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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
魏氏罅隙

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公子黒腱

 智氏が擁立せんとした次代の樊伯候補、公子黒腱(こくけん)は樊の国外にいた。

 それも、魏盈ぎえいが言ったように、その地というのが東方の(けい)国なのである。

 先代の樊伯である荘公という君主は質実剛健な人であったが、黒腱は不肖の子であった。奢侈を好み、放蕩を盛んにしたので、ついに激怒した荘公は黒腱を東に追放したのである。

 荘公からすれば、苦労をさせて人として成長して欲しいという親心だったのだろう。しかし、その想いは黒腱には通じなかった。

 黒腱が送られたのは(せつ)という(ゆう)姓の国である。小国であり、元は虞と縁故のない東方の国であったのだが、後に柵封――虞へ朝貢し諸侯国として認められた国であった。

 この薛は、同じく東方の国である(えん)とも親しくしていた。

 奄は虞建国の祖である功臣の国、きゅう国を極東に追いやって興った国である。姜姓の大国、樊の公子という自負の強い黒腱はそれが面白くなかった。また薛国は黒腱に一室を与え、形ばかりの客人として遇したこともあり、薛と奄への不満がたまっていたのである。

 そしてある時、奄の公子の一人、乙宜(いつぎ)が使節として薛にやってきた時に事件は起きた。

 黒腱は乙宜のところへ赴き、六博りくはくをしようと誘ったのである。その時点で黒腱は酒気を帯びていたのだが、断るのは礼を失すると思った乙宜は誘いを受けた。

 そして黒腱はものの見事に負けたのだが、逆上した黒腱は遊技台をひっくり返して席を立ったのである。この無礼に腹を立てた乙宜は黒腱の命を狙うようになり、身の危険を覚えた黒腱はけい国に亡命した。

 当時の薊の君主は仲繪(ちゅうかい)である。当代の薊伯、利幼(りよう)の父であり、度を越した故事好きによって我が子と臣民とを大いに惑わせた暗君だ。

 黒腱はこの故事好きの君主に、美辞麗句をもって取り入った。仲繪は口の巧いこの公子をすぐに気に入り、国賓として歓待するようになったのである。

 ただし利幼の代になってからはやはり冷遇され、今は、薛にいたころと変わらぬ待遇となっていた。

 少し長くなったが、黒腱という公子は、放蕩癖があり、奄の公子に恨みを買っており、今は薊国にいながらにしてそこでも冷遇されている人である。


「話を持ち掛ければ、公子はすぐに乗ってくるであろう」

「我が主人もそのように考えております」


 魏盈も一応、黒腱の近況については知っていた。それがまさか、このような話になるとは少しも思っていなかったのだが。


「しかし正卿は、どのような道を使って黒腱公子を樊にお迎えするおつもりか? 黒腱公子は乙宜を恐れて奄には踏み入らぬだろう。そうなれば維氏の領を通らねばならんが、あの老人が黒腱公子の擁立など認めるはずがなかろうよ」


 それが魏盈の懸念であった。というのも、維弓はかつて黒腱の放蕩を強諫し、叱責したことがあったのだ。その話が広まったことが荘公の耳にも届き、それ故に黒腱は薛に追われたのである。

 維弓は黒腱を次の樊伯に立てるなどという話は認めないだろう。夷皐いこうに嗣子がいる以上、他国から公子を迎えて立てるのは道理に悖るということもあり、しかもそれが黒腱となれば断固として反対するに違いない。


「奄国か維氏の領内か、どちらかの間道を探して迎え入れるというのは、あまりいい策とは思えんな」

「維少卿が認めてくださらぬのなら、それを容認してくださる方に少卿になっていただけばよいのです」


 驪胡季は口元を釣り上げて笑った。

 なるほどと、魏盈も笑みを返し、大きく頷いた。

 こうして智氏と魏氏の連衡は密室にて成立し、それによってまず維氏の領、そして、やがて樊国全土に燃え広がる擾乱が始まろうとしていたのである。

 本日にて「魏氏罅隙」編は終わります。明後日よりは第二部第三章「維氏紊乱」編の開始となります。

 少梁の地で窮地に立たされた魏仲洪のことは一度お忘れいただき、維氏サイドのお話しをお楽しみください。

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