維氏の行人
白銀の野を、鍬を持った男たちがかき分けていく。雪を除いて開かれたその道を、一乗の車がゆっくりと進んでいた。
「まさか本当に、冬の霊戍に来ることになろうとは思いもよりませんでした」
車を御する青年、欒侑は白い息に嘆きを込めて吐き出した。牛皮の手袋をし、綿を詰めた麻の上衣を着ているが、それでもなお体を震わせている。
主人たる魏仲洪が主命を受けて維氏の下へ向かう。そう聞かされた時から憂鬱そうな顔をしていたが、北進するほどにその憂色は濃くなっていき、やがて地の色が雪の煌びやかな白に変わるにつれ、声を震わせながら愚痴を吐くばかりであった。
「そんなに寒いのであれば、人夫に混ざって雪掻きでもしてくればいい。御は私がするから気にするな」
魏仲洪は、嘆く従者を後目に見ると、膝元の書簡に視線を落とした。
魏仲洪は礼服の上に虎の裘を羽織っている。これは魏盈が、寒冷地へ赴く弟を気遣って与えたものであった。
それでも、寒さを完全に遮断することは出来ないはずである。しかし魏仲洪は、たまに若い従者の愚痴に言葉を返す以外には、黙々と書簡を読むばかりであった。
「そういうわけには行きません。これは私の務めですので」
「ならば、もう少し静かに手を動かせ」
「しかし、寒いものは寒いのです。主人さまは平気なのですか?」
「そんなわけなかろう。しかし、嘆いても寒気が引くわけではないからな」
そう言うとそれきり黙り込んで、魏仲洪はまた、粛々と書簡を読むだけの置物となってしまった。
感情などやたらとため込むくらいならばはきだしてしまったほうがよいと思っている欒侑は、こういったところが魏仲洪と正反対である。
とはいえ、文句を吐きながらも、欒侑は従者として、御者としての務めはしっかりと果たしていた。
前方で雪掻きをする人夫たちの手が止まった。欒侑が見ると、そこには騎馬の一団の姿があった。十騎ほどで、いずれも胡服を着て、剣を佩き箙を背負っている。
「魏中卿の副弐どのでございますな。ようこそ参られました」
先頭の男が進み出てきた。白髪の目立つ恰幅の良い男だが、その見た目に反して、砥がれた短剣のような鋭い声をしている。
「これは維嘉どの。昨年の夏ごろ、我が邸にお越しいただいて以来でしたかな?」
「その節は、過分にもてなしていただきましたな。此度は私が饗応させていただきましょう」
この人物は、維弓の弟であり、維氏の渉外を司る維嘉である。その立場ゆえに、魏仲洪とも面識があった。
維嘉は智氏、魏氏の領と霊戍を往来しつつ、三卿の間を取り持っている人である。三卿が未だ表立ってい対立していないことの背景には、維嘉の奔走がある。それほどの人物であった。
維嘉の後ろから、馬蹄が雪を踏みしめる音がした。馬上には、長躯の男がいる。
「お初にお目にかかります。私は維弓が三子、叔典にございます」
「ああ、貴方が。噂についてはお聞きしておりますよ。維少卿のご子息には、少卿の武勇と楼氏の軍略とを継いだ名将がいる、と」
魏仲洪は相好を崩し、柔らかい声で言った。
「お褒めいただけたは光栄なれど、それは失礼ながら、副弐どのの聞かれた話に誤りがあったに違いありません。私はそう、大した者ではございませんよ」
維叔典は、落ち着き払って、魏仲洪の世辞を否定した。
「ですが、武に疎い私でも、叔典どのが鍛え上げたよき武人であるとは分かりますよ」
和やかに話しながら、しかし魏仲洪は目ざとく、
――私は少卿の子としか言わなかったが、この人は兄を称めることはしなかったな。
と、感じた。
維叔典その人は、明朗な人なのだろう。声に闊達さがある、と魏仲洪は感じた。
そういう人に悌心が欠けているとは思いにくい。しかし維叔典は、形だけでも、その風説は兄たちのものではないか、とは言わなかった。そのことを、胸中に留め置くことにした。
魏仲洪の車は、維嘉と維叔典、その兵らに護衛されながら霊戍までの道を進んだ。雪掻きの人夫についても、維嘉が引き連れてきてくれた。さすがに豪雪の北地に棲む人たちだけあって、魏仲洪が連れてきた者たちよりも手際がよい。
欒侑としても、車を御するのに、少し気が楽になった。そしてちらりと、主人のほうを見る。
魏仲洪は、やはり書簡を読んでいた。しかし、表情が心なしか柔らかい。
「主人さまは――」
「どうした、欒侑?」
常であれば雪に顔をうずめたような冷ややかさのある声も、今は穏やかである。欒侑は、周囲に聞こえぬように、声を低くした。
「こういう時は、笑われますし、声色も豊かですね。普段からそうなさっていればよろしいではないですか?」
従者にいわれて、魏仲洪は目を細めた。だが、維氏の兵たちが見ている。すぐにまた相好を崩すと、
「笑貌をつくるのは疲れるからな。不要な時にはしたくない」
と、こちらも、静かに言った。




