杏邑の副弐
成王十九年、仲秋の頃。茨国の軍と虞の王子率いる北狄の軍勢が顓族を虞領より攘斥した。その捷報を聞いた樊の三卿の反応は異なった。ただし、正卿智嚢と中卿魏盈については、まず懐疑を抱き、それが真実だと知ると驚嘆を示したのである。
少卿維弓だけは歓喜を見せた。
維氏は姜子蘭が杏邑から逃げた後に身を寄せた地である。熱烈な尊王家である維弓は居城、霊戍に王子を招くことが出来た光栄を喜び、また、虞王に忠義を示すために兵を率いて南下せんと考えていた。北の異民族の侵攻が盛んになったことで実現できなかったことは維弓にとって無念であり、だからこそ、姜子蘭が顓族を攘うという大功を立てたことを喜んだのである。
それから二月ほど後に、楼盾が霊戍にやってきた。帰郷を願う維氏の兵の引率である。
維弓はその時に、姜子蘭に祝賀の品を送りたいと申し出たのである。
それが軍馬百頭と、その数の馬の飼料百日分という数であったので楼盾は、
「私の一存で受け取ることは出来ません」
と、断らざるを得なかった。どうしてもというのであれば樊伯を通してほしいというと、維弓はやむなく断念した。樊伯を通すということは智嚢を通すということである。智嚢を樊の壟断者として蛇蝎の如く嫌っている維弓には、間に智嚢を立てた出捐が正しく姜子蘭に届くと思っていなかったのである。
代わりに、姜子蘭に祝辞の書簡を書いた。こちらは受け取り、楼盾の手によって姜子蘭に届けられている。
智嚢は、表だった行動には出なかった。
ただ樊伯夷皐の名で、虞王に祝賀の使者を送った程度である。
そして、当然ながらその報せは魏盈の居城、杏邑にも届けられた。
杏邑城の東に、一つの邸がある。それなりに広く、見るからに貴族の邸宅という佇まいであるが、敷地の広さに反して建物そのものは質素である。
建物も、敷地から見れば主屋は小さく、広間と客間、書斎の他には生活に必要な諸々の部屋があるくらいである。
家主の男が書斎で、書簡に目を通していると、慌ただしく駆け込んでくる者がいた。
「主人さま、大変なことが起こりました」
決河した水が戸板を突き破って押し寄せたようなけたたましさである。
「変事や有事など、いつでも起きるのだ。お前は少し落ち着くということを知れ、欒侑」
欒侑と呼ばれた青年は、息せきを切らしていた。顔も赤く染め、髪と衣服とを汗で濡らしている。
家主の知己の息子で、頼み込まれて断り切れずに従者としたのだが、今年で二十になるというのに、未だに冷静さに欠ける人物である。よく評するならば熱心で勤勉な若者なのだが、主人の性情は怜悧沈着であり、今一つ噛み合わぬ主従であった。
「も、申し訳ございません主人さま。ですが、驚天動地の大事が起きたのです」
「お前にかかれば鶏が昼に鳴いただけでも大事だろう」
「確かに、それはそれで不気味ではありますが。しかし、此度はそういった話ではないのです」
「どうした? 智氏か維氏が攻め寄せてきたか?」
欒侑は首を横に振った。もっとも、そうだとしたら杏邑にとって、家主にとっても他人事ではないのだが、しかし家主に動揺というものはまるで見られない。こうして言葉を交わしながらも、その視線はずっと卓上の書簡に向けられていて欒侑の反応は見えていないのだが、
「違うのならば、井戸で水を浴び、喉を潤してから来い」
と、間の取り方だけで理解していた。しかし欒侑の熱は冷めやらず、
「茨子の軍と虞の王子の軍が、虢から顓族を掃討したのです」
と、持ってきた報せを口にした。
「……そうか」
はじめて、家主が顔を上げた。
「どこで聞いた?」
「港でございます。商賈たちが騒いでおりました」
杏邑には、水運を稼業とする商家が多い。彼らは河上に船を走らせ、人と物と、そして情報を運ぶ。その情報の多様さたるや、巷間に出回るような下世話な噂や訛伝から、国家の趨勢を揺るがすような密事にまで渡るのだ。
それだけにこの話の真偽は未だ定かではない。
「そうか、わかった。頭の片隅に留めておこう。お前も、暫くは忘れていろ」
そっけない言葉を投げ、再び書簡に視線を落とした主人に、欒侑は目を丸くした。血気盛んな青年に、倍ほど齢の離れた主人の考えは分からない。もう一年以上は仕えているのだが、未だに思考に隔絶がある。
ただし欒侑は、主人に対する忠誠と信頼には絶対的なものがあり、言われたことは必ず守ると決めている。
そうして四半刻(三十分)ほど経った頃。魏盈から使者がやってきた。
「副弐さま、今すぐに出仕せよとの中卿さまからのお達しです」
副弐とは魏氏の私設の官職であり、補佐役のことを指す。
欒侑の主人は、すぐに向かいますと答えると礼服に着替え、欒侑に命じて車を出させた。
車が止まると、男はすんなりと邸宅の奥へと案内された。太鼓腹の中年の、しかし威風と隙の無さを備えた男が奥に鎮座している。樊国の中卿、魏盈その人である。
魏盈は億劫そうな顔をして頬杖をついており、男が来ると気だるげに顔を上げた。
「ああ、すまぬ。よく来たな――仲洪」




