羊の復命
虞の成王二十二年、季夏の終わりごろのことである。鄭国の君主と、洛林にいる廷臣たちが堂に集っていた。
この場にいるのは姜子蘭の他には、
兄師――盧武成
伯尹――楡子狼
監軍――顓項
右司馬――楼盾
司徒――李遼
の五人であった。司寇の趙白杵は不在である。当然ながら、樊国に内偵に向かった左司馬の呉西明、智氏のもとへ使者として向かった顓遜もいない。
呉西明の使いとして今ある情報を持って帰還したのは、夏羿族の密偵である女性、羊であった。
洛林から智氏の居城たる武庸まででも、およそ二百五十里(百二十五キロメートル)はある。しかし羊の復命はひと月と十日ほどであった。軍が一日に進む距離のことを舎と言い、一舎が三十里(十五キロメートル)である。洛林と武庸の往復だけであれば十六日ほどで可能だが、呉西明はさらにそこから百里(五十キロメートル)ほど離れた魏氏の居城、杏邑にまで向かっているのだ。
しかも、他領で隠密に努めながら諜報を行っていることを思えば、驚異的な迅さである。
「馹の替え馬は上手く機能したようですな」
楡子狼が言った馹とは、駅舎のことである。鄭国の随所に置かれた小規模な官衙であり、鄭国の官人であればいつでも駆け込んで馬を使えるというものであった。羊は復命に当たって、馹に寄るたびに馬を替えることで、常に休息の足りた健馬を使うことが出来たというわけである。
馹を作るよう進言したのは顓遜であり、施策のために奔走したのは楡子狼と李遼である。特に困難だったのが多くの馬を確保することであり、買い付けのために人を西へ向かわせたりもしたが、その甲斐があったということになろう。
「馹を使われた所感をお聞きしたくもありますが、それは後日ですな。ともかく、まずは羊どのに話を聞きましょう」
李遼がそう言ったことで、姜子蘭は堂下のほうに視線を向けた。そこでは羊が膝をついて顔を伏せている。姜子蘭が許しを出したことで、羊は立ち上がった。
本来、密偵は下賤の者であり、調べ上げたことを貴人の前に出て知らせるなどということはない。戦陣の最中、一刻を争う時であれば特例もあるが、侍人などを間に立てて又聞するのが常である。しかし姜子蘭は楡子狼を軍師としてから一度も、そういったことを行わなかった。
「間に人を立てて報せを聞くは、壁を隔てて話すようなものでございます」
何を行うにも実情を正しく知らねばならない。その障害となり得るものはすべて排除するべきである。それが楡子狼の考えであり、姜子蘭も頷いたため、姜子蘭はもたらされた報せは必ず、まず自らの耳で聞くようにしているのだ。
「まずは、これほどの速さで復命できた訳と、左司馬が今どうしているかを教えてくれ。左司馬が有能であることは承知だが、それを差し引いても、喜びより疑念のほうが勝る速さだ」
晋姚と供酒が亡命してきたことで、樊国の乱れは鄭国の君臣の知ることとなった。ならば、三卿はそれぞれ、相当に自陣営や樊国の内情を隠しているはずである。いかに呉西明が杏邑の出身であり、呉展可という大商人との血縁があれど、容易にはいかぬと考えるのは自然なことであった。
「武庸の范氏、杏邑の呉氏は我らが赴くより早く、三卿について探りを入れておられました。私が持ち帰ったのは、それらを纏めたものにすぎません」
なるほどと一同は頷いた。遠く鄭にいる者たちでも樊国に擾乱の兆しあることは予見していたのだ。ならばその地に棲む者たちがその匂いを嗅ぎとれぬはずがない。それを知り、かつ能動的に動けるからこそ、この両氏の家は栄えてきたのである。
「左司馬どのは、今も杏邑に留まってさらに魏氏について調べておられます」
これについては、大方の予想通りであった。さらにもう一つ、羊は付け加えた。
「帰路の馹で監軍補どのにお会い致しましたので、分かったことはお伝えしてあります」
「それは僥倖だ。監軍補どのであれば、情勢がどう動こうと、臨機応変に立ち回られるだろう」
羊の根回しに、楡子狼が称賛を送った。
この上、他に補足することはないらしい。廷臣らからの問いかけもなかったので、羊は改まって懐から書簡や文字の書かれた布などを取り出しつつ、樊国の現状について語り始めた。
明日より第二部第二章「魏氏罅隙」編が始まります。姜子蘭たち鄭国サイドの話は出ず、樊国での話が中心となってきますね。その都合として、スポットが当たるキャラクターが出てきます。過去に少し出たことがある人なのです。




