梟雄、身中の虫
樊国、ひいては畿内の北の護りを担う卿――維氏。
この族が拠点とする地、霊戍が樊の領地となったのは二百年ほど前のことである。
維氏は嬴姓であり、虞の前の王朝、焱に仕えた一族であることは前に書いた。王朝交代の際、嬴姓の者が一族を連れて逃げ、やがて定住するようになったのが霊戍という地の始まりである。
樊の旧六卿の氏族では維氏は一番の新参であった。山間の営みの厳しさと北狄との難に晒された当時の嬴姓の長が樊に庇護を求め、認められたのである。維という氏はその代の樊伯から与えられたものであった。
この時の嬴姓の長は嬴衰という。後に維氏となったので史書には維衰と書かれることもあった。
嬴衰が何を思い、先祖の仇とも言える姜姓の国に庇護を求めたのかは分からない。『虞史』という史書はただ、
“嬴衰、初めて樊に参朝す。樊伯より維氏を賜る”
と記すのみであり、その胸中を語ることはない。
後に維氏の中で、先祖の言行について探り、その真意を詳らかにせんとした人たちが現れた。当代の少卿、維弓である。
維弓は若き頃から史学に興味を持っていた。父と兄の不幸が続き二十代で少卿を継ぐことになっていなければ、学問に心血を注ぐ生涯だっただろう。
しかし少卿となっても先祖への探求心は尽きなかった。まだ虞が東遷するより前のことである。樊伯に従って虞都、吃游に赴いた維弓は、家臣である肥何を史氏に託して歴史について学ばせたことがあった。
それでも嬴衰や黎明期の維氏について多くは分からなかったが、肥何の持ち帰った学識は大いに維弓の心を満たしたのである。
それから数年が経ったある時、史氏の家臣から肥何に一冊の書簡が届けられた。『風羲見聞』という書である。風羲という人が焱朝の頃から数百年にかけて大陸の北から東を往来し、その旅の中で見聞きしたことを纏めたという、由来からして怪しいものであった。
しかもその書というのが、罅字という古字で記されたものであったので、読解は困難を極めた。結果としてその書は、維弓と肥何とが政務の余暇の無聊に解読を試みるだけのものとして、維氏の余人には存在さえ知られることはなかったのである。
数年の間、少しずつ解読を続けたある時、維弓は興味深い一節を見つけた。
“嬴衰、巫に遇う。族を滅ぼすは狄なり。永らえさせるは姜なり。この託を信ず”
どうやら嬴衰は、巫術の予言に従って樊への従属を決めたようである。もっとも、これは『風羲見聞』が正しいという前提での見解となるのだが。
だが維弓はこれを信じた。それまでも樊伯への忠誠は大いにあったのだが、やがて維弓はその恭敬を樊と虞に対して向けるようになったのである。
もっとも維弓は、その予言のことがあるからといって、姜姓以外の姓を軽んじていたわけではない。
維氏は樊において、少丞、少将より高位に就いてはならぬとの伝統があるのだが、その規範に不服を見せることなく、上位にある卿にも敬意を示し続けてきた。
ただしそれは、撃鹿の戦い以前の話である――。
陰謀という名の暗雲が樊の空を覆っている。
兵難が戈矛を打ち合う擾乱の音は、今やすぐそこまで近づいてきていた。
西の地、武庸に居を構える正卿智嚢は、貪婪なる蛇のように他の二卿を睨みつけている。
東の地、水塞の利を有する中卿魏盈は、老獪な狸の如く樊の情勢を眺めている。
北の地、山岳の天険に兵を置き、騎馬の軍という独自な兵を有する少卿維弓は、狼のような俊敏さを以て、事あらば南進する構えを見せていた。
だがそれぞれ、決して盤石とは言えない。
「梟雄三羽。いずれも身中に虫を飼っている。最初に蠢動しだすのは、いったいどの虫になるか――」
武王に封建されてから今日まで、五百年の長きに渡って続いてきた虞の藩屏たる樊国。その栄華と輿望は、今まさに斜陽を迎えようとしていた。
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今日は21時に外伝『春秋異聞南溟伝 -兄の真意を求め、若き王は死の国へ向かう-』の更新もあります。そちらも是非よろしくお願いします!!




