次代の樊伯
魏仲洪が小梁に出かけた翌日、杏邑を密かに訪れた智嚢の臣、驪胡季。半白の幽鬼のようなこの男は、智氏と魏氏で樊国を二分しようと持ち掛けてきたのである。
はじめのうちは、魅力的な提案のように聞こえ、魏盈は思わず身を乗り出した。
しかし心が動いたのは一瞬だけである。魏氏の長として、その権勢の伸張を望む気持ちはあるが、智嚢を信じるに足るかどうか、と考えた時、どうしても二の足を踏んでしまうのである。
今の三卿は、魏氏に限らず、多面に気を払わねばならない。どの勢力と結び、どの勢力と対立するか。その判断には慎重を期さねばならないのだ。
ちなみにこれについて魏仲洪は魏盈に、
「今は、智氏とも維氏とも、対立しないほうがよろしいでしょう。そして、結ぶべきでもありません」
と進言していた。
融和するにも危うく、敵対するのもまた危うい。それが魏仲洪の見解である。それはどちらもが連衡の相手として信が置けぬということもあり、また、戦うとしても分が悪い。今は智氏と維氏が手を結ばぬよう注視するだけでよい。
後々のことを思えば、いつまでもこのままというわけにはいかない。しかし、今は表立って動く時宜ではないというのが魏仲洪の考えであり、魏盈もその意見には納得していた。
それ故に魏盈は、驪胡季の言葉を、懐疑と警戒とをもって迎え入れた。
垂涎の提言であるが、甘い匂いの下に毒が隠されている。そこにあっさりと飛びつくような軽率さは魏盈にはない。
「驪胡季とやら、その提言は、維氏を蔑ろにした物言いであろう。かつて六卿で輔弼していた樊を、今は我ら三卿で運営していかねばならないのだ。軽々に事を起こし、かえって樊に擾乱をもたらすようなことがあってはならない」
もっともらしい言葉を並べ、穏便にお引き取りもらおう。魏盈はそう考えた。
しかし驪胡季が、
「次の樊伯を魏氏と智氏で決められる、となってもですか?」
と言うと、眉を潜めた。
「当代の後嗣には供酒さまがおられるではないか? それに、樊伯はまだご壮健であろう?」
「いいえ、近頃、病に倒れられました」
その話は初めて聞いた。魏盈とて陽樊には偵者を放っているが、探ってきてはいない内容である。
しかし、まだ驪胡季の話は見えてこない。いかに当代の樊伯、夷皐が薨じたとしても、夷皐が後嗣を定めているとなれば、それを臣の思惑で変えるのは僭越になる。
「今の樊は複雑な情勢にございます。また、西では虞王の威光によって顓戎が攘われたといえど、安定はしておりません。この局面で、まだ七つの供酒さまが即位したとして、国が纏まるでしょうか?」
もっともらしい言説であるが、魏盈としてはやはり怪訝であった。
――どうせ、樊の政治を執り行うのは智嚢であろう。ならば幼君のほうが都合がよいのではないか?
都合よく傀儡に出来る飾りの君主がいないのであれば、こういった密謀を持ち掛けてくるのも分かる。しかしこの話は、確かに魏盈にとっては旨味があるが、今や樊を壟断している智嚢には利がない。
「ちなみに、もしそうするとすれば、どなたに樊伯になっていただくことになるのかな?」
「公子の黒腱さまです」
なるほどと、一応、魏盈は頷いた。智嚢が話を持ってきたわけが分かったからである。
黒腱というのは、夷皐の庶兄の一人であった。黒腱は既に三十五であり、年齢としては充分である。そしてその母というのが魏盈の叔母であり、妻は智嚢の母方の従妹なのだ。つまり、智嚢と魏盈の双方にとって近しい存在といえる。
また、今の樊の主筋において、それなりの影響力も有していた。というよりも、その他の公子たちがほとんどいないというほうが正しい。撃鹿の戦いで戦死したか、その後の動乱で命を落とした者が大半であった。
ただし黒腱を樊伯にするには問題がある。
「黒腱さまは、今は薊国におられるではないか。お迎えするのは困難であろう」




