の書いた本にはまってるんだよねー。…………そうだ、今度家で一緒に実写映画見ようよ! あ、アニメ映画版もあるらしいし、どっち見てもいいけど」
「……折角なら実写映画の方見たいかな」
「うん、私も実写版好き。じゃあ約束ね」
突然思いついたアイデアに私も賛同したことが余程嬉しかったのか、彼女は満足そうに笑顔で頷く。
何度も見た実写映画を今度友人の家で見る約束をした。私は見たこと無いという設定になっているので、見たこと無いフリをしながら見ることになると思う。
このちゃんは例の作家の本を一冊手に取り、カウンターへ歩いて行く。私もその後ろを追いかけた。
私は基本的に小説を読むことは少ない。なのに、その作家の本だけはなんとなく買っている。だから、このちゃんの手に収まっているその本も持っている。もし、私が私のキャラに縛られていなければ、持っているのを貸しても良かったのだけれど。
このちゃんが貸し出しの手続きを行っている間、カウンターから少し離れたところに立って、窓の外を見ていた。ちょうどグラウンドが見えるこの場所で、サッカー部の男子たちが筋トレをしているのが見えたり、野球部がランニングしているのが見えたり。みんな暑い中お疲れ様です、と心の中で呟く。部活には行ったり行かなかったりな私は、ぼんやりとそんなことを思った。
「海本千紋さん」
外を眺めていると、背後から声をかけられた。てっきり、手続きを済ませた友人に声をかけられるものとばかり思っていたのだが、違った。
振り返ると、私よりも背の高い青年が立っている。きっと私の頭頂部がしっかり見えるくらいには私より背が高いのだろう。普段は特に目立たないけれど、どこか顔立ちに華やかさのある彼は私たちのクラスにいたような気がする。
「どうしたの? えっと…………ひ、ひ…………」
「日吉良大」
名前が出てこなかったのを悟られてしまったのか、彼は自分から名乗ってくれた。どうしていきなり声をかけて来たのか。その答えは、彼が持っているスマホの画面が完璧に物語っていた。
「これって海本さんだよね?」
「あ、え、そんな。確かに似てる…………んー? やっぱ似てない」
「隠さなくても大丈夫。僕は敵じゃない。ただ、君の力になれると思って」
動画は一日も経たずに拡散されていたことを知った。誰だか知らないけど、ネットの拡散力は凄まじい。やばい、完全に舐めてた。
明日明後日には校内に知れ渡っていると思うと、この学校に私の居場所は無くなってしまうのではないかという不安、それから真っ先に友人に伝えてよかったという安堵感が同時に押し寄せた。一度目を逸らしたけれど、やはり、そこに映っているのは私に違いない。
無意識のうちに髪を弄りながらもぞもぞしていると、ようやく手続きを済ませた友人がこちらへやって来た。
私の前に立つ彼を見るなり、このちゃんは険しい表情を見せた。
背後に近づいてきた人影に気づいてか、彼はこのちゃんの方へ振り向く。
「あの……何の用、ですか?」
私は友人が放ったチョコミントアイスのように冷たい声を耳にして驚いた。私は彼女のそんな声を聞いたことがない。一体この男は何をやらかしたんだ。
彼は一度何か言いかけて止め、改めて口を開く。
「こ……同じクラスの日吉だよ……ちょうどよかった……出尾さんも、海本さんがワイヤレススピーカー人間になっていることを知っているよね? 僕なら彼女の力になれると思って」
彼はまだ何か話したそうにしていたけれど、このちゃんに腕を引かれて私は引きづられるように図書室を後にした。彼女の顔を見ると、何故かムッとした表情をしている。
「待ってこのちゃん、日吉君の話まだ終わってなかった気がするんだけど……そんなに急いで出ていくなんてどうしたの?」
このちゃんはこちらを見ない。見ないまま私に言った。
「千紋はあの人を頼るつもりだったの? あんな……得体も知れない人のことを」
「頼るとかそういうのは話を聞いてから……」
「甘いよ、千紋は。ネットに上がっている動画を見て声かけてくるとか確定でやばい奴なんだよ。普通声なんてかけてこないし、特に普段女子に自分から声をかけてこないような人なんて。私に信じてって言ったじゃん。私がいるんだからよくわからない人の話を簡単に信じちゃ駄目。わかった?」
私はこんなにも感情の高ぶっているこのちゃんを見たことがない。それだけ真剣に私のことを心配してくれているようにも感じた。だから私は彼女に言った。
「そうだね、ごめん。このちゃんが味方でいてくれるのに、よくわからないクラスメイトを頼ろうと思っちゃった。心配してくれてありがと」
あまりにも私の反応が素直すぎたからか、彼女は一瞬言葉を失う。え、普段の私ってそんなに素直じゃないのかな。こちらも不安になった。でもすぐに普段の彼女に戻ったので不安は消え去る。
