維弓と楼環
維叔典と維嘉が酒を酌み交わしているのと時を同じくして、霊戍を総攬する維氏の長にして樊の少卿、維弓もまた自邸で酒を呑んでいた。
「それにしても魏盈のやつはまったく、面倒な話を持ち掛けてきたものだ」
維弓がそう零した相手は、維氏の宿老であり、右司馬の官にある老人、楼環である。楼環は維弓から、雪解けを祝う酒宴を開くので来いと言われたのだが、他の家臣は誰もいない。つまりこれは密儀なのである。
「発案したのは、おそらく魏仲洪でしょう」
「まず、そうだろうな。魏盈のやつは元から貪婪な男だったが、あの副弐には奸臣の才がある。まったく、よく似た兄弟だ」
魏氏からの婚姻の話など、維弓は本心ではその場で断ってしまいたかったのである。しかし、それをするのはまずいとも分かっていた。霊戍を訪れた魏仲洪を迎えた時、維弓は穏やかな顔を作り、柔らかい言葉で饗応していた。しかし腹の底には赫々たる怒りが燃え滾っており、剣を抜き、矛を突き立てて追い返してやりたかったのである。
思い出すと、業腹な感情が再燃しだした。それを腹の底に鎮めるべく、維弓は勢いよく杯を煽る。冷えた酒の甘味が、少しだけ維弓の溜飲を下げた。
「ですが、子狼さまのことを褒められた時の我が君は嬉しそうでしたよ」
楼環は、少しからかうようなことを言った。維弓は憮然として、また酒を呑む。
そして、
「ああ、そうだな。腹の中に黒い虫を飼っていて、甘言と麗句で人を心地よくさせる。そこに毒があることを分かっていても、つい心を揺さぶられてしまうのだから、魏氏の副弐は幇間となっても大成していたことだろう」
と、辛い言葉を吐いた。
「維嘉さまには諮られたのでしょう」
「ああ」
「何と言われましたか?」
「婚姻のことは留めておくから、早く後嗣を定めろとのことだ」
そちらについては、楼環も同じ考えである。維弓は維氏の長として、樊の少卿としての務めに邁進しているが、後嗣を定めていないことは瞭然の欠瑕であった。その自覚は維弓にもあるらしく、苦虫を嚙み潰したような顔をしている。
とはいえ、これは維弓にとっては難儀する問題なのである。
もし今が平時であり、樊がかつての六卿体制のままであれば、維弓はとうの昔に長子、維孟を跡継ぎとして選んでいただろう。
しかし樊は今や三つに割れ、混迷はこれからさらに加速していくだろう。この緊迫の情勢下にあって、軍事改革を行い、独立独歩で維氏を躍進させた維弓の目に、維孟は頼りなく映っていた。
この厳しい評価は、次子の維仲堰、三子の維叔典にも同様に与えられている。
魏仲洪が霊戍に来た時、子狼を褒められて喜んだのは維弓の親心の現れであるが、実はもう一つ、本心を零した瞬間があった。魏盈の長子、魏伯譜を褒めたのがそれである。
樊伯への新年の挨拶の時、魏伯譜を見た維弓は、
――私の子の誰に少卿を継がせれば、この青年と渡り合えるのだろうか。
という恐れを抱いたのである。
魏伯譜は、維弓から見て親の魏盈に肖ていないという印象であった。孝の観点から見れば誹譏であるが、魏盈を嫌う維弓からすれば称賛である。維弓が魏盈、魏仲洪の兄弟に感じている陰黠と貪婪が、魏伯譜にはまるでなかった。
廉潔で品行に優れた良き若者である。維弓の目にはそう映った。
「我が君の苦悩については、心中お察しいたします。なれど、人は永久に生きることは出来ません。また、自らが死ぬ時を知ることも出来ぬのです。不吉なことを申したくはありませんが、後嗣を立てぬまま我が君に何かあれば、我が君が生涯をかけて築き上げたものは一朝にして潰えることになりますぞ」
楼環はそう強諫した。
そもそも、後嗣を定めぬということからして、維孟の器量に不満があることは明らかである。このまま維弓が死ねば、次代の少卿に維仲堰や維叔典を推す臣たちも現れるだろう。智氏、魏氏と対立し、しかも北地には、かつて撃退したとは言えど陶族、勲尭ら北狄も健在である。
この上、維氏に内訌が起これば、その時は維氏は亡びるだろう。
維氏の族長として、また、樊の臣として、維弓はそうなることを望まない。維氏が滅びれば、智氏と魏氏によって樊という国は消えてしまうと、少なくとも維弓は真剣にそう考えているのだ。
維嘉の言にも、楼環の言にも、維弓は正しさを認めている。
そもそも、上に立つ者が無欠である必要はなく、足りぬところは臣が輔弼すればよいのだ。しかし、そうと分かっていても、維弓はなお逡巡してしまうのである。
楼環の諫めに言葉を返せない維弓は、いっそう盛んに酒を煽った。
ようやく口を開いたかと思うと、
「なあ、右司馬よ。私は何か、子の育て方を間違えたのだろうか?」
という、答えにくい問いを投げてきたのである。
楼環は臣として、その言葉にどう返してよいか分からず、言葉を曖昧に濁すしかなかった。




