維氏の山犬
維叔典は日が傾くまで號の店で酒を呑んでいた。そのために多少、顔が上気しているが、足取りはしっかりとしたものである。
従者の翟錯はというと、こちらも主人と同じだけの酒を過ごしたはずなのだが、雪のような色白の顔色はそのままで、とても酒を呑んでいたようには見えなかった。
「うん、やはり雪解けの季節と言えばこれだな。たまには昼日中から酒を過ごすのもよいものだ」
「ええ、そうですね」
維叔典ははじめからそのつもりだったのだろう。常であれば維叔典は胡服と呼ばれる、騎乗用の上衣と袴とを着て馬で外出している。それが北地の民としての日常であり、また、武人としての振る舞いなのだ。しかし今日は、維叔典は徒歩である。酒を呑んで乗馬をしたくなかったからだ。
維叔典に限らず、霊戍では高位の武官でも徒歩で出かけることはよくある。というのも、霊戍には馬車や戦車という文化がほとんど根付いていないからだ。
まったくないわけではなく、かつて、維弓が軍制改革を行うより前にはそれなりの数があった。ただし維氏が戦車を有していたのは、樊の卿としての出兵に応じるためである。北地防衛の際の主力は歩兵であり、また、伝令には騎馬を用いていた。
樊を含め畿内の人々、とりわけ貴族は、多く戦車を持つことで家の力を示そうとする。しかし維氏の者たちにはそういう感覚はなく、維弓の“胡服騎射”改革の後には好んで騎乗するようになった。このあたりが智氏や魏氏の人々が、維氏の人々を山犬と誹る所以である。
二人がのんびりと歩きながら、ようやく邸宅につくと、客人が待っていた。
白髪の目立つ、恰幅のよい壮年の男である。維叔典の叔父であり、行人という官にあって維氏の渉外の任を司っている維嘉であった。客間に座り、膳を前に手酌で酒を呑んでいる。その姿を見ると維叔典は破顔し、
「これは叔父上、お越しあるを知らせてくだされば邸で待っておりましたのに」
と言いながら、維嘉の前に座り込んだ。
「いや、いや。老人の気まぐれでふと立ち寄らせてもらったまでだ。そう気を遣われては、お前にも奥方にも、かえって申し訳ない」
「なるほど。我が妻はさすが、よく分かっている。私が叔父上のご来訪を喜ばぬはずがないと思ってのことでしょう」
「ああ、出来た奥方だな。おかげで私はこうして酒にありつけている」
二人は顔を見合わせて笑い合った。するとそこへ、絹の着物をまとった女性が侍女を連れてやってきた。その手には、膳と杯があった。
「おかえりなさいませ、良人」
しとやかな声でそう言ったのは、維叔典の妻、鮮嬰である。
鮮嬰も、元は霊戍以北の山間民族の者であり、後に維氏に帰順した族の出身である。たまたまその集落に赴いた維叔典が彼女を見初め、そのまま妻として娶ったのだ。
鮮嬰は酒を供すると、また奥へと引き下がった。
維叔典は家主として、改めて維嘉を饗するべく礼を取る。
「ところで、今日はどうなさいましたか?」
「先ほども言ったとおり、老人の気まぐれだ。そう大そうなわけはないさ」
「なるほど。いいや、私のところでよろしければ、いつでも気軽に立ち寄ってください」
爽朗に笑いながら、維叔典は維嘉に酒を注ぐ。
この二人はともに大らかで、細かいことを気にしない性情である。そのために気脈が通じ合っており、よくこうして、互いの邸宅で酒を酌み交わす仲であった。
「このところ、我が邸にはよく人が来ます。まったく、有り難いかぎりですな」
「ああ、そういえば叔典は魏氏の副弐どのとも懇意にしていたのだったな」
帰宅前から酒が入っていた維叔典は、上機嫌になっている。そのため、維嘉が一瞬だけ眉宇をひそめたことに気づかなかった。
「ええ、霊戍に逗留されている間には親しくしていただいておりました。私もいずれ卿の弟として兄を支えなければならぬ身であれば、その先達たる副弐どのから色々と学ばせていただき、とても有意義でした」
「卿の弟、か……」
維弓は未だ実子のうち誰を後継にするかは定めていない。しかし維叔典には、自分が少卿を継ぎたいという想いは微塵もない。そういう将来など考えさえしていないのだ。
「お前は兄を支えると言ったな。それは、孟と仲堰のどちらのことを指しているんだ?」
維叔典の二人の兄、長子の維孟と次子の維仲堰。維叔典は弟として二人を尊敬しているが、そういう悌心は別として、兄弟仲が良好とは言えないのが実情であった。
「それは父上がお決めになられることです」
無難な言葉で躱したのは、厄介ごとを避けるための処世術ではない。ただ、維叔典の秤衡はどちらかの兄に傾いていないだけである。
「どうにも兄上は、子狼に少卿を継いでほしがっていたように思えてならない」
「それは……」
今は南方、鄭の国にいる異腹の弟の話になって、維叔典は返しに困った。維嘉の言ったことは維叔典としても感じ取っていたことである。
「いいや、違うな。お前たちの母から子狼が生まれて欲しかった、というところだろう」
「それは、どういうことですか?」
維嘉は奇妙なことを言った。維叔典にはその真意が分からなかったのである。
「うむ、これは兄上の美徳であり欠瑕でもあるのだがな。お前たちの母と子狼の母の姓のことを、兄上は気にしているのだ」
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