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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
君臣奔走

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不気味な勝戦

 かつて共羽仞が右腕を失った撃鹿の戦い。樊の荘公(そうこう)が畿内諸国を率いて顓族と矛を交えた戦である。


「こちらは勝っていて、追撃戦の最中だった。背を向ける敵の中に、踵を返してこちらに向かってくる者がいてな。士少将(ししょうしょう)の家臣、劉季推(りゅうきすい)と名乗る男だった」


 ここで少し、樊のかつての政治制度について、改めて説明しておく。

 かつての樊は政治を司る(じょう)という(けい)が三人。軍事を司る(しょう)という卿が三人。正、中、少の序列で存在した。樊の六卿と呼ばれる六人の貴族である。撃鹿の戦いの時の六卿は、


 正丞――智嚢(ちどう)

 中丞――韓札(かんさつ)

 少丞――維弓(いきゅう)

 正将――武釼(ぶけん)

 中将――魏盈(ぎえい)

 少将――士韜(しとう)


 である。このうち、韓札、武釼、士韜は戦死している。残る三人が今の樊における三卿であった。

 共羽仞と戦った劉季推は、士韜の家臣ということになる。


「樊の序列はよく知らぬが、その男は只者ではないとは思ったよ。潰走の最中に、戦車を引き連れてこちらへ吶喊してくるのだ。しかもそれが自棄の特攻という風ではなく、狂乱が飛び交う瞳の奥に(きり)のような鋭さがあった」

「“(しゃ)は軍の羽翼なり。堅陣を陥れ、強敵を要し、走り()ぐるを遮る所以(ゆえん)なり”、ですか」

「兵法というやつか。そちらは伯尹(はくいん)どのや監軍補(かんぐんほ)どのの領分だが、要するに、退くためには進まねばならぬ、ということだ」


 これが共羽仞という人が語る、退き戦の要訣である。どのような敗戦の最中であっても、逃げるためには一度は敵に進み、叩く必要がある。敗兵の背を狙い撃つつもりの驕慢な敵を痛撃し、怯んだところで踵を返して脱兎の如く逃げ去らねばならない。

 士韜の指示か、劉季推という家臣の独断かは分からぬが、樊国の軍の中にも、そういう感覚を持つ将がいたということになる。


「ともかく、こういう敵は手ごわい。なにせ、味方を逃がすために死を覚悟して向かってくるのだからな。実際に、そのせいで俺は撃鹿の地に右腕を置いてくることとなった」

「しかし、顓軍はその後、さらに樊国を追撃して大勝を収めたと聞いています」

「それだ。俺にもそこが、よく分からぬ」


 酔っていながら、しかし共羽仞の言葉は歯切れが悪い。

 以前、三秧軍(さんおうぐん)の軍議の場で撃鹿の戦いについて追想していた時もそうだったのだが、二日に渡る戦い、その中で顓軍の勝利が定まりかけたあたりから、実際に戦場にいた共羽仞の語りは精彩を欠いていくのであった。


「気持ちの悪い戦だったよ。しかも、俺は腕を取られて戦線を離脱し、気づいた時には勝っていたと知らされたのだが、この目で見ていないというのを抜きにしても、未だに実感が湧かぬ」

「ちなみに、共氏と戦われた劉季推という将はどうなったのですか?」

「そちらも分からん。俺が腕を失い落馬すると、もう興味を失ったようで戦塵の中へ消えていったよ。討ち死にするまで戦ったのか、奇襲を終えて退いたのか――」


 こちらについては、乾いた感想である。共羽仞ほどの豪傑が、自らの腕一本を奪われておきながら、その相手についてはほとんど感心らしいものはないらしい。


「別に、恨みなどないさ。生きていたからといって、どうということもない。そやつを殺したところで、失くした右腕が返ってくるわけではないからな」

「共氏は豪放な人ですね」

「嘆いたり、怒ってもどうにもならぬことはせぬというだけさ。感情の浪費ほど空しいものはないからな」

「感情の浪費、ですか。共氏は面白い表現をされますね」


 冬の夜風のほうがいくらか情調を含んでいる。言葉と裏腹に、盧靂胥の声は、それほど静かな声であった。盧靂胥は変わらず、背筋を伸ばし、右手に持った杯だけを動かしてゆっくりと酒を呑んでいる。腕と口元が動く以外は、ほとんど木石のようであった。


「なあ、靂胥どの。確か、おぬしと兄師(けいし)どのは血のつながりはないということだったな?」

「はい。あれは、私が先主から託された遺児でございます」

「……それにしては、おぬしと兄師どのは、あまりにも()すぎてはおらんか?」

洛林(らくりん)でもそう言われることはありました。ですが、顔立ちは先主に()ております」


 どこまでも淡泊な口調である。共に語っていると、盧武成と盧靂胥とは、とてもよく肖ているようにも、全然ちがうようにも思えてくるのだ。それが自身の観察眼の未熟さ故なのか、あるいは酔いがまともな眼力を歪めているのか、共羽仞には分からなくなってきた。


 ――そこまで大酒をしたつもりはないのだがな。


 今が何杯目かなど数えてはいないが、共羽仞の中では、まだ深酒というほどではない。しかしこのことは、考えるほど思考が錯綜しそうなので、話題を変えることにした。


「ところで靂胥どのは、妻はおらぬのか?」

「いません。私は、妻というものはもう娶らぬと決めておりまして」

「つまり、いたことはあるのだな」


 そう言われた時、それまで滑らかに動いていた盧靂胥の腕が、一瞬だけ硬直した。どうやらそれは、盧靂胥にとって語るつもりのないことのようであった。

 そして、そうならば、わざわざそのことについて深掘りなどしないのが共羽仞の性情である。誰にでも、聞かれたくないことくらいはあって当然なのだ。

 ここまで酒を酌み交わして共羽仞は盧靂胥のことを、


 ――あまり、自分のことを語りたがらない人らしいな。


 と感じ取った。それならばそれでよい。経歴や過去を知ることだけが、その人を知ることではない。そのようなことを知らずとも、相手を知ることは出来る。だから共羽仞は、そういう問いかけはしないことにした。

 その日はそのまま、鶏鳴が朝を告げるまで酒席は続いた。

 さすがに二人が、そろそろ切り上げて眠りに着こうとしたその時である。勢いよく、共羽仞の邸に駆け込んでくる者があった。それは、智氏との領境を(まも)っている兵からの伝令である。何か、大事が起きたらしい。共羽仞は(しょう)と寝具から遠のくこととなった。

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