楼盾の懊悩
壮麗なる銀の毛並みを誇る駿馬が、青年と少年とを背に乗せて草原を駆ける。この瞬間、二人は風を切り裂く刃になったような清々しさを感じていた。
「馬の背に乗るというのは楽しいものですね、鄭伯さま」
「ええ、そうでしょう。この素晴らしさを供酒どのに知っていただけたのは、私としても嬉しく思います」
鄭国の国君たる十六歳の青年、姜子蘭。その愛馬たる迅馬の背には、今はもう一人、迅馬のたてがみと姜子蘭との間に挟まれた樊国の嗣子、供酒の姿があった。
もともと、姜子蘭は遠駆けに出かけるつもりであったが、鄭国に来てから一度も外に出ていないという供酒の鬱屈を晴らすために、姜子蘭は遠駆けに誘ったのであった。
姜子蘭の目論見は当たったといってよい。洛林の城門を越えるまではふさぎ込んでいた供酒の顔に、今は明るさがある。そのことが、姜子蘭の胸中をも明るくしていた。
喜ぶべきことである。
しかし、姜子蘭の臣であり、この微行の随行者である臣、楼盾は、いつになく険しい顔をしていた。
当然ながら、供酒の母たる晋姚に断りを容れずに出てきたわけではない。姜子蘭の頼みを受けた伯尹の楡子狼を通じて伝えてはある。ただし、姜子蘭らは晋姚の許しを得る前に洛林を出てきてしまったのだ。
――まず、快く認めてもらえたなどということはないだろう。
晋姚が与えられた客室から出ることをしなかったのは、身辺を警戒してのことだろう。鄭国の領内とはいえ、どこに智嚢の手の者が潜んでいるかは分からない。閉じこもった生活は息苦しくあるが、その沈鬱を晴らさんがために、本当に首を絞められては意味がない。供酒を外に出さないのも同じ理由であろう。
――我が君は、そういうことを分かっておられるのだろうか?
楼盾が短く息を吐いた。すると、腹の辺りから声がする。
「……楼右司馬さまも、大変なのですね」
楼盾もまた、一人の少年を馬に同乗させていた。武庸の商賈、范玄の家人であり、士直に同行してきた均である。遠駆けに行くとなった姜子蘭が、せっかくだからと誘ったのである。しかし均は馬術の心得がないので、楼盾に同乗することになったのだ。
護衛すべき貴人が二人もいる中で、さらに自分の馬でも子供を一人、面倒を見なければならない。その憂鬱が漏れ出た嘆息である。
「王子は……鄭伯は、かつて私と、いつか遊びに行こうという約束をしてくださいました。国君となられた多忙のために、その約を未だ果たせていないと思われて気遣ってくださったのでしょう。右司馬さまには、申し訳なく思います」
均はまだ幼いが、大人びた慇懃な振る舞いをした。
「均とやら。お前は分別がつくな。我が君と伯尹にも見習っていただきたいものだ」
「伯尹さま、ですか?」
「ああ、そうだ。伯尹は我が君が供酒どのを伴って城外に出ることをご存知なのに、諫めることもしなかった。太傅のいない我が国にあって、君主の過誤を諫めるのは執政にあるあの男の職分であるというのに、何を考えているのやら」
まだ年少の均に、楼盾はつい愚痴めいたものを零してしまった。
「ええと、私は君臣のことは詳しくないのですが、右司馬さまがお諫めするのではいけないのですか?」
純心な問いである。均に一切の他意はない。その疑問に、楼盾は小さく息を詰まらせた。
自らの口から主君に言えぬことを、他人に言上しろと毒づいている己を愧じたのである。
別に、楼盾が直諫してもよいのだ。正しく道理を説けば、姜子蘭も聞き入れるだろう。若さと情に流される時もあるが、そこに囚われる頑迷な君主ではない。
ただしその代わりに、どこか寂しそうな君主の顔を見ることになるだろう。
それでも、非を認めた姜子蘭は、前言を翻すことを供酒に詫びながら、その釈明を懇々と語るに違いない。自らの言葉でそうなってしまう君主を見るのが嫌だという――つまり楼盾もまた、人臣にあるまじき情と幼稚さから楡子狼に腹を立てているのであった。
「まあ、仕方があるまい。もう城外に出てしまったのだからな。鄭伯には、次から気を付けていただこう」
楼盾は曖昧に言葉を濁した。その胸中は均には分からない。ただし、
「子蘭王子は、鄭国の皆さまに大切にされておられるのですね」
と感じた。
「まあ、そうだな。大事なご主君だとも」
この微行の最中に姜子蘭か供酒のどちらかが傷一つでも負うようなことがあれば、楼盾も相応の咎を受けることになる。そう承知しつつも、年相応の純朴さを晒して楽しむ二人を眺めていると臣としての充足を感じるくらいには、楼盾にとって姜子蘭という主君の存在は大きいのである。




