欒侑の不平
その日も魏仲洪は、朝から維叔典の邸を訪ねた。しかし維叔典は軍務で出かけていて不在であるという。そこで家人に言伝だけを頼んで、霊戍の街を逍遥することにした。
「こうなることなど明らかだったではありませんか」
悪びれずにあくびをして、寒気によって白く染まった息を吐きながら、欒侑は愚痴めいたことを言った。無用な外出を命じられ、しかも目的の人はいなかったというのに、客舎に直帰もさせてもらえない。
そもそも欒侑が寝不足になったのも、素性の知れぬ怪しい怪我人を魏仲洪が拾ったがためなのである。恨み言の一つくらいは口にしても許されるだろうと考えているのだ。
「不貞腐れている暇があるなら、手を動かせ。まだ若いのだから、一晩くらいは寝ずとも死にはしない」
「そうですね。主人さまがご就寝の間も粉骨するのこそ従者の務めでございますから。余計なことを申してしまいました」
「そう思っているなら、それらしい声で言え――」
魏仲洪が鋭い声で若い従者を窘めた。互いに前方を向いているので顔は見えないが、声だけで、欒侑が顔を不満の色で充たしているだろうことは手に取るように分かるのだ。
「逆に、何か言いたいことがあるならば言ってもいいぞ」
「……別に、ございません」
「ならば主命だ、吐きだせ。お前は腹に言葉を溜めながら生きるのには向いていないからな」
直截な物言いである。魏仲洪は権謀の荒波を泳いできた人であるから、婉曲な話し方というのは心得ている。ただし、欒侑に対してその話術を用いようという気はまるでないのだ。
孺子のように扱われて欒侑は、ならばと開き直ることにした。
「主人さまは昨日、酔っておられませんでしたね? 帰路の車上でも、本当はずっと起きておられたのでしょう?」
「ああ」
拗ねたような物言いに、魏仲洪はあっさりと頷く。つまり、維叔典の前で深酒をして寝潰れたのも、すべて演技だったということだ。
ならば気になるのは、何故そんなことをしたのかということだ。しかし、車上とは言え巷間でそれを聞くべきではないということは欒侑にも分かる。維叔典という貴人が絡んでいるとなれば、その振る舞いは魏氏の副弐としての思惑あってのことに違いないのだ。
――維叔典どのと近しみたい、ということだろうか?
思いついたのは、それくらいだった。
分からないことはまだある。夜道で拾ったあの男だ。いかにも怪しく、しかも、厄介ごとの匂いがする。にも拘わらず魏仲洪は、連れ帰って手当てをすると即断した。
魏仲洪は魏盈の使者とはいえ、維氏の中にはよく思わない物も多いだろう。何よりも氏長の維弓が、魏氏のことを心の中では警戒しているに違いないのだ。それなのに、わざわざ火中の栗を拾おうというのは、魏仲洪らしからぬような気がしたのである。
欒侑には魏仲洪の考えなど、冴えた頭で考えても分からないような気がする。しかも今は、眠気が重なってきて思考が纏まらないでいた。
「お前は眠そうだな。そろそろ、客舎に戻るか」
それは、欒侑が待ちわびた一言であった。
客車に戻ると、欒侑はすぐさま牀に倒れこんだ。泥中に体を沈めるがごとく受け止められ、そのまま、死んだように眠ったのである。
何があっても半日は起きまいと決めていたのだが、やがて客車の中が騒然としてきて、欒侑の安眠は妨げられた。
やがて、人夫の一人が欒侑の下へ駆け込んでくる。その男の話によると、昨日拾ってきた男が逃げ出したとのことであった。
欒侑の目が細くなる。それは、決して眠気がもたらしたものではなかった。
「……主人さまはどうした?」
「欒さまが起きられぬので、何人かの下人を引き連れて維叔典どのの邸へ向かわれました」
魏仲洪は寝ている欒侑をそのままにしていったらしい。それが呆れからなのか、優しさからなのかは分からない。ただし今は、惰眠を貪っていた先ほどまでの自分を激しく怨んだ。
「仕方がない。探しに行く。悪いが胡服を用意してくれ」
一人には維叔典の屋敷に向かった魏仲洪へのつなぎ役として走らせ、胡服――北方の民らが好む乗馬用の衣服を持ってこさせ、それに着替えて客舎を出た。
畿内の人々の礼服は、北地の霊戍では目立つ。魏氏の使者として動く時であればそれでよいのだが、人探しには不向きなのだ。
また、北方の民らは畿内とも言語体系が異なる。まったく会話が出来ぬわけではないが、長く捜索を続けていると、やはりよくない目立ち方をしてしまうだろう。なるべくならば人目につきたくない、というのが欒侑の本心であった。
――まあ、あの傷だ。人目に付くのはあちらもだろう。
そう思いつつ、欒侑は霊戍の街へと向かった。




