魏仲洪と蔣不乙
空はまだ白く、風は冷ややかである。閑散として人気のない道に車がゆっくりと進んでいた。
魏仲洪が、主君たる魏盈の下へ向かう最中である。
「まるで手に短剣を突き立てられているような寒さですね」
御をしながら、従者の欒侑は白い息を吐いた。指先が震えているが、手綱を握っている欒侑は、手を懐で暖めることも出来ないのである。
「黄河からの寒気だろう。杏邑などまだよいほうだ。霊戍以北の地ではこの時期は、どこかしこも雪に埋もれていて、道を行くにも僕を数人連れ、鍬を持たせて雪を掻きわけさせねばならないと聞くぞ」
杏邑にも雪は降るが、どれだけ多くとも人の足首が隠れる程度であり、年々の雪といえば、街並みを白く塗り替えるくらいで済む。寒いことに違いはないが、それさえ耐えれば生活にそう大した支障はないのだ。
それにしても、車上の魏仲洪の声は震えていない。特別厚着をしているというわけでなく、そもそもこの車自体、囲いのない吹きさらしの簡素なものであるのだが、平然としていた。
ゆっくり、首だけで振り返ってみると、魏仲洪は書簡を読んでいた。
――そういえば主人さまは、どれだけ寒くとも懐中で指を暖めることはなさらないな。
目上の人と陪乗しているならともかく、今は欒侑の他に誰の目もない車上である。しかし魏仲洪は寒さを表に出すことをしなかった。車も、風よけや天蓋のついた高級なものを用意することはない。副弐の地位にあればそのくらいのことは出来るのだが、気にしている素振りすらないのである。
馬を御しながら、欒侑はそんなことを考えていた。
ふと、この車と異なる車輪の音が聞こえてきた。前方である。欒侑は思わず馬を止めた。
「この時刻でこの道ですと、大司馬かもしれません。どうされますか?」
大司馬、つまり蒋不乙である。魏仲洪にとっては僚将であり、魏盈の下で肩を並べる者同士である。しかしこの二人は仲が悪い。というより、蒋不乙のほうが魏仲洪を蛇蝎の如く嫌っているのだ。
そのことを知っている欒侑は、指示を仰いだ。今ならば、脇道に逸れてやり過ごすことが出来る。
「気にするな、そのまま行け。どうせ兄上のところに着けば顔を合わせるのだ。少し早まってもいいだろう」
「そうですか。では、そのように致しますが……」
魏仲洪は蒋不乙のことを何とも思っていない。嫌われているという自覚はあるが、だからといって何をするというわけでもないのだ。
しかし欒侑は、蒋不乙のことを快く思っていない。蒋不乙は魏仲洪のことを、舌三寸の文弱の徒と蔑視しており、しかもそれを隠そうとしない。主人のことを尊敬している欒侑にとっては許せぬことであった。
かつてにも何度か、こういったことはあった。欒侑が蒋不乙の車の音を聞き分けることが出来たのも、慣れからである。魏仲洪はその時に、
「私は小人だが、大司馬くらいであれば懼れぬさ」
と放言した。その時の欒侑は、魏仲洪から躱したとなると、惰弱を見せることになると思ったのである。
しかし蒋不乙は、主君の前で不和を示すことはないが、魏盈のいないところでは遠慮なしに魏仲洪に悪態を吐いてくる。その度に魏仲洪は舌鋒を走らせて言い負かしているのだが、口で勝てぬ蒋不乙は最後には決まって、
「剣も持ち上げられぬ、口先だけの軟弱者め」
と捨て台詞を置いて去っていくのだ。
初めのうちは見ていて痛快さを覚えた欒侑だが、段々と不安になってきたのである。事あるごとに面目を潰されている蒋不乙は、今に魏仲洪に危害を加えてくるかもしれない。蒋不乙は武人としては優秀だが稚児のような粗暴さを持ち、今に損得を越えた愚行に走るのではないかと思わせる危うさがあった。
そのような思いの欒侑は、心なしかゆっくりと馬を進ませた。
そして、道の角で蒋不乙の車を見たのである。蒋不乙は、十人ほどの歩兵を連れていた。
「どうも、大司馬どの。朝早くから、ご苦労なことでございます」
魏仲洪は慇懃に挨拶したが、顔は少しも笑っていない。ただ冷徹に、僚将としての礼儀を示した。
「なんだ、副弐か。相変わらず粗末な車だ。その吝嗇が主人の顔に泥を塗っていることに気づかぬか」
蒋不乙が鼻哂した。魏仲洪の車は三頭立てだが蒋不乙のそれは四頭立てで、天蓋と長柄がついている。
「中卿の臣であれば、この程度でよいでしょう。地位を弁えぬ財を持つは破滅の端であると言いますからな」
「なるほど。確かに副弐程度の小人であれば、その程度の粗末な車がちょうどお似合いだな」
嘲笑を聞いて、欒侑は手綱を強く握りつつ歯噛みした。もし欒侑が立ち上がりでもしようものなら、それは魏仲洪の非となる。そう弁えているからこそ堪えているが、主人が笑われるのは、自分が見下されるよりも耐えがたい屈辱であった。
「なるほど、私は小人ですか。大司馬から見てそのような男を長年、副弐として重用しておられるとは、我が君は人を見る目がないということになりますかな?」
思わぬ返しに、蒋不乙は舌打ちしつつ、
「お前が弟だからだろう。兄の善意に甘え、その財を食いつぶすことしか知らぬ不悌者め」
と怒鳴った。
「確かに私は我が君の縁者ですが、庶弟です」
魏盈と魏仲洪は異腹の兄弟であることは前にも話した。それでも、魏仲洪の母は父から寵愛されており、実の弟のように育てられたという背景はある。しかし、庶弟であることには違いないのだ。
早くも、蒋不乙は言葉を見失ってしまった。
魏仲洪はわざとらしく呆然の息を吐いて、
「このようなところで話し込んでいて、副弐と大司馬が二人して遅参となれば、それこそ我が君に恥をかかせてしまいます」
と言って、欒侑に命じて車を発進させた。やがて蒋不乙も御者に命じて、不承不承ながらに進んできたのである。




