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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
鄭国春雷

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晋姚からの請願

 姜子蘭らが士直、均と再会した日の翌日のことである。朝議の場に、鄭国の廷臣ではない二人の姿があった。

 一人は女性。もう一人は少年である。少年のほうは、まだ眠そうに目をこすりつつ、女性に手を引かれていた。


「樊伯夷皐(いこう)が正后、晋姚(しんよう)にございます」


 女性――晋姚は、床に膝をつくと、顔を伏せたまま名乗った。


「こちらは樊伯と私の子であり、嗣子の供酒(きょうしゅ)にございます」


 晋姚はそう言ってから、少年――供酒のほうを振り返る。そして、同じ様に頭を下げさせた。


「お二方、お顔を上げてください」


 姜子蘭は高座から呼びかける。その言葉を聞いて、晋姚はゆっくりと顔を上げた。

 晋姚は、目容のととのった美しい人である。ただし顔はややこけていて目の下にはうっすらとくまがあり、線が細い。華奢ではかなげであると言えばよいが、晋姚のそれは不健康のようである。

 そして、何かに怯えているようであった。この場には鄭国の廷臣がずらりと並んでいるが、敵中に孤立したかのように震えている。


「ようこそ、鄭へ参られました。ですが、お二方が遠路、我が国を訪ねて参られたのはどういったわけでございましょうか?」


 姜子蘭は先日、士直と均からそのあたりの事情について聞き及んでいる。しかし改めて、晋姚の口から教えてもらわねばならなかった。


「――このままでは、私とこの子は智正卿に殺されます。それで、陽樊(ようはん)より逃げて参りました」


 晋姚は切迫した声を出した。ちなみに陽樊とは樊の都城であり、今はほとんど智嚢の勢力下に置かれている地である。この地が夷皐と、その群臣、妻子の居城であった。


「智正卿は樊伯を輔弼する臣でありましょう。それが、樊伯の正后たる貴女と、嗣子である供酒どのを弑するとはいかなることにございますか?」

「智正卿は、供酒を廃して自らに都合のよい公子を次の樊伯にせんと欲しています。そのためには、我らが邪魔なのです」


 姜子蘭の問いかけに、晋姚は声を激しくして叫んだ。かと思うと、次第に弱々しくなってきた語気は、やがて悲哀を帯び始めてきたのである。


「智正卿が……。それは、間違いのない話なのですか?」

「このようなこと、偽りで申し上げることは出来ません。現に、逃げ出した私たちに智正卿は兵を向けました。鄭伯の臣が来られなければ、親子二人、(むくろ)となって樊へ還っていたことでしょう」


 晋姚は過激な言葉を使った。しかし、共羽仞の報せを顓項づてに聞いている姜子蘭は、それが決して誇張ではないだろうとも分かっている。樊国における智氏の専横は勢いを増しており、樊伯の立場はそれほどまでに悪いらしい。もはや君臣とは名ばかりのもののようだ。


「……それでは、我が国に参られたわけは?」

「鄭伯は虞王の子であり、先には顓族を西へ追討した正義の人であると聞き及んでおります。そのお力を持ちまして、樊国に正道を取り戻していただきたいのです」


 晋姚は懇々と訴えた。その声には、時おり嗚咽が混ざっている。話しながらに、晋姚は頬を濡らしていた。


「ご事情は分かりました。しかし、それならば北の維少卿を頼る道もあったでしょう。あのお方は、樊伯への忠誠に厚く、良将と精鋭を備えたお人です」

「それは智正卿も警戒していることでございます。東と北への道は、特に厳重に固められておりました」


 晋姚と供酒が東か北、魏盈(ぎえい)維弓(いきゅう)の下へ向かうということは、智嚢(ちどう)と対立するための大義名分を与えることとなる。樊伯を掌中に収めているが故の正卿の地位であるということを智嚢はわかっているらしく、その御旗を守るための体制にも疎漏はないらしい。


「それに、維少卿には頼りたくありません」

「それは、何故ですか?」

「維少卿は北狄と親しんで武威を磨いています。それでいて、智氏に壟断されている樊の窮状を打開しようとはしませんでした。所詮は卑しき(えい)姓の一族です。口に忠義を語りながら、野心を隠しているような気がして恐ろしく、そのようなところに我が身を投じるつもりはおきませんでした」


 この時、姜子蘭は一瞬だけ眦を細め、(かっ)として立ち上がりかけた。それを抑えたのは、姜子蘭の理性である。


「鄭伯は樊伯と同じ姜姓です。今、樊の窮状を救っていただける人は鄭伯を置いて他にありません。どうか、樊にて正義を行っていただきたいのです」


 かつて霊戍(れいじゅ)で維弓という人の厚情と忠心に触れ、恩を受けた姜子蘭は、晋姚の尊大な物言いに、腹の底から湧き上がる怒りを抑えていた。それを、廷臣の前であるからと、歯噛みしつつ怒りを呑み込もうとする間に、はたと気づいたことがあった。


 ――この人に、悪意はないのだ。それに、かつての私が魏中卿や維少卿に求めたことは、今、この人がしていることとなんら変わらないではないか。


 いきなり人の領地に足を踏み入れ、正義を説いて、その地の人々に血を流し戦うことを求める。まったく、晋姚が姜子蘭に要求していることは、かつて漂泊の姜子蘭が、虞王の救出という御旗と勅書とを振りかざして魏盈や維弓に求めたことと変わらないのだ。

 一国の君主となり、稚拙ながらに国を統治していれば、兵を動かすことがどれほど困難で、人材と物資の浪費であるかということはよく分かる。しかもそれを、他国に攻め込まれたのならばともかく、自ら進んで行うほどのゆとりがないことも、姜子蘭は分かっていた。


「ご事情は理解いたしました。ですが、これは廷臣と諮らねば決められぬことであり、この場でお答えすることは出来ません」


 姜子蘭はか細い声でそう言って、二人を客舎に案内するように命じた。それが、かつての自分の行いの後ろめたさを忘れるためのものであったとしても、国君としてこの場にあるために、晋姚の哀切の顔をこれ以上、見ていることは出来なかったのである。

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