薄氷の上の均衡
霊戍まではまだ道のりがある。その日の夜、魏仲洪は維嘉の好意で、近くの邑の一邸を借りられることとなった。
「しかし、維氏の動きは早かったですね」
欒侑は軽く身震いした。今更ながら、この少勢で使者として来てよかったのかと思っているのだ。
正式に魏盈の使いでありながら、魏仲洪は欒侑という従者の他には、雪掻き人夫を連れているだけである。欒侑としても、もし主人に危機が及べば全力で防ぐ覚悟はあるが、維氏の武装した騎兵に囲まれてしまえばどうなるか分からない。
「まあ、維嘉どのには伝えていたからな。それに、領境の警戒は元から行っていたのだろう。安易に兵を連れたり、物々しさを見せるほうが下策だと考えた」
先ほどまでは愛想よくしていたが、維氏の人々の耳目がなくなった今、魏仲洪はいつも通りの憮然とした貌をしている。
「何も敵地に来たわけではないのだ。そう怯えることもないさ」
「それは、主人さまの見解ですか?」
「ただの事実だ。少なくとも、今はな」
樊の三卿の不仲は公然の事実である。しかし、三卿は樊伯の命令の下に和解し、今は協力して樊国を運営している。これもまた事実であった。たとえそれが、いつ崩れ去るか分からない薄氷の上に築かれた平和であろうとも、均衡が保たれていることに違いはないのである。
それ故に、たとえ思惑があると分かっていても、維氏は魏仲洪に危害を加えることが出来ない。
迂闊にそれをしてしまえば、魏氏ばかりか智氏までを敵に回してしまう。それも、樊伯を奉戴している智氏は、堂々と維氏を逆臣とするだろう。姻戚を結ぼうとした魏氏の使者を闇討ちした維氏を討つべきである、と。
維弓としてもそれは避けたいはずである。故に、今は安全であると魏仲洪は考えていた。
「今は、というところに含みがありますな」
「私に先のことなど分からぬからな。この世に永劫というものがあるのなら、今も焱朝の世が続いていたことだろうさ」
「そういうことを言いだしてしまえば、際限がなくなってしまいます。しかし、主人さまほどの慧眼を持たぬ身でも、今の樊が累卵の危地にあることくらいは分かりますよ」
「分かっていても、口に出さぬことだ。今は従者として、私の道中に意識を払ってさえいればそれでよい」
そう言われると、渉外の役には立たぬと言われているようである。とはいえ、まだ弱冠の欒侑は、実際に役に立たないのだ。何よりもまず、立場はあくまでも従者であり、貴人と口を利くことさえ出来ない。
だからこそ、魏盈の臣から一人くらい、副使としてつけてもらうべきだったのではないかとも思うのである。実際に魏盈は、誰かを連れて行くように勧めた。それを、魏仲洪が辞したのである。
翌日。道中を維嘉と維叔典の兵に護衛されつつ、魏仲洪は無事に霊戍へと入った。夕刻になり、維弓の邸宅に招かれた魏仲洪は、西に席を与えられ歓待された。
維氏の側には維弓と維嘉しかいない。二人は東に座し、魏仲洪を饗応した。
暫くの間は、無難な会話が続いた。維弓としても腹に含むところはあるが、それを表には出さず、朗らかに魏仲洪に接している。魏仲洪のほうも、表面的には愛想を作っていた。
「ところで維少卿は、樊伯に謹賀の挨拶に赴かれたそうですね」
場が温まってきたところで、魏仲洪が切り出した。
「はい。私もそろそろ齢ですからな。あと一年、生きているかも分かりません。そう思うと、樊伯への挨拶と、これまでの厚遇の謝辞を申さねばならぬと思ったのです」
維弓はそう言って、悠然と杯を口元に運んだ。
「齢を見に受けているのは我が兄も同じでございます。故に、今のうちに次代の中卿に親しんでいただこうというのが兄の考えなのですが、確かに、兄は不義理をしていたやもしれません。今年の暮れには、兄にも話をしてみましょう」
魏仲洪はさりげない会話の中に、わずかに毒を含ませた。
維弓が杯を卓に置く。わずかに目を伏せつつ、
「後嗣のことは、頭の痛い限りです」
と言った。
顔色は憂いを帯びている。それが演技であるのか、本心の吐露であるのか、今のところ判然としない。
「北地の戍辺は激務ですからな。無難に長子に継がせておけばよい中卿とは責の重さが違います。少卿には、私などにはない憂慮がおありのことでしょう」
「いや、恥ずかしい限りです。無難と仰られましたが、伯譜どのは良き青年にございます。こういうことを言うのは親としてどうかと思いますが、魏中卿が羨ましい」
やはり、どこまで本心かは分かりにくい。しかしすべてが嘘ということはないだろう。維弓が後嗣を決めかねていることは事実であり、それは子の在り方に対して思うことがあるからに違いない。
「しかし、維少卿にも善き子はおられるではありませんか。こちらへ来る道中、叔典どのにはとてもよくしていただきました」
そう言うと魏仲洪は、顎に手を当てた。
「ああ、そういえば――今は鄭伯の下で執政となられている子狼どのも、少卿の子息でございましたな」
ちょうど今、思い出したような口ぶりをした。しかし魏仲洪は初めから憶えていたことである。
「あれは、王子に――鄭伯に献じました。もう私の子ではありません」
「後悔されてはおられませんか? 維氏の中でどのような職に就いても大成される人であっただろうと思いますが」
「今や鄭伯の貴臣でございますからな。樊伯の微臣である私が語るようなことではございません」
そう口にしつつも、維弓の口元はわずかにほころんでいた。親としての情がそうさせたのだろう。
「子狼どののことは、我が兄もたいそう評価されていましてな。もし今も維少卿の子であられたならば、娘を貰ってほしい、とまで口にするほどでございます」
「ならば、そう申し込まれてはよいでしょう。虞の王子であり、今や伯爵位と封国を持つ人の執政とあらば、魏中卿の息女の良人として申し分ありますまい」
「いえ、それはもちろん、子狼どのの才幹を見込んでのことでもあるのですが――それ以上に、我が兄は、そして魏氏は、維少卿と縁故を結びたく思っているのです」
魏仲洪は目笑した。維弓は表情を強張らせた。そうなることを想定の上で、魏仲洪は言葉を続けた。
「此度、私が霊戍へ参らせていただいたのは――次代の少卿となる人に我が兄の息女を嫁がせたいという、魏中卿の想いを伝えんがためでございます」




