権勢への野望
晋姚が樊伯の嗣子、供酒を連れて鄭国にやってきてから、十日が過ぎた。
晋姚は供酒の手を引き、連日のように姜子蘭への謁見を求めてきている。しかし、姜子蘭が二人に会うことはなかった。
姜子蘭は会ってもかまわないと言ったのだが、楡子狼が止めたのである。
「あの女性の話というと一つだけです。兵を挙げ、供酒どのを奉戴して智正卿と戦ってほしいと。そのためであれば正道を語り、憐憫に縋り、己が境遇を切々と零されることでしょう。諾を言えぬ頼み事のために、そのような話を聞くのは徒労です」
「しかし、それではあまりにも不誠実ではないか。お二人も、故郷に身の置き場なく、兵難を避けて見知らぬ地に身を寄せておられるのだ。せめて、話し相手になるくらいはよいのではないか?」
「あの方たちが勝手に参られたのです」
楡子狼は素っ気なく言った。そうには違いないのだが、楡子狼の物言いには遠慮というものがない。
「少なくとも我が君は、魏中卿の軟禁にひと月は耐え、維少卿には勅書を見せたきり、その館に通い詰めて挙兵の催促を急かすようなことはされませんでした。あの方々にも、少しくらいは忍耐というものを持っていただきたいものです」
そういう風に説かれると、姜子蘭は言葉を詰まらせた。少なくとも維弓のところにいた時の姜子蘭には、自身が招かれざる客であるとわかっており、だからこそ身を慎むよう努めていたのである。
今の晋姚とその時の姜子蘭は似た境遇であり、楡子狼は言外に、十三の少年でもそうしていたのだから、妙齢の貴婦人が騒然としているのは見苦しいと諧謔を口にしたのであった。
「なあ、子狼は……」
今は姜子蘭の室で、楡子狼しかいない。官職を使わず字で呼びかけつつ、姜子蘭は聞いた。何でしょうかと、楡子狼のほうも砕けた言葉づかいで聞き返す。
「我が国は、ひとまずは晋姚どのと供酒どのをお客人とすると決めた。そのことを、子狼としてはどう思っているのだ?」
「お答えいたしかねます。こういった密議のような諮問は、壟断の端となりかねません。君主には、敢えて人を避けて一人の臣に諮らねばならぬときもございますが、この問いかけはそういった類のものではございませんな」
楡子狼はそう言って、姜子蘭を鋭く諫めた。
ここで楡子狼が何かを言って、その思想が姜子蘭に影響を及ぼしてしまえば、それは楡子狼の恣意が鄭国の政策を決めてしまったということになる。
「樊の正后どのと嗣子どのにつきましては、朝議で発したことが我が意でございます」
「そうか。そうだな、すまない」
楡子狼の言葉に正しさを感じて、姜子蘭は素直に謝った。しかし、諫められてしまった手前、この場で問いただすことはしないが、樊国から正后と嗣子が来たこと。擾乱の兆しがあり、その火の手が鄭国にまで及ぼうとしていることについて、この若い執政は、朝議の場にて胸中をさらけ出していないような気がするのだ。
もちろん、執政という重責ゆえに、迂闊なことを言えないというのもあるだろう。
どう動くにしても、樊国の内情をより詳しく知る必要がある。風説と憶測とを頼みに物事を進めるのは、腐った材木を梁として邸を立てようとするような愚行なのだ。
だが、姜子蘭の感じているのはそういった話ではない。
情報を得てから向後のことを考えるというより、楡子狼の中にはすでに樊国への展望があって、その策の土台を固めるために呉西明が樊国から帰ってくるのを待っているような、そんな風に思えてならなかったのである。
楡子狼と話し終えて、姜子蘭は急に倦怠を覚えた。日々の政務の疲れもあるが、樊国の内訌について考えたこともあるだろう。
鄭国は未だ国として若く、君主も廷臣も若い。そのための困難は多いが、参政する者たちは軍旅を共にし、顓族との戦いを越えた仲である。それ故に、陰黠な政争や利害の錯雑による閉塞とは無縁でいられた。
しかし、今の樊国はまさに欲望の坩堝である。
――智氏も、魏氏も、維氏も。かつては荘公に仕え、六卿としてその治世を補佐した人たちであったはずなのだが。
その頃からあった対立が、荘公という英主の力で抑えられていたのか。あるいは、撃鹿の敗戦という樊国の斜陽が、彼らの中に潜んでいた権勢を求める野望を目覚めさせてしまったのか。それは、姜子蘭には知り得ぬことであった。
もちろん、樊国の三卿がどのような胸中であるかも分からない。しかし、かつて少なからずその争いに巻き込まれかけた姜子蘭であれば、今の樊国が平穏無事とは程遠いということは知っている。
――ついこの前、行ったばかりだが、今日は遠駆けに出よう。
自分の顔が沈鬱のしわを作っていることに気づいた姜子蘭は、そう決めた。今は呉西明はいないので、楼盾に頼もうとその姿を探している時である。その眼前に、黒い球体が転がってきた。子供が遊びに使うような鞠である。それを追って、一人の少年がやってきた。
「これは、供酒どの。どうされましたか?」
姜子蘭は不思議そうな顔を浮かべつつ、鞠を拾って供酒の前で膝をついた。わずかな共もつけずに逃げてきた晋姚らのために、何人か侍女をつけはしたが、その姿も今はない。
「ええと、鄭伯さま……?」
「はい。それであっていますよ、供酒どの」
供酒は目を泳がせつつ、姜子蘭に話しかけた。どうにも、誰かから隠れているようである。
「ええと、鄭伯さま。おそとへは、どうやって行けばいいでしょう?」
「晋姚さま――お母上の侍女がおりませんでしたか?」
姜子蘭は晋姚らの外出については自由にしてよいと言ってある。必要であれば護衛の兵もつけるとまで言ってあるのだが、今のところ、晋姚らが鄭の宮城から出たという話は聞いていない。
「あの侍女は、母上の許しがなければ外へ出てはならぬからと言っていました。それで、こっそりと抜け出してきたのです」
つまり供酒はこの十日間、ずっと室に籠りきりだったことになる。姜子蘭としても色々と気を遣いはしたが、この齢の少年にとって面白いものなどそう多くはない。
この時、姜子蘭はあることを思いついた。
「では供酒どの。今から、私と一緒にお出かけしませんか? 楽しいところへ連れて行って差し上げますよ」
爽朗で屈託のない笑みを浮かべた。供酒は、一も二もなく頷いていた。




