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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
鄭国春雷

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貴賎の苦労

 盧武成が怒りのままに中座したので、楡子狼はその後を追った。庭園から離れたところで、肩を掴んで呼び止めると、盧武成は楡子狼をきつく睨みつけた。


「どういうつもりだ、お前は?」


 盧武成が席を立ったのは荀仄への怒りから来るものである。しかし今、その矛先は楡子狼にも向けられていた。

 とぼけてやろうかとも思ったのだが、気が咎めたので、楡子狼は素直に話すことにした。


「お堅い場で話すと白を切られるかもしれなかったからな。だから、不意に聞いてみた」

「そういうことではない。大体、密偵から報せが来ていること自体、俺は知らなかったぞ」

「そりゃそうだろう。何せ、まだ誰一人として帰還していないのだからな」


 樊伯夷皐(いこう)が病であるというのは、楡子狼としても確証のない話であったらしい。しかし確信だけはあったので、試しに荀仄に探りを入れてみたようである。

 といって、楡子狼からすれば、荀仄たちが隠そうとするほうが不思議なのである。

 今、智嚢は夷皐という傀儡の樊伯の下、権力を振るっているのである。しかも夷皐は酒色に溺れ、智嚢ら卿と争って政権を取り戻そうという気概さえないのだ。そのような君側の奸にとって都合のよい君主を、わざわざ他の公子と変える理由などないのである。

 となれば、命が危ういと考えるのが自然であった。


「まあ、お前のそれはもはやいつものことだ。しかし、相手が隠しているのだとすれば、それを公然としてどうする? これで荀氏らはますます、鄭伯に出兵を求めてくることだろう!!」

「そんなものは断ればいい。勝手にやれとは、お前も荀氏に放言したことではないか?」


 楡子狼が悠然と口を開くほどに、盧武成の語気は鋭くなっていく。


「ならば何故、我が君と供酒どのが親しくされるのは看過しているのだ!?」


 盧武成には、楡子狼の考えがまるで分からない。

 友であると思っている。恃みとすべき僚将であるとも思っている。それでも未だに、何を想って動いているのかが分からなくなってしまうのだ。

 供酒と親しくすれば、姜子蘭にも情が湧くだろう。そうなれば、供酒のために兵を出すと言い出すかもしれない。そこまで公私を混ぜることはしなくとも、兵を貸すことを断ることに後ろめたさを覚えるだろう。供酒との交誼は、姜子蘭の胸を貫く無形の刃となりかねないのである。


「供酒さまと仲良くなさるだけであれば、それは鄭を悪しき方へ導くことにはならないからな。あまりに厳しく、あれはならぬこれはならぬと諫言することもなかろうさ」

「そうか、深慮はないのだな。ならば俺が後日、我が君に供酒どのと親しくならぬようにと言ってもかまわんだろうな?」


 楡子狼は頷いた。しかしそこへ、廷臣の一人が慌ただしく駆け込んできたのである。




 盧武成と楡子狼が中座したのを、姜子蘭たちは遠目に眺めていた。


「話を聞いて参りましょうか?」

「均が気を遣わなくともいいさ。後で私から聞いておくよ」


 均としては、親切や配慮というより、分不相応なこの場から去る口実が欲しいというのが本心なのだが、そういった機微は姜子蘭には伝わらなかった。均にとってわずかに救いと言えるのは、供酒のほうも特に、均という庶人が同席していることを気にしていないことであった。


 ――まだ幼いというのもあるのだろうが、純朴な人だ。


 出会ったばかりの姜子蘭と比して、均はそう感じた。もっとも、今の姜子蘭を見ていると、始めに会ったのは別人だったのではないかと疑いたくなるほどに、身分を表に出して偉ぶる様子がない。

 しかし、今の姜子蘭のほうが、おそらく素の姜子蘭という人の性情なのだろうとも思う。

 初めてあった時の姜子蘭は、頼みと出来る人が一人もいなかった。それでいて密勅と剣の他にはわずかな路銀も有していなかったのだから、王子という身分に縋るしかなかったのではないか。それが均の、時を経てふと昔日を振り返った上での所感であった。しかし真実は姜子蘭にしか分からぬことである。

 さて、そんな姜子蘭であるが、今は供酒に対して敬語こそ使っているが、傍目には弟の世話をかいがいしく焼く兄のように接していた。年長者に囲まれている姜子蘭にとって、年下の相手と関わる機会は少なく、それだけに自然とこのようなものになってしまうのだ。


「供酒どのは、我が国の暮らしで何か不便なことはございませんか?」


 何の気なしに姜子蘭が訊いた。供酒はまだ幼くとも、一応、自分が客人であり、姜子蘭やその臣下たちの世話になっているという自覚はある。それでも、そういった理性で本心を潜めるまでは出来ないらしく、遠慮がちに言った。


「鄭国の皆さまにはよくしていただいています。ですが、生まれ育った陽樊(ようはん)が恋しくなるときもございます」


 供酒は、少年らしい望郷の念を口にした。姜子蘭は切なげなその顔を見て我が事のように心を痛めたが、といって、今すぐに供酒を樊国に帰れるようにすることは出来ない。それは飢えた虎に小鹿を差し出すのに等しく、策も兵もなしに供酒が樊国に戻れば、供酒と晋姚の身は智嚢の凶刃の餌食となるに違いないのだ。


 ――貴家に生まれた人にも、それに応じた苦労があるのだな。


 均はふと、そんなことを思った。均は貧家に生まれ、両親とは幼くして死別した。それだけに、旧主たる范旦(はんたん)に拾ってもらうまでは飢えや病によって生死の境をさまよったこともある。

 姜子蘭や供酒はそういう苦しみに直面したことはないだろう。しかしその代わりに、政争や兵難に遭って命を脅かされている。死線に立っているという見方をするのであれば、大差がないように均には感じられた。


「どうした、均? 先ほどから口数が少ないが、何か考えごとでもしているのか?」


 ふと均のほうを見た姜子蘭が訊いた。といって、考えていたことをそのまま口にも出せず、どう言い繕うか考えていて時である。侍従の一人が駆け込んできた。姜子蘭が何事かと問うとその男は、


「樊国へ向かわれた呉左司馬の一団より、樊国の内情についての一報が届きました」


 と告げたのである。

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