姓の陰陽
維叔典ら三子の母方の姓は姜である。虞の貴族の娘であり、まだ虞が顓族によって東に追われるより前、虞の六氏という名家の一つ、暦氏から娶った人であった。
それに対し、子狼の母というのは山間民族の一つ、翟の族長の娘である。翟族は姫姓であった。
「兄上が陰陽を重んじておられることは知っているだろう」
維叔典は頷く。陰陽とは、万物には陽と陰があり対になっているという思想である。虞のあらゆる学問の根底にある考えであり、陰陽が調和しなくなると世が乱れるのだ、と言われていた。もっともこれは概要であり、古来より虞では陰陽について多くの学士が学び、考察してきた。
維弓がその学問を特に尊重していることは維叔典も知っていた。維氏の者であれば周知のことである。
「兄曰く、姓にも陰陽があり、嬴姓は陰姓であるとのことだ。そして姫姓も陰姓であり、陰と陰が結んで生まれた子は樊の卿に相応しくない、と仰っていた」
「陰姓というのは、どのようにして決まるものなのですか?」
「それは私も知らない。私は兄上ほど勤勉ではないからな。しかし、嬴姓と姫姓が陰であるというのは分からないでもない」
姫姓はかつて悪政を行い虞に滅ぼされた焱王朝の姓であり、嬴姓もまた焱朝の悪臣の姓である。虞王朝と姜姓がこの世の陽なる姓であるとすれば、姫姓と嬴姓は間違いなく陰ということになるだろう。
「陰陽とは、そこまでのことを考えねばならぬものなのですか?」
「わからん。だが少なくとも、兄はそう考えているようだ。嬴姓や姫姓の者が顕職にある樊においてそこまで拘ることはないのではないかと言ったが、その時は怒号が飛んできた」
維叔典は、父の陰陽への激しい熱をはじめて知った。同時に、浅学を愧じるべきなのか、維弓の傾倒を子として諫めるべきなのかの判別がつかないでいる。
維叔典もまた陰陽の学問については知っており、万物が二極であるならば、万事において陰陽を視る目を持つべきだとも思うからである。だが維弓の思想は、度を過ぎているようにも思えてしまうのだ。
「しかし、ならば父上は此度の魏氏との婚姻は――」
「ああ、相当に難色を示しておられる。といって、下手に一蹴できぬのが厄介なところだ」
嬴姓と姫姓の婚姻は、陰に偏ったものとなる。しかも魏盈はその相手を、次代の少卿と指定してきた。
維弓としては、本心では陰陽の話を持ち出して断りたいところなのだが、そうはいかない。そうした時、魏盈は智氏と結ぶかもしれないからである。
「兄上も、私も、頭が痛い。叶うのであれば、百年ほど前の霊戍に生まれてきたかった」
維嘉がそう嘆くのは、酔いのせいだけではないだろう。虞の東遷と、荘公の撃鹿での大敗によって樊はそれ以前と大きく変わってしまった。今の樊の卿やその臣に求められるのは、無難な領地経営や政治の才覚だけではないのである。
「私は維氏に生まれたといっても、所詮は卿を継ぐ地位になかった。今に庶人となるか、せいぜい軍の末席にその名を連ねるくらいだろうと思っていた。それが今では、行人となって武庸や杏邑とを往来している」
行人とは私設の官である。それも、維弓が必要に迫られて設けたものであった。
その役目は以前にも書いた通り、維氏と他の卿との渉外である。行人が出来るより前は、そういったことは族長の家宰が務めていた。しかし樊国の中で卿同士が対立するようになると、複雑化した情勢に対応することが出来ず、維弓はやむなくそのための官職を作って弟の維嘉をその地位に据えたのである。
「叔典よ。お前はどうも、自分は三男だからと気軽に構えているな」
「いいえ、そのようなことはございません。維氏の一人として、父を支え、また兄上たちを命がけで助けていく覚悟でいます」
維叔典は声を張り上げた。その想いに偽りはない。
しかし維嘉は、その考えこそが問題なのだと指摘した。
「年の序列など関係ない。今の樊では、いつ何が起きるやも分からぬのだ。おかしなことに巻き込まれぬように気をつけろ、と言っている」
「これは叔父上らしからぬお言葉ですね。しかし、この不出来な甥を慮ってのお言葉とあれば、胸に留めておきましょう」
「そうか。ならば酔ったついでに、もう一つ箴言をくれてやろう。お前は、自分がどう考えているかを何よりも重んじているな。しかし人の世では時に、他者からお前がどう見えているかのほうが重要となることもあるのだ」
維嘉の言葉の意味が分からぬほど、維叔典は蒙昧ではない。しかし同時に、そういう物の見方は不得手であるという自覚もあるのだ。
――そういえば前に、子狼にも同じようなことを言われたな。
子狼は維叔典に、
『兄上は考え方が愚直すぎるのです。少しは、邪な物の見方をなさらねば、今に小人に足を引かれて身を滅ぼしますぞ』
と言ったのである。兄を思う直截な言葉のような、しかしどこかひねくれた言い方だったことを覚えていた。
「もし窮すれば、その時はお前の従者を頼むといい」
「はぁ、翟錯に、ですか?」
突如として出てきた名に維叔典は困惑したが、それでも尊敬する叔父の忠告ということもあり、こちらも覚えておくことにした。




