共羽仞と盧靂胥
洛林を発った盧靂胥は、数日の後に羽欣の地の北辺にある村を訪れていた。ここは鄭国監軍、顓項の領地であり、今はその家臣である共羽仞が居を構えている。
晋崖と呼ばれるここは鄭国の北東の端であり、樊の三卿の一人、正卿智嚢の領と隣接する要地でもあった。そこで顓項は、麾下の中でも武勇に優れた歴戦の将を配置したのである。
盧靂胥がこの地を訪れたのは無論、盧武成の岳父たる共羽仞の門を叩くためであった。
顔を隠した訪問者ということではじめは警戒していたが、それが盧武成の養父だと知ると、この隻腕の猛将はすぐに磊落な笑みを浮かべて盧靂胥を歓待したのである。盧靂胥が共羽仞の下を訪ねたのは夕刻であったが、共羽仞は家人に命じてありったけの食事と酒とを並べさせた。
共羽仞はひたすらに上機嫌であり、酒を呑めば呑むほどに饒舌になってくる。はじめのうちは敬語であったが、次第に砕けた物言いになり、しかも盧靂胥が、
「そちらのほうが、共氏のことが知れますから」
と言って許してくれたことで、いっそう饒舌になった。
ただし対照的に、盧靂胥は静かに酒を呑んでいた。口こそ開くが言葉数は少なく、愛想のない振る舞いである。その、女婿に似た無骨で不器用なところが、共羽仞はますます気に入ったらしい。夜半になり、蔵してあった酒をすべて飲み切ってしまうと、家人に命じて、
「悪いが、追加で酒を買ってきてくれ。牛と荷車とを持って行けよ。寝ているだろうから、倍の値で買ってやれ」
と言ったのである。
「いけませんよ。貴方の飲み方に付き合わせては靂胥さんにも迷惑でしょう」
そう窘めたのは、共羽仞の妻である。舒林という人であり、巨躯長身の共羽仞とは正反対の小柄な女性であった。ただしその声はよく通るものであり、つい先ほどまで家人に叫んでいた共羽仞の威勢は、その一言で眉宇から吹き飛んでしまったのである。
「もてなしているつもりかもしれませんが、本当のところは客人にかこつけて貴方が呑みたいだけでしょう。転がっている酒瓶も、半分以上は貴方が空にしたものではありませんか!!」
「い、いやそういうわけではない。ただ、こんな辺鄙な地では酒くらいしか出すものがないと思ってだな……」
それは、見る者が見ればとても奇妙な光景であったろう。戦場では一喝で敵を怯ませ、隻腕ながらに大剣を駆使して剣刃の中に飛び込んでいく無双の勇者が、その胸あたりまでの背丈しかない女性にたじたじになっているのだ。しかも今は、流し目で盧靂胥に助けを求めている。
顔を隠している盧靂胥からは、その視線は見えていない。ただし、窮していることは察したようで、
「私のほうはかまいません」
と言った。
「不意の叩門でありながら、こうまで良くしていただいて恐縮しております。私は、主家の子たる武成に凛華どののような良き伴侶をいただけたことを有難く思っており、そのご尊父が私との対酌をお望みとあらば、刻の許す限りお付き合いいたしましょう」
盧靂胥の言葉で舒林は引き下がった。それどころか、娘を褒められたことに気を良くし、先ほどまでとは一転して、酒と肉とを買いに走るよう家人たちに言いつけた。共羽仞に言われた時には足踏みしていた家人たちであったが、舒林の言いつけとあると即座に行動に移したのである。
そのやりとりを聞いていた盧靂胥は、
「良き奥方でございますな」
と、ゆっくりと言った。しかし共羽仞は、恥ずかしいところを見られたと、無沙汰になった手で頭を掻いた。
「あれは、元は兄の妻でな。しかし兄は死に、しかもその前に三人に嫁して、三人ともに先立たれている。兄が死んだときにはいよいよ首を吊りそうだったので、見ていられなくなって俺がもらうことにした」
これは共羽仞が、まだ盧武成にも話していないことである。互いに親同士であるという想いと酒の酔いが、口を緩ませたのであった。
「そういうことがあったので、はじめのうちはしおらしくしていたのだが……しかし、あまりにも俺が死にそうにないから、段々と活気が蘇ってきたらしく――元気になりすぎて、今では頭が上がらん」
どのような猛将にも、勝てぬ相手というのはいるものである。長年の戦陣で積み上げた戦歴と武勇も、家では何の役にも立たないのだ。
「夫婦とはそういうものでしょう。共氏には溢れ出る陽気があり、それは過ぎれば毒となるものです。しかしそれが、細君の陰気によって鎮められている」
「ほう?」
盧靂胥は分かりにくいことを言った。それが陰陽の話だと分かった上で、なお難解である。
「陰気を宿す人は、かえって夜影のような妖艶さを孕むものです。今までの男たちが命を落としたのは、それを凌ぐ陽気を持ち合わせていなかったからでしょう。しかし今は、共氏の陽気に包まれているからこそ奥方は壮健であり、また貴方も、奥方の陰気によって破滅をまぬがれている」
「よくわからんが、まあ、俺がこうして生きていられるのは妻のおかげ、というところか?」
盧靂胥は頷いた。実際に、陰陽学を多少知っている共羽仞からしても、自らの対となるものがあるとすれば、それが舒林であるとは思うのだ。
「まあ、そうだろうな。もし妻がいなければ、きっと俺は腕どころか、命さえ失っていただろうさ」
「――それは、撃鹿の戦役でのことですか?」