「…………うん……ちょっと言いすぎちゃった。私にだけ教えてくれた悩みを私以外の人の力で解決されるかもしれない……っていうのがなんだか寂しい気がして。あ、でもそんな嫉妬とかそういうのじゃなくて、うーん…………彼の申し出を断っちゃった分、千紋の助けになるから!」
腕を引いていた彼女は立ち止まり、腕を握ったまま、私の方を向いた。校内はそこまで暑くないはずなのに、火照った彼女の頬を汗が流れていた。
私は頷いた。自分から握られていた腕を自然と彼女の手から解放して、隣に立つ。
廊下には他の生徒の姿は無かった。校舎の外から運動部の掛け声が聴こえたり、音楽室から管楽器の音が響いてきたり。授業を終えた校舎は少しだけ学生だけが存在する場所のように感じられた。
電気の消えたやや暗い階段を下る私たちに、もう明日への不安など何一つない。軽やかに足音を立てながら一階へ降りてくると、吹奏楽部の友達とすれ違ったので、「また明日ー」と手を振った。
靴を履き替え、建物から出る。
風が吹いて、昇降口の近くに生えている木々が揺れた。もう随分と暑くなってきたけれど、時折吹く風だけはちょっとだけ涼しく感じられる。知らない間に滲んでいた汗に風が当たって冷たく感じたのだろうか。
高校に入学して二回目の夏が近い。暦の上ではどうなんだろう。もう夏なのか、まだ春なのか。何度も考えては止めた問いを胸に、自然と空を見た。日差しが強い。やっぱ夏かも。
この季節をどう言い表すべきか答えはまだ出ていないけれど、今年教師に採用されたばかりの若い担任の先生が小学生の頃は、この時期はまだそこまで暑くなかったらしい。因みに彼が高校生の頃は既に今と同じような暑さだったという。
こんな暑さの中、毎日学校に来てるだけ私たちって偉いんだなーってことでとりあえず自分自身を褒めておく。うん、偉い。
校門の前まで歩いてきた私たちは帰り道の方向が真逆なので、ここでお別れだ。このちゃんは自転車通学なので、傍らに自転車を引いている。
「わー今週もあと二日頑張れば休日だよー」
「そうだね、あと二日。そういえばさっき言ってた映画の話なんだけど、今週の土曜日とかどう? あいてる?」
「土曜日ねー。ちょっと待って、確認する」
私はスマホの電源がついていないことを忘れていたので、すぐに起動しない画面に「え、故障?」と呟いた。
本来この学校の敷地内でスマホの電源を入れていることは禁止されている。でも、実際マナーモードなどにして音が出なければ問題ないみたいだし、授業中や休み時間に弄っている人も、そうでない人も結構電源はつけたままの子が多い。おかげで、緊急地震速報などが来ると、何人かのスマホが一斉に喚きだす。
あ、流石にテストのときは電源切ります。
ようやく起動した画面のロックを解除し、カレンダーを見る。予定、予定、予定はー…………
「うん、あいてる! じゃあ土曜日に」
確認するまでもなくあいていたけれど、休日に予定のない高校生って本当に高校生なのか? とかいうわけのわからない見栄を張っていたので、一応確認した。確認するまでもなく、私のカレンダーにはまだ予定が全然埋まっていない。あくまでも、まだ、のはずだ。
「りょーかい。何時に来るかとかはまた後で連絡するね。じゃあ、また明日ー」
「おっけー、また明日」
仲の良い友人と門の前で別れる。日は既に長く、まだまだ太陽は沈みそうにない。
私は駅に向かって歩き出し、彼女は自転車のペダルに足を乗せた。
電車内での暴発を防ぐため、再びスマホの電源を切る。今朝のことがあったから、音楽を聴かないにしても電源を入れておくのが怖かった。
普段なら、スマホと睨めっこしながら自宅へ向かう電車に乗るのだが、今日は窓の外を見てみた。
もう一年以上通っている道なのに、記憶にない建物がいくつも視界に入った。新しい建物ができたわけではなく、ただ私が見ていなかっただけだ。
部活に行ってから帰ると、ちょうど帰宅ラッシュの時間と重なるので、電車はいつでも満員だ。でも、この時間に帰ればそんなことはない。
人に押しつぶされそうになることがない上に、席にだって座れる。この快適さを知ってしまってから、元々行っても行かなくてもよかった部活への参加率がさらに減ってしまった。
正直、部活って今しかできないことだし、参加した方がいい気はしている。でも、やっぱり私ってちょっと怠惰なところあるから。
電車内で視線を感じることがちょくちょくあった気もしたけれど、それは全部杞憂で、誰一人こちらを見ていない。
ネット上で拡散されても案外やっていけるもんだなーなんて気楽に考えていると、すんなり最寄り駅へと到着した。駅のホームから階段を登って、改札口へ。交通系ICカードをかざしてピッと音を鳴らし、駅員さんの「ありがとうございましたー」を聞き流してスタスタと自転車置き場へ向かった。
まだ私の映った動画は拡散されはじめだった。誰もが知る動画ではない。
しかし、もう十分に拡散され終わったと何の根拠もなく心のどこかで感じてしまっていた私は、次の日に学校へ行くと何が待ち受けているのか、全く想像できていなかった。




