夜半の追走劇
夜闇の中を疾走する車の上に、少年が一人と、妙齢の女性が一人。そして、剣を佩いた老人がいた。
天蓋を備え、幔幕を張り巡らせて、外からは乗っている者の顔が見えないようになっている。
まだ若く、七つか八つていどの少年を、妙齢の女性が抱きしめていた。この女性というのが、肌は白く、腰まで伸ばした濡れ羽色の髪は漆のように艶やかで美しい。顔つきも、やや頬がこけていて目の下にくまがあるのが残念ではあるが、それを差し引いても十分に美貌の人である。
「母上……」
少年が、抱きしめられた腕の中からか細い声を出す。女性は、細腕に力を込めて、少年を――我が子を、力強く抱きしめてその頭を撫でた。
「荀どの、彼らは、まことに信じてよいのであろうな」
「ご案じなさいますな、晋姚さま」
荀と呼ばれた老人は、剣柄に手を掛けながら力強く言い切った。それでも、晋姚と呼ばれた女性は、なおも声を震わせている。
「ですが、しょせんは卑しき市井の商賈どもでしょう。今まで智正卿を領主と仰いで生きてきた者たちであり、一たび敵に囲まれてしまえば、利に目が眩んで我らを売り払ってしまうのではあるまいか!?」
悲痛な叫びを挙げる晋姚の口元を、荀がそっと手で制した。今まさに彼女らの乗る車を御しているのは、その商賈の者たちなのである。荀は、それを聞かれたからといってすぐに手のひらを返されるとは思っていない。しかし、そういう問題ではなかった。
「彼らは、お二方のために身の危険を顧みず動いてくれているのです。そのつもりがあらば、疾うにお二方は智嚢の若造の屋敷に売り払われていることでしょう」
そう諭されて、晋姚は大きく息を吸い、吐き出すと、
「そうでしたね。浅ましいことを口にしてしまいました」
と、素直に自らの非を認めた。
少年はというと、大人たちの会話の意味が分からず、晋姚と荀の顔を交互に見ながら、目元をにじませていた。そこへ、前方から声がする。この車を御していた青年のものであった。
「何者かが迫っています。おそらく、智正卿の追手でしょう!! 馬速を上げますので、振り落とされぬようお気を付けを!!」
夜をつんざく、乾いた音がした。それが、御者が車馬を鞭打った音だと分かったときには車は加速し、揺れが激しくなった。そして、物音の車輪の響きとで騒がしくなった車上においてなお、はっきりと聞こえる音があった。
――追われている。
後方から、複数の地鳴りが聞こえてくる。車か、そうでなくば戦車が大地を抉る音であった。振り返ろうとして、晋姚はやめる。代わりに、剣呑な雰囲気に耐えかねて泣き出した腕の中の我が子を、思い切り抱きしめた。
その時である。木目の軋む音がした。それが、車の軒に矢が突き立った音だと知ると、晋姚は身震いした。
荀は、少年の視界が母の礼服のすそで覆われているのを確かめてから、静かに剣を抜く。もはやこの車は、いつ接敵されてもおかしくはないのだ。荀はその身に戎衣を纏っており、また、剣の技量にも自信はある。ただし、敵がどれだけいるかが問題であった。
晋姚らを守る者は、荀の他には御者の青年と、青年の連れている若い家人一人である。監視の目を盗み、目立たぬように少勢で脱出したことが裏目に出た。しかも、男手のうち二人は商賈の者である。戦えるのは荀ただ一人であるといってよい。
――せめて、あと半刻、敵が迫るのが遅ければ……。
その時には、晋姚らは目的の地へ無事にたどり着いていただろう。しかし、これは嘆いても仕方のないことであった。
馬鞭の音が連続して響く。その数と共に、揺れもまた激しくなっていった。
しかし、背後からの車輪の音はいっそう近づいてくる。そのうちに、喚声まで聞こえ始めた。
弦音が鳴る。雨のように降る矢は天蓋に突き刺さり、幔幕を引き裂いていった。
それでも、御者は手綱を離さない。しかしそんな奮闘も空しく、不運が逃亡中の車を襲った。前方の道にくぼみがあり、車輪が取られてしまったのだ。車は勢いよく横転し、車に乗っていた者たちは一様に夜の冷ややかな土の上に投げ出されることとなったのである。
背後からいくつもの炬火が、薄暗い空に明かりをもたらした。五乗の戦車が、晋姚らを囲んでいる。いずれも四頭立てであり、御者を含めて四人、武装した兵士を乗せていた。
「晋姚さま、御戻りください。我が主が心配なさっておられますよ」
この戦車隊の部将と思しき男が言った。言葉だけは慇懃だが、その声は、日の当たらぬ地下牢の風よりも冷淡である。
「白々しいことを申すでない!! 智嚢が求めているのは私たちの身の無事ではなく、私とこの子の首であろう!!」
晋姚は枯れがれの声で一喝したが、それは野犬の遠吠えよりも虚ろな響きを伴って、やがて夜の中へと融けていった。
「予條!! この、主に尾を振ることしか知らぬ恥知らずの孺子めが!!」
荀が毒づき、剣を構える。しかし、予條と呼ばれた男は冷笑をもって応えた。
「主人から厚遇を受ければ、その恩を忠誠でお返しするのは当然のことではないか。かつて賢人と呼ばれた人が、今では道理も分からぬほどに耄碌されたようである。嘆かわしいことだ」
荀は憤慨し、柄を潰さんばかりの勢いで剣を握る。しかし、数の不利があり、敵は車上の高みにいる。この状況では、予條らを打ち倒すことはおろか、晋姚とその子を逃がすことさえ難しいだろう。
――我が剣と奮闘に、荘公の佑けあらんことを。
そう念じてから、荀は車上の予條めがけて踏み出そうとした。
しかし、その前に、鳥声のような甲高い音が、やや白みかけた東の空に向けて鳴り渡ったのである。鏑矢の音であった。
「なんだ。朝寝をさまたげられて来てみれば、我が主人の邑内で、随分と剣呑な騒ぎを起こしてくれたものではないか」
晋姚らの後方から、予條の手勢とは異なる者たちが松明を持って進み出てきた。
十騎ほどの騎兵の集団である。馬に跨った兵というのは、この場にいる者たちにとってはそれだけで珍しいが、そのようなことなど気にならぬほど、この集団を率いる男の容姿は人目を集めるものであった。
一触即発の殺伐とした場の空気にそぐわぬ、どこか間延びした声をした男は、その身に大剣を担ぎながら、しかも右腕がなかったのである。
それが、鄭国監軍、顓項の家臣であり、顓族で驍名を馳せた猛将、共羽仞その人であるなど、この場にいる者たちには知る由もないことであった。
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