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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
鄭国春雷

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樊伯の近況

 姜子蘭が供酒(きょうしゅ)を遠駆けに連れ出したことは、当然のながら晋姚(しんよう)の不興を買うこととなった。楡子狼と荀仄がとりなしてどうにか大事にはならなかったが、晋姚は姜子蘭に不審を抱くこととなった。

 姜子蘭としても後になって反省はした。しかし供酒のことは気にかけており、その後も折に触れて供酒を庭園に連れ出して茶の席を設けるなどしたのである。

 姜子蘭は晋姚も誘ったのだが、一度として晋姚が来ることはなかった。代わりに、荀仄が名代と供酒の家人を兼ねて参加している。

 そして今日は、均もこの場に招かれている。

 齢こそ近いが、一人は伯爵位を有する国君であり、もう一人は樊国の嗣子である。身分があまりにも違いすぎて、均はかえって落ち着かなかった。

 それでも、姜子蘭にはまだ多少の気安さを以て接している。しかし、供酒への態度はぎこちなかった。


「均どのは大変そうですな。身分や出自というものをあまり気になさらぬのが我が君の美徳であり、時に悪徳でもあらせられる」


 この席には、盧武成と楡子狼も参じていた。楡子狼は均が当惑している様を少し離れた席から見て、軽く笑った。


「均にとっては笑いごとではなかろう」

「まあな。虞の王子に襤褸(ぼろ)を着せ、(しもべ)のふりをさせて関所を通るような豪胆さなどを持ち合わせている人なんて、そうそういないだろうぜ」


 かつて、盧武成が姜子蘭と均とを連れて旅をしていた時の話を持ち出して楡子狼は笑う。そんなこともあったと、盧武成は声を低くして目を逸らした。

 二人がそのように、およそ一国の軍政の長らしからぬ歓談をしているのを、荀仄は険しい顔で眺めていた。


「荀氏はさきほどから、黙り込んでおられますな? 我が国の茶と菓子とはお口にあいませんでしたかな?」

「いいえ、そのようなことはありません。おいしくいただいております」


 言葉の角が取れていない。話しかけられたので、とりあえず返したという声である。


「ところで、今日は私としても一つ、荀氏にお聞きしたいことがございましてな」

「……なんでしょうか?」

「樊伯のご容態は、いかほどなものなのでしょう?」


 茶を飲もうとしていた荀仄は、その言葉に喉を引っ込ませた。

 どういうことだ、と盧武成が怪訝な目を向ける。樊伯が病であるなど、盧武成は聞かされていなかった。


「実は先日、陽樊(ようはん)に人を遣りましてな。そして、樊伯が病床に伏せておられるとお聞きしました」


 そういうことを、晋姚と荀仄は一言も話していない。しかし、荀仄の顔色を見るに、その話しは真実のようである。


「ご存知でしたか。ならば、隠しても仕方がありませんな」

「何故、我らに話していただけなかったのですか?」


 盧武成が厳しく問い詰めた。


「樊伯の病のことは、緘口令(かんこうれい)を敷き、智正卿にも知られぬようにしておりました。樊伯が死ねば、智正卿は公然と他の公子を立てるでしょう。それ故に病のことは伏せ、樊伯にはなんとしてでも生きてもらわねばならなかったのです」


 生きていて、というところを、荀仄は語気を強めていった。事の真贋を問わずそういうことにしておかなければならないのだ、という含みがある。樊伯――夷皐(いこう)が生きているということになれば、智嚢(ちどう)が新たな樊伯を擁立することを公然と、専権であると非難することが出来るからだ。


「何もかも、順序が間違っておりますな」


 樊国の老臣に、楡子狼は軽い失望を覚えた。この人は、武人としては勇敢で、礼や儀典には通暁しているのだろう。しかし政謀についてはまるで分かっていないらしい。

 楡子狼としても経験はないが、それが人と人による詭謀と譎詐(けっさ)によって成り立っているとなれば、それがどのような様相であるかは分かるのである。


「晋氏と荀氏とは巧く隠しておられたつもりかもしれませんが、おそらく智正卿は、樊伯の病が篤いと見て他の公子を立てんとされたのでしょう」

「そんなはずは……」

「智正卿は貪婪であるが、それ故に狡智に富んでいます。常に樊伯の周囲には目を光らせ、知らぬことなどあろうはずがございません」


 荀仄の顔から血の気が引いていく。先ほど、荀仄は夷皐には何としても生きてもらうと言っていた。おそらく、夷皐が(こう)じた時にはその死を隠す算段を整えてからの出国だったのだろう。しかし、それすらも智嚢に知られている公算のほうが高いのだ。


「な、ならば一刻も早く樊に戻らねば」

「一兵も率いずに、ですか?」


 言葉を詰まらせた荀仄は、改めて二人に頭を下げた。姜子蘭を説得し、兵を貸してほしいとの請願である。それを聞いた盧武成は、憮然とした顔つきのまま立ち上がった。


「樊国のことなど、我が国には関係のないことにございます。智氏と戦いたいのであれば、おひとりで好きになさればよろしいではありませんか」


 努めて声を殺し、それでも抑えきれぬ昂然とした怒りを吐き出したまま、盧武成は席を立ってしまった。

 第二部1章“君臣奔走”編も残り2話です!! よろしくお願いします!!

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