命の恩
欒侑は客舎から出て、逃げた男の人相を聞いて回った。しかし、男を見た者はいなかった。
――どうやら、人目を避けているようだ。
男の怪我というのは剣創であった。ならば、何者かに追われている可能性が高い。そう考えた欒侑は、一度、客舎に戻ると、人目を避けるような道を考えながら足取りを追ってみることにした。
一刻(二時間)ほど探し回っただろうか。やがて日は西へ傾き、街並みが薄暗くなってきたころになって、たまたま、それらしき男を見たという人がいたのである。話では、人目を憚るようであったとのことであった。
しかもその人の話によれば、同じようなことを朝にも聞いて回っていた男たちがいたとのことである。
どうやら、怪我をした男に追手がいることは間違いないらしい。
――つくづく、厄介なことに巻き込まれているな。
その後も、欒侑は奔走した。とにかく、自分ならばどう人目を避けるかと、そう考えつつ、霊戍の街を探して回ったのである。
たまたま路地裏にその男が潜んでいるのを見つけることが出来たのは僥倖だったと言ってよい。
男は、未だ怪我のせいで体の動きが鈍いが、その背中からは剣呑な気配を感じる。今にも、何かよからぬことをしでかしそうな様子であった。
「おい、お前」
欒侑は背後から声を掛けた。男は、警戒しつつ振り向いて懐に手を入れる。おそらく、短剣か何かを忍ばせているのだろう。
「落ち着け。私は追手ではない。先日、お前を拾って手当てをした御方の従者だ」
「……そうか」
男は少しだけ緊張をほどきつつ、しかしまだ懐に入れた手を出すことはしていない。
「何を考えているのかは知らぬが、命を粗末にするな。お前にだって思うところはあるだろうが、我が主人にも命の恩があるのだ」
命の恩、という言葉を聞いて、男は後ろめたい顔を見せた。
「何か、拙速に行わねばならぬことがおありか?」
欒侑に聞かれて、男は首を横に振った。それならばと、欒侑は男を説き伏せて、一度、客舎に戻ることにしたのである。
客舎に戻った時には、既に陽は暮れていた。しかしそのために、人目に触れずに済んだのである。
客舎の中ではすでに魏仲洪が座して待っていた。憮然としているが、特に怒っているような感じはしない。
「そちらの御仁は頑強だな。あれだけの傷を負っても、動くことが出来るとは」
魏仲洪は感心したように言った。男のほうはというと、
「――貴方が、私を助けてくださった方ですか。その恩を返すこともなく、遁走したことをお許しいただきたい」
と、膝をついて頭を下げ、詫びたのである。
「私は、嬴六という者にございます」
そして、姓名を名乗った。嬴は姓であり、六というのは字だろう。おそらくは、嬴の家の六男、くらいの意味であり、簡素な姓名であった。
「なるほど。して、嬴六どのは何故、傷を負って夜道を彷徨っておられたのかな?」
「それは、申せません。主人の恥になります」
魏仲洪が聞いても、嬴六は語ることを拒んだ。
「では、先ほど嬴六どのが白刃を忍ばせていたのは、主家の恥を雪ごうとなさっておられたということですか?」
欒侑が聞いた。しかしやはり、嬴六は答えずに沈黙している。しかしその顔には、葛藤があった。
主人への義理と、命を救われた人の問いに答えられぬ不義理との間で揺れ動いているのであろう。嬴六という人は、信に厚く義を重んじる人のようであった。
「まあ、私のことは気になさらずともよい。それよりも、帰る主家があるのならば便宜を図らうが、どうされますか?」
魏仲洪はそう言った。しかし嬴六は、やはり言葉を返せないでいる。どうやら、この巨躯の男の置かれた現状というのは複雑らしい。
「私はあと三日は霊戍にいる。その間に、帰るべきところがあるのなら帰られよ。ないのであれば――私の家人でよければ、杏邑にお連れしてもよい」
魏仲洪はそう言って席を立った。やはり黙ったままの嬴六を一瞥してから、欒侑がその後を追う。
廊下に出て、欒侑は主人に聞いた。
「主人さまは、何をお考えなのですか?」
「気まぐれだ、ただのな。それよりも――嬴六という男は、傷を押して抜け出し、どこへ向かった?」
嬴六と話していた時には柔らかかった声色が、今は鋭い。人の良い風を装っていても、やはり嬴六を拾ったことには魏中卿の副弐としての考えがあったのだと、欒侑は改めて感じた。
「……少卿の次子、維仲堰の邸にございます」
「なるほど。ならば、嬴六の主人の仇が維仲堰ということか。いいや、そうとも限らぬが――」
「そうではないのですか?」
「人の世というのは、様々な思惑が錯綜しているからな。嬴六という男は義を重んじるようだが、義に生きる人というのは、往々にして他者には分からぬ筋の通し方をしようとする」
魏仲洪は、深々と言った。
ともかく欒侑は、維仲堰について少し探ってみることにしたのである。




