仮道枯草
魏盈の副弐にして異腹の弟である魏仲洪は、急な兄の呼び出しにも動じず、恭しく膝をついた。
「お召しとのことで参上いたしました。用向きは何でございましょうか?」
「お前も聞いているだろう。虞の王子のことだ」
臣の前でありながら、魏盈の態度はどこか弛緩している。それでも凡人にはない佇まいがあるが、常の魏盈を知る者からすれば些か精彩を欠く有様であった。それは弟しかいないことと、話題の憂鬱さがもたらすものであった。
「耳にはしましたが、私が聞いたのは風説に過ぎず、家臣に命じて真偽を探らせていました」
「そうか。私が調べさせた限りだと、どうやら真実であることが分かった。虚報のほうがよかった」
魏盈はかつて、密勅を持って杏邑を訪れた姜子蘭を軟禁した。しかも姜子蘭は後に逃げだしたのだが、その際に追手まで放っている。
しかし、その時は虞の王子という身分こそあれど一兵すら持たなかった少年が、今や虞において大功を立てたのだ。向後のことを思えば、魏盈が憂慮を抱くのは当然のことであった。
「しかも王子は伯爵位を賜り、鄭へ封建されたという」
それは、欒侑が聞いてきた話にはない話であった。流石に杏邑の城主の耳目は巷間の噂話を越えている。
「お前はどう見る?」
魏盈は、言葉数を絞って訊いた。
「中卿はこの微臣に、何についての見識をお求めでしょう?」
魏仲洪は生真面目な声で問いかける。魏盈の口から、小さな嘆息が漏れた。
――仲洪は利巧だが、やはり妙なところで鈍い。
魏仲洪は賢智の臣であるが、察しが悪いと魏盈は心の中で嘆いた。異腹とはいえ兄弟であり、しかも魏盈に仕えて長いのだ。そろそろ、一から十まで説明せずとも真意をくみ取って欲しいものだと、事あるごとに思っている。生真面目さ故なのかもしれないが、これは魏盈から見た魏仲洪の明確な欠瑕であった。
それでも、他の才知については長けている。今も、姜子蘭のことを知った魏盈が一番に呼び出したのは魏仲洪であった。
「我らは王子を粗略に扱った。いずれ、兵を率いて我らに報いにくるのだろうか?」
「あのような卑しい女の言葉を真に受けることはございますまい」
「そんなことは気にしていない。しかし、我らが王子の怨みを買っていることには違いなかろう」
恰幅のよい魏盈の体躯が、今は不思議と小さく見える。姜子蘭の業績と封建のことが、心を弱らせているようであった。
――兄がこうまで沈鬱になられるとは珍しい。
近臣ということもあり、魏盈は魏仲洪には肩ひじを張らずに接することが多い。それは、時に尊大であり、時には屈託なく、またある時は愚痴らしいことを零すこともある。しかし、憔悴のようなものを見せることはほとんどなかった。
「憂いを抱かれることはございません」
魏盈は眉を吊り上げ、嗔とした貌をした。些かの惰弱を晒しはしたが、気休めが欲しくて魏仲洪を招いたわけではないのだ。
「鄭のような塞外の地への封建は、恩賞というよりも貶降にございましょう。仔細は分かりませんが、虞王と王子の間に何かがあったものと見て間違いないかと。
また、鄭から我が領に攻め寄せるには智正卿の領を通るか、杞谷の桟道を通らねばなりません」
杞谷の桟道は、鄭国を東に進み、そして北上する路である。険路として有名であり、少なくとも、かつて兵を率いてこの地を踏破した者は一人しかいない。
杞谷の天険については魏盈も知っている。しかし、
「王子が智氏と結ぶ、ということもあるやもしれん」
という懸念があった。
「兵法には、“道を仮りて草を枯らす”という策がございます。他国の兵を進軍させるために領地を通らせ、後に退路を断って孤軍とすることを言い、同時に、帥を率いる者は進軍の路を選ばねばならぬという戒めにもなっている言葉でございます。
智氏の貪婪は天下の知るところであり、そのような男に道を借りて我が領を侵さば、その軍は分断される恐れがあります。曲がりなりにも顓族を破った王子が、そのような危殆を孕む出師を行うとは思えません」
鄭国と魏盈の領の間には地の隔絶がある。一たび兵を起こすとなった時、隣接する他領を攻めるのと、他領を跨いでそのさらに遠方の敵領を攻めるのとではまるで前提が異なるのだ。
「それに、鄭は未開の地でございます。少なくとも数年は、他国へ兵を出す余裕などありますまい」
魏仲洪は一つずつ、魏盈の不安を解きほぐすように持論を述べていった。
「念のため、鄭に何人か偵者を遣りましょう。何か報せがあってから備えたとしても遅くはありません」
「そうか、そうだな。いや、考えてみればおぬしの言う通りである。少し気弱になっていたようだ」
「中卿が杏邑や領地のため、些事に至るまで心を配っておられるが故でございましょう。その高配に適うよう、臣も微力ながら尽力させていただきます」
魏盈の顔から愁色が消えた。魏仲洪は小さく口元に笑みを作って、
「それでもまだお心が晴れぬのであれば、息抜きに私の蔵に参りませんか? 近頃、よい屏風を買いましてな。雁金の群れが鮮やかに描かれたものにございます」
と言った。すると魏盈は、再び眉宇をひそめた。
「それは、また次の機会にさせてもらおう」




